第68話 神託
「八龍武、終わったぞ!」
鬼善の怒号に、道意をはじめとする八龍武の面々があわただしく演武台を上がっていく。そして奥義書をかき集め、おそるおそる鬼善の前にひれ伏す。鬼善はというと、差し出された奥義書を一瞥したかと思うと踵を返し階段へと向かう。
「帰るぞ! 八龍武!」
突然の言葉に耳を疑った道意らであったが、諫言する余地はない。あたふたと鬼善の後を追う。ところが、帰ると命じたはずの鬼善が足を止めた。ぎょっとした道意らは慌ててひれ伏す。ニヤッと笑った鬼善が言った。
「そうそう、高弁をわすれるとこだった。大事な金神を返してもらわんとな」
手の平をかざすと、高弁から立ち上がった金神の神気がその手の平に吸い込まれていく。果たして、高弁は息を吹き返した。日頃の精進の賜物なのだろう。だが、その高弁を鬼善は嘲笑った。
「悪運の強いやつめ」
そう言い捨てると鬼善は、高笑いを残し境内を去って行った。もしものことを考え、参道には鞍馬四百人を待機させていた。その無傷の伏兵共々、鬼善らは早々に高雄山から姿を消す。かくして、神護寺の境内は殺伐とした。試合の前、溢れかえっていた観衆は八千人。それが今この瞬間まで意識を保っていられたのは高台を含めたった二十八人のみであった。
それから程なく、鍋倉は目を覚ました。おぼつかない足元でなんとか起き上がると夜叉蔵と佐近次に両脇から支えられた。
「どうしたというのだ、これは」
目に入る光景は凄惨を極めた。包帯に巻かれた負傷者とそれを看病する者ら。そして、死体とそれに手を合わせる者たち。それらが、演武台を埋め尽くしただけでなく境内のいたるところに溢れていた。そこかしこから呻き声や泣き声、読経の声が聞こえる。
「どっちが勝ったのか?」
佐近次が険しい顔を見せた。
「今出川鬼善が勝ちました。奥義書もやつがすべて持っていきました」
鍋倉は言葉を失った。
鬼善が勝つとは分かっていたが、これほどまでの悲惨な光景。想定外なうえ、最悪の結果だった。誰もが肩を落とし暗い表情をしている。聞こえるのは苦痛を訴える声と悲しむ声ばかり。
と、この時、「鍋倉殿、鍋倉殿」と声が聞こえた。それがあまりに陽気で弾むような声だったのに鍋倉は向かっ腹が立った。こんな時にいったい誰なんだ、と呼ばれた方を向く。
遠目に見えたその顔を鍋倉は忘れもしない。吉野で会った気持ちの良い御仁、熊野別当快命である。「鍋倉殿も来ていたのか」と足の踏み場のないところをジグザクに向かってくる。それが目の前までやって来ると「なぜ、来るなら来るとおっしゃってくれなかったんじゃ」とふて腐れ顔になった。注意することも出来ず鍋倉はあんぐり口を開けているほかなかった。
久しぶりに会ったというのにどうも愛想がない。そう思った快命は己を顧みた。聖道門は今、壊滅の危機にあえいでいる。そして、己はその一翼を担う熊野別当という立場。当然、身内からも相当な被害を出している。普通なら頭を抱えこそすれ浮かれはしまい。快命は慌てて真面目くさった顔を造った。
「鍋倉殿、で、どういう訳でここへいらした」
夜叉蔵が素早く口を挟む。
「物見遊山で。武芸を志す者の性ですかねぇ」
鍋倉でなく夜叉蔵が答えたのに快命がむっとした。
「鍋倉殿。この御仁らはどこのだれじゃ」
「夜叉蔵と佐近次、おれの友人です」
「夜叉蔵? はて、どっかで聞いた名だな」
快命は眉間に皺を寄せ、顎髭に指をあてがう。それは明らかに何かを思い出そうという素振りである。ぎくっとした夜叉蔵は、「ああああっ」と訳の分からない声を発しながら顔の前で手をばたばた振る。快命はその夜叉蔵に冷ややかである。素性を知られたくないのだな、と疑りの視線を投げかけていた。夜叉蔵はというとそれが分からぬほど鈍感ではない。その場を取り繕う。
「虫、虫がいたんじゃ。わしは無類の虫嫌いなんじゃ」
そんなこと、今の今まで聞いたことがない。呆れ返っている鍋倉であったが、佐近次は慣れたものである。
「紹介しろ、鍋倉」
夜叉蔵を無視する佐近次は、いかにも冷静である。鍋倉は言った。
「熊野別当の快命様だ」
即座に、夜叉蔵と佐近次がひざまずいた。一方で、鍋倉はその変わり身の早さに驚いた。ええっと二人を交互に見る。快命は快命でいよいよ以って引っ掛かってしまう。どこかで見た光景。それが、ひざまずく夜叉蔵と脳裏で重なろうとしていた。
「はて、どこじゃったかな」
思い出そうとするその場面も、おそらくは今と同じように緊迫していた。
あ、しまった。快命は鍋倉の友らをひざまずかせたまま放っておいたのを気付く。「ああっ」と慌てて、「よい、よい、鍋倉殿の友人なら」と立つようにうながす。だが、それにしても、と思う。
