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掃雲演義  作者: 森本英路
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第67話 武の頂


 鬼善は、高弁に急接近した。待っていたとばかりに高弁が絶妙な間で手を伸ばす。その手を、鬼善はかわすことが出来ず襟を掴まれた。次の瞬間、物凄い勢いで床が迫って来た。あとは支離滅裂である。視界にあるのは木の破片に砂煙、そして己の手や足。鬼善は高弁に投げを打たれたのだ。それも、あまりに強烈な投げであったために演武台の床をぶち破って、地に打ち付けられてしまった。


 緊張の面持ちで床の一点を見据える観戦者ら。高弁は鬼善を倒すことが出来たのだろうか。皆、固唾を呑む。が、やはり、それは叶わなかった。意識朦朧の中で鬼善は、床下で頭を二度三度振った。


「くそぉーーーっ」


 穴の空いた演武台の縁に手を掛けた鬼善は追撃を警戒しつつ、そこから顔を出す。すると、ずっと離れた位置に仁王立ちの高弁。大きく間合いを取ったところを見ると取り敢えず追撃はないな、と安心した鬼善はひとりごちる。


「ものすごい力だ。くそおやじに痛めつけられたのを思い出したわ」


 『洗髄経』の効能だろうか。細身の体から放たれる技の威力とは思えない。膂力りょりょくは軽く鬼善を上回っていた。だが、その高弁がぐらっとゆれて片膝をつく。


「あの一瞬では足らんのか」


 襟を掴まれたその瞬間に鬼善は金神の神気を注入していたのだ。その高弁が動けない内にと演武台に上がった鬼善であったが、当の高弁はというと、いまだ動けずじまいである。千載一遇と鬼善は猛然と走る。ところが、高弁の姿が消えた。咄嗟に見上げる。高弁が宙に踊っていた。鬼善も飛んだ。二人は空中で鼻先を合わせたかと思うと高速回転でこぶしと肘をぶつけ合う。そして、着地。と、同時に高弁の頭突きである。


 避けることが出来ずに鬼善は、それをもろに食らってしまっていた。ぐらっと上体が揺れ、両膝を床に落とす。そこへ待ち受けたような高弁の蹴りである。鬼善はかろうじて両腕で防御したものの凄まじい衝撃。気が遠退とおのくのと同時に、己の支配下にない体が宙に浮き、遂には演武台に打ち付けられた。鬼善は、飛ばされた勢いそのままに床を転がっていく。


 観戦者らの大歓声。意識が吹っ飛んでいた鬼善は、耳につんざくその声援に意識を取り戻す。砕けた腰に両の手も使ってなんとか立ち上がった。


「くそぉ、力負けしてやがる」


 いまだおぼつかない己の足元に苛立ちを覚える。しかも鬼善は、高弁の頭突きで額が裂けてしまっていた。大量の血が湧き出し、それが眉の間に刻まれた深い皺を伝って目頭に入ってくる。一方の高弁は高弁で、優位であるにもかかわらず動けないでいる。先ほどの中空にある間にもやはり、鬼善に金神を注入されていたのだ。ひざまずいて両手を床につく。


 沸き返る観戦者らの中、高台の夜叉蔵は呟いた。


「我慢比べだな」


 外傷の鬼善と内傷の高弁。どちらも極点に達しているように思えた。戦況は予断を許さない。高弁の勝利を期待する観戦者らは、声をからして高弁を鼓舞する。「立つんだ、立ってくれー」とか「諦めるな」とか「もう少し、あと一発だ」とか。飛び交う声援の中で佐近次は大きくかぶりを振った。


「我慢比べ? いや、そうでもないさ。高弁の体内にある金神を操り、内功の根源を断てばいい」


 夜叉蔵が言った。


「そうかの。鬼善のやつ、まだその自信がないのじゃろう。太刀を飛ばしたといっても神刀ことひらのおかげよ。偶然にも一足飛びに奥義まで到達したが、その中間の金神自体の操作はまだおぼつかない。念じている間に高弁の会心でも食らったら全てが水の泡じゃ。実際、今日の今日まで鍋倉はぴんぴんしておるしな。それに今さっき順覚のところで一度賭けをしたんだ。それも一世一代のな。ああいうやつはもう二度と勝負に出ようとはしない。つまりじゃ、やつの心境はもうちょっと金神を注入して、高弁をじわじわ弱らせ動きを止めたいってとこじゃな」


 夜叉蔵の言う通り、鬼善はなおも肉弾戦を挑む。床に手を付く高弁目掛けまっしぐらに向かうと床を滑って、高弁の頭に打撃を加えるべく脚を揃えた。身を起こす高弁。その横を滑り抜けたかに思った次の瞬間、鬼善は両の手で床を押さえ急停止。背面で床を跳ね立ち、そこから間髪入れず脚技を繰り出す。


 右、左、右、右。鬼善は、高弁の左脇、右脇、左側頭部、胸と狙っていく。


 だがそれも、一つ二つとかわされていき、疲弊ひへいして繰り出す技が単調になったためだろうか、最後の胸を狙う右の突き蹴りを高弁に合わされてしまう。陰々滅々、鬼善は右足を取られ、果たせるかな、そこから強引に振り回される。


