第69話 天馬誕生
ふと、鍋倉は思った。霧が流れているのではなく自分が信じられない速度で進んでいるのではないかと。霧に映し出される己の影が微妙に動いて見えたのだ。直接太陽を見ないように手をかざしその位置を確かめる。だが、巨大な黒い輪郭に太陽は遮られた。
それは山と思わんばかりの大きな影であったが、何であるのかは逆光で良く分からない。輪郭の形から人のようにも見える。果たして、鍋倉の動きと共にじわじわとそれは日の光に照らし出されていく。
驚くべくことに、山をも思わせる人型のものは、棚引く髪の間に二本の角を持っていた。
巨大な鬼! その角は一抱え出来そうである。そして、人の頭ほどの大きさの目が三つ、人の足ほどの犬歯が上からだけでなく下からも生えていた。
「ぎゃっ」と鍋倉は腰を抜かす。尻もちをついて、また霧に埋まってしまった。が、足場がどんどんせり上がり、今度は体全体が霧から抜け出した。そこで初めて鍋倉は、天駆ける鬼の手の平に乗せられているのを知った。目の前には自分ほどの大きさの指が五本立ち、反り返った爪の尖端は目と鼻の先で鈍い光を放っていた。鍋倉はぎょっとした。その指に握りしめられたらそれこそ命はない。かといって飛び降りることも出来ない。そこにまた、「がはははっ」と笑い声である。
されるがままの鍋倉は、青天を上へ上へといく。眼下に広がる雲海。そこを切り裂いて巨大な戦斧が頭を出す。寝かして持っていたのを縦に起こしたのだろう、少し離れたところからこちらに向けて飛沫を上げつつ斧頭が、そして、その柄へと徐々に戦斧が全容を現していく。挙句、それを握った左手が雲を突き破る。この時、はるか前方の雲海からも巨大な飛沫が上がっていた。
出てきたのは龍の頭である。だが、一頭ではない。さらにもう一頭も顔を出す。稲妻をひっくり返したような角に、鞭のような髭、そして、何を食いちぎるためにあるのだろう巨大な顎、そして、牙。
二匹は交互に頭を上下させ雲海を競り上がる。三本指の手、波打つ長い胴と雲海を順々に抜け出していく。固唾を呑んで鍋倉は、龍の頭から尾の方へ視線を送る。
思わず目を剥く。二匹の龍はこの巨大な鬼の股に挟まれていた。二匹は、この鬼の乗り物だったのだ。青天をぐんぐん進む。鬼の指にしがみついた鍋倉は、その指の間から顔を出す。この世のものと思えない景色であった。眼下の雲海は、降り注ぐ陽光の反射で白く輝き、まるでシルクサテンを広げたような、その風景がどこを向いても延々と続く。見上げれば空は爽快、一点の曇りもない。流れていく風は心地よく、遊び興じるのは恐ろしいはずの巨大な鬼。それが、縦横無尽に天駆ける。鍋倉はすぐに恐怖を忘れ、楽しくなった。
「雲の下はどうなっているんですか」
「がはははっ」と鬼が笑って、言った。「どかせば分かるではないか。それなのにおれ様に連れて行けだと」
「どける?」
「そうだ、自分で造った雲だろうに。それを、なぜ、おれ様に問う」
「自分で? なんで?」
「造った本人が知らなければおれ様に知る由もない」
そう言うと鬼はまた笑った。
そりゃそうだ。おれが造った雲ならおれが消してやる! と、ちょっと強がってみたが、だいたいこの光景からして夢幻に違いない。おれの夢なら何だっておれの思いのまま。だったらいっちょ、やってみますかと鍋倉は袖をめくる。そして、頬をピシピシはたき、雲よ、引けぇぇぇぃ! と大音声を発す。途端、雲がかき消えた。眼下を望むと緑豊かな山々、ずっと続く海岸線、そして真っ青で広大な大船原。
鍋倉は目を覚ました。掘立屋の傍で鴨川の仲間に馬から下ろされるところであった。意識ははっきりとしていた。「すまない」と皆の手を退け、自分の足で立つ。鍋倉はこの時、違和感を持った。悪い方のではない。何か心地よく、胸につっかえたものが無くなったような清清しさがあった。
皆に取り巻かれていた鍋倉は、幾つもの心配そうな顔を見渡し、「疲れただけだ。もう大丈夫」とその輪を割って出、馬の傍に立つ佐近次と夜叉蔵の前に出る。