「残念じゃ。鍋倉殿もあの混乱に巻き込まれたか。ほんとに残念じゃ。鬼善のやつに敵うとしたら、もう鍋倉殿以外思い浮かばぬ」
買いかぶりすぎだ。鍋倉は慌てて言った。
「めっそうもありません。おれなんか、ものの役にもたちませぬ」
「そんなこと言わないで下され。奥義書も持って行かれ、我らはやつの言うがままじゃ」
「しかし、おれはもう聖道門ではないし」
「そんなこたぁ関係なかろう。御覧なさい。これは戦の跡どころではない。まるで天魔が降臨したようではないか」
死傷する多くの僧兵。それを嘆き悲しむ者たちの姿。それは地震か野分かその後に見る光景に近かった。だが事実、それは人の手で起こった。快命の言う通り、天魔の所業としか思えなかった。
「やつぁ、盟主なんて興味がなかったんじゃ。奥義書を手に入れたらとっとと帰って行きやがった。許せぬ」
確かに、もう聖道門も念仏門もあったものではない。そう思う鍋倉の気持ちをよそに、夜叉蔵は言った。
「目立つとこの鍋倉の災いとなりましょう。申し訳ございませんが、われらはこれにて」
快命と語らう鍋倉。そして、ひざまずく夜叉蔵ら。周りの注目がちらほら集まりだしていた。今や鍋倉は吉水教団の英雄、つまりは聖道門の仇敵なのだ。話す相手が熊野別当であろうとも、夜叉蔵と佐近次は鍋倉を強引に引っ張っていく。
「あ、まて、まて、分かった、分かった。すいません、快命様。また機会がありましたら、ぜひ」
鍋倉は引きずられるまま頭を下げ下げした。そんな三人が石段に姿を消すまで見送った快命は、改めて神護寺を見渡す。境内は悲しみに溢れ、それを目の当たりにする己の心も冷えていくのを感じた。
「不思議な御仁じゃ。また縁があることを願わずにはいられない」
かくして鍋倉は、夜叉蔵と佐近次の肩を借り参道を下る。この三人と同じように仲間に助けられて進む僧兵は多数で、一人でとぼとぼ肩を落とし、あるいは杖を突いて歩いている者も少なくない。それら多くの人の流れに乗って、鍋倉らは自分たちが繋いだ馬のところまでやって来た。
幸運にも盗られずに馬はあり、夜叉蔵と佐近次は共々胸をなでおろす。そこからは鍋倉を馬にのせ、その馬を夜叉蔵が引くという態で平安京の鴨川に向かう。
やがて鴨川の河原、掘立屋はもうそこ、というところまで三人はやって来た。ところが、その時になって鍋倉に異変が起こる。朦朧と馬上に揺られていた鍋倉であったが突然、「ぎゃっ」と奇妙な声で叫んだかと思うと気を失ってしまう。馬のたてがみに顔をうずめ、呼吸はというと、虫の息であった。
目を覚ますと、そこは白一色の世界だった。風も吹いていた。袖や袴がものすごい勢いで波打っている。おもむろに手を前に伸ばす。指先が霞がかって見えた。ここが一面真っ白なのは霧が掛かっているせい。だが、どういうわけでおれはここにいるのだろうか。たしか神護寺から帰路についていたはず。夜叉じいと佐近次さんと共に、おれは馬に揺られていた。
見渡す限りの深い霧。そのうえ、夜叉じいも佐近次さんもいない。そもそもおれは気分がすぐれず、動くのもままならなかった。なのになぜ、おれは一人でこんなところに来てしまったのか。強風に吹かれる霧はかき消されるどころか次から次へと際限なく押寄せて来る。それどころか、時よりぶ厚い塊が飛来してきた。体に当たると、ばっと散って後ろに流れて行く。
「ここはどこだ? 大変なところに来てしまった」
また、霧の塊が襲って来た。前腕で顔を覆った鍋倉に霧の塊がぶつかってきた。ばっと、まるで荒波のしぶきのように霧が散って行く。
「雲の中じゃ」
誰かが鍋倉の問いに答えて、「がはははっ」と笑った。聞きなれない声であった。しかし、知らない声ではない。
「雲の中だと。いくらおれが馬鹿だってそんなの、騙されはしないぜ」
また、「がはははっ」と誰かが笑った。
鍋倉は声の主を探し、きょろきょろとあたりを見廻す。霧ばかりで何も分からない。途端、体が宙に浮くのを感じた。上へ上へと昇っていく。
「なんだ、なんだ」とわめき散らしていると思いがけなく霧から頭だけを出すことが出来た。
海の如くである。霧は地平線の彼方まで続いていて、雲ひとつない青天と境をなしている。青と白の世界。その他は全く何も見えなかった。俯くと肩から下を埋めている霧がどんどん後ろに流れ行く。真上を見た。日から放たれた陽光が放射状に鋭く、青い空を刻んでいた。
読んで頂きありがとうございました。次話投稿は日曜日とさせていただきます。今後ともよろしくお願いします。