 渦に巻き込まれたような鬼善。一方で、回転速度を上げていく高弁。


 回転するたびに、鬼善の体には強烈な遠心力が上乗せされていく。全体の血が頭に集まり、外へ外へと引っ張られる力で、鬼善は全くもって体の制御を失う。目にるものなぞあったものではない。金堂、山門、五大堂、高台と何もかも視界を横ぎっていく。そして、ついにはそのどれもが形をも掴めぬようになり、つかの間、全てが筋模様でしかなくなる。


 その遠心力そのままに鬼善は、高弁に高々と放り投げられてしまった。宙を浮き、強烈な遠心力から解放された鬼善だったが、無情にも今度は地に引き寄せられる。果たして、演武台に叩きつけられた。視界が白む。そこへ激痛。が、いまだ自身は床を弾んでいる。


 激痛の連鎖。波紋と波紋がぶつかり合って波が倍加していくように痛みがどんどん積み上げられていく。だが、それも度を超えれば無いに等しい。完全に麻痺してしまっていた。バタバタという己が転がる音と共に、視界が空、演武台と交互にやって来て最後は床の木目のみとなる。それでも、鬼善は床越しになんとか高弁を見た。その高弁も満身創痍であった。ひざまずいていたのが、ぐらぐらっと揺れて顔から床へ崩れ落ちる。


 観戦者らは固唾をのんだ。立ち上がるのはどちらなのか。高台の夜叉蔵は唸った。 


「さて、どちらが勝つのやら。佐近次、お前さんにとってみればどっちでもいいんじゃないのか。もし、鬼善なら何とかなりそうじゃし、高弁が勝っても金神の神気を受けてしまっているんじゃ。内傷を治せるのは『易筋経』しかない。それをお教えしましょうと高弁に『洗髄経』を差し出させる」


「そういうことなら、なおさら高弁は差し出さない。会って分かった」


「ならば佐近次。おまえは鬼善を応援するか? そもそも高弁はこの戦いに反対していた。己が勝ったとしても盟主の座などには付かないだろう。盟主は南都北嶺。それじゃぁ同盟の政庁は平安京に来ても、奥義書は平安京に来やしない。必然、わしらは鬼善を応援する立場じゃ。つまりじゃ、おまえは祖国が誇る『洗髄経』を差し置いて、倭人の武術が勝つのを願う。どうだ? 佐近次、複雑な気分じゃろ?」


 なぶられているのが分かっている佐近次は答えなかった。視線を演武台に戻す。


 横たわる二人はうつ伏せで、その表情はつかめない。ただ、鬼善に限って言えば、その外傷が深刻なのはうかがい知れた。顔に接する床面が血で真っ赤に染まっていたのだ。高弁の頭突きがよっぽど強烈だったのだろう。それにあの遠心力だ。床に流れ出た大量の血は塗られたように薄っぺらではなく、水溜みずたまりのようであった。そして、その血の水溜まりはなおも床を浸食し続けている。


 観戦者の誰もがこの状況からして高弁の勝ちを確信していた。だが、それは希望的観測に過ぎない。物静かな高弁の方が状況はさらに深刻だったのだ。事実、先に立ちあがったのは今出川鬼善。ふらふらと身を起こすと演武台から下の観戦者らへ体を向けた。鮮血に染まる鬼善の顔。そこに不気味な笑いがじわじわと満たされていく。


 演武台すぐ下の観戦者。高台に避難するのをよしとせず、高弁の気にも圧倒されなかった豪の者達。それはたった十数人だったが、一様に言葉を失っていた。高弁が負けたのもそうだが、鬼善の不気味な形相に絶句していたのだ。その鬼善がいまだに伏している高弁に向けて右手のひらをかざした。そして、気合の声をあげる。


 鬼善は何をしているのか、と観戦者の誰もが思っていた。かざした右手のひらは小刻みに震えている。表情も眉間にしわを寄せ、鬼気迫っていた。明らかに遍照らの時と違う。


 突如、高弁がのけ反った。鬼善は高弁から金神を解き放ち、楽にしようとしていたのではない。高弁に注入した神気で経絡けいらくを絶ち、勝負を完全に終わらせようとしていたのだ。高弁はというと鮮血を吐き、びくびくと痙攣けいれんしてしまっている。


 完全覚醒。夜叉蔵は『太白精典』の習得にも段階があると言っていた。神気の物体内部への伝達、そして操作。特に生命活動を行なっている生物内部での、神気の操作は難しいとされていた。今出川鬼善は順覚との闘いでそれを飛び越し、奥義ともいえる物体そのものの操作を完成させていた。それだけに、この難しいとされる人体内での神気の操作を試す必要があった。一足飛びに奥義を極めたといえども、それは神刀ことひらがあってこそなのだ。


 しかし、それも杞憂きゆうに終わる。幸運もあったが、事ここに至り『太白精典』の全てを手に入れた。今出川鬼善は父、鬼一法眼の域に達した、と言ってもいいだろう。







読んで頂きありがとうございました。次話投稿は木曜日とさせていただきます。今後ともよろしくお願いします。

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