「どうも体がおかしいんだ。悪い方じゃない。心地いいんだ。前より軽くなったというか、力が湧いてくるっていうか」
佐近次が夜叉蔵を見た。夜叉蔵がいつになく、まじめな顔つきであった。
「どうやら、金神が目覚めたようだな」
鍋倉はぞっとした。佐近次も驚き、「まさか」と口走る。夜叉蔵は言った。
「金神はいま、鬼善の中に有ろうとも元々鬼一法眼のものじゃった。その鬼一法眼は鍋倉の味方だったんじゃ。それが影響したのかもしれん。あるいは、高弁の気に影響されたか。高弁は内功で治癒も行っていたと言うぞ。それとも単に、鍋倉が金神に好かれたか。そのどれかかもしれんし、それが重なったからかもしれん。いずれにせよ、おまえさんは偶然にも金神を己のものにした」
夜叉蔵が懐から袋に入った笛を取り出し、「おめでとう。これはわしからの贈り物だ」と差し出す。そして、続けた。
「この龍笛の名は『漢竹の薄墨』といって、由緒正しい代物じゃ」
受け取ったはいいが、鍋倉は戸惑う。
「由緒正しい? そんな大事なもの、くれるのか」
どこからか、盗んで来たものじゃあるまいなと手に取って隅々まで確認する。笛の頭には『村』と金文字が彫り込まれていて、飾りが付くのが決まりである歌口の裏には、虫に食われたような穴もあった。
『村』ってあの村か? それに汚い穴が気になる、ほんとに由緒あるものなのかと鍋倉の目は疑りの眼差しに変わっていた。だが、逆にちょっと安心もした。これが盗んできたものに思えなかったからだ。それでも、大切なものをもらったのだからと一応、「ありがとう、夜叉じい」と礼をした。
「それ、吹いてみぃ。これは内功が強い者ではないと吹けんのじゃ」
たしかに指の穴も普通のより随分と大きい。鍋倉は歌口に息を吹き込んだ。その音色は鋭いなかにも厚みがあり、響きには気品もあった。見た目とは全く違うのに鍋倉は胸が躍った。
思いのまま竜笛を奏でた。その旋律は、応龍から生まれた天馬が己の誕生を喜び、天駆けるがごとくである。夜叉蔵をはじめ皆が息を飲み、聞き入った。かくして鍋倉の演奏が終わると歓喜の声が上がる。それでも興奮は冷め止まず、皆は喜びに飛び跳ねた。
平安京今出川邸では物見櫓に人が立ち、篝火の準備が始められていた。鞍馬四百人が物々しく警戒態勢を引いている。聖道門がどう動くか分からないと鬼善が八龍武に命じてのことだった。その鬼善は一人、昼の御座にいた。三方に八つの奥義書を積み上げ、そこに肘を突きその拳に己の顎を乗せていた。天下にまざまざと見せつけたのだ。最強なのは誰かを。『快剣掃雲』。晴れ晴れとした鬼善は悦に入っていた。そこに現れた鞍馬の僧兵が畏まる。鬼善は情勢を計るためにこの僧兵を神護寺に残しておいたのだ。
「申し上げます。聖道門の歴歴は意気消沈で何も考えられないようで、集まるどころか口もきかずそれぞれの山に引き上げて行きました」
そうだろう、そうだろうと鬼善はうんうんとうなずいていた。
「ただ問題が」
鬼善は余裕だった。なんだかんだ言って聖道門は現状、壊滅状態なのだ。
「申してみぃ」
「鍋倉が熊野別当快命と接触、そこには佐近次もいっしょでした」
思いがけないことに面食らった。鬼善が思っていた問題とは、聖道門の情勢の何かだったのだ。高揚が瞬時に冷え、どす黒い暗雲が心を覆っていく。
「八龍武を呼べ」
僧兵が即座に立つ。かくして、呼ばれた八龍武の面々が鬼善の前で平伏した。
「守りは万全に御座います」と道意。
その言葉を鬼善は無視した。
「陽朝と佐近次は現れなかったな」
八龍武の面々が顔を見合わせた。どの顔にも脂汗が浮いている。
鬼善はひとりごちるように言った。
「佐近次は『太白精典』を長年、狙っていた。また、鍋倉は陽朝を殺した。陽朝は月見を可愛がっていたからな。吉野での一件が世間に触れるのを危惧したのであろう。それで鍋倉を殺しに行って返り討ちにあった。この二人がいっしょにいる。しかも今日、神護寺で我らが引き揚げた後、快命となにやら密談していた」
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