第66話 百戦錬磨
「ずっと鍋倉といっしょだったのだろ? 夜叉蔵。なぜ金神の内功を教えない」
そう佐近次が問うと夜叉蔵は言った。
「それはお互い様じゃて」
「一緒にするなよ。わたしの内功を伝授するには、それ相応の手続きがいる。わたしの一存ではいかないのだ」
「なるほどな。東夷の蛮族に教えるものは何もないってか」
「話を逸らすな。今はわたしが問うておる」
「佐近次、おまえ、霊王子をどう思う?」
「それが何の関係がある」
「いい娘だとは思わんか?」
「何が言いたい」
「鍋倉にお似合いじゃないかと思ってな」
「そう思うんだったら尚更あんたがなんとかすればいい」
「ちがうんだな、佐近次よ。ものには順序ってもんがある。今の鍋倉には竜笛じゃ」
「笛? それなら、それこそ順序が間違っている」
「そうじゃろうか。のう、佐近次よ。人は夢とか希望とかでは生きていけない。そうは思わんか?」
「これは異なことをいう。では、人は一体なにで生きていけるというのか」
「それはの、楽しみじゃ。楽しみがなければ人は生きていけぬ。鍋倉の曲に霊王子が歌を乗せる。聞いていてさぞ楽しかろう」
「その楽しみも国があってこそだ」
「若いのぉ、佐近次。わしほどに歳をとるとおまえも分かるようになろう。夢も希望もない。今、わしを支えているのは日々の楽しみのみじゃ。国のことなぞ考えたこともない。笛を吹き、楽しい話をする。わしはそれさえ邪魔されなかったらそんなこったぁ、もうどうでもよいのじゃ」
「それで盗人か。金品目当てではないと思っていたわ」
「ほっとけ」
「いいや、言わしてもらう。おまえのその楽しみのためにどれほどの人が迷惑したか」
「馬鹿を言え。わしは貧乏人からは何も盗ってやせんて」
「で、今度は鍋倉か?」
「大丈夫じゃって。鍋倉はな、内傷や毒に侵されていると思っているから大人しくしている。笛しかやることがないんじゃって」
「と、いうことはだ、夜叉蔵。おまえは自分のために鍋倉の命を弄んでいる」
「悪いか? じゃが、心配するな。霊王にしたって悪い女じゃない。わしゃぁ、あやつが教団に入るずっと前から知っているんじゃ。間違っても人に毒を盛るような女じゃないって」
各山の歴歴や八龍武を除いて観戦者で残ったのは、高台も含め内功の優れた者達だけ。それは三十人を割っていた。その者らが一様に、演武台で対峙する鬼善と高弁に固唾をのんだ。この二人の戦いが恐ろしいものになることは想像に難くない。
それは当事者の鬼善も感じずにはいられなかった。高弁と最も近い位置、演武台上でその気をもろに受けたのだ。体が小刻みに震える。だが、圧倒されたわけでない。怖いわけでもない。これこそが望んだことだと鬼善は思う。震えは武者震いなのだ。
「貴様、僉議の時、勝者が盟主ということに反対であっただろう。なぜだ? それほどの力を持ちながら」
「南都と北嶺が交互に。それが盟主のあるべき姿だ」
「それでか。貴様、勝者となって各山に奥義書を返還しようとしていたのだな」
考えに共通性は見当たらないが、片耳を自らの手で切り落とし、しかも密かに『洗髄経』をものにするため血の滲むような修行をした。狂っているとしか言いようがない。だが、そこは自分と同じだと鬼善は共感を覚えた。だからこそ、この日、いや、生涯初めて敵に対して構えを取った。
一方で、高台にいる佐近次は気をもんで苛立っていた。
「『洗髄経』は無限に気を造り出す気功法だが、相性が悪い。勝機を得るとすれば量で圧倒する以外無い」
ひゃひゃひゃっと夜叉蔵は笑った。
「なにが悪いか? お前さんの気功は制御、統制、精錬だろ。今出川鬼善との相性が良い。『洗髄経』は今出川鬼善に奪わせてからって方がおまえにとって都合がいいんじゃないか。なにしろ高弁はあの調子、堅物だからな」
「狸め、同盟潰しにわたしを利用しようと考えていたな」
「あくまでも最後の手段じゃて。わしとて初めは盗みだけでことを終わらせられようと考えていたんじゃ。ま、鬼善めがあの調子じゃ、仕方がない。三人でかからんとまずいわな」
ひゃっひゃ、夜叉蔵は笑う。
すでに演武台では戦いが始まっていた。鬼善は疾風に駆け、高弁の直前で錐もみしつつ飛び、宙に浮いたそこで回転蹴りを放った。まるでつむじ風のようである。
ところが、それを苦もなく高弁が外す。体を右に傾けただけ。鬼善の右蹴りはというと高弁の左耳上にむなしく空を切っていった。
ま、挨拶代わりだと鬼善は、宙で回転しつつ高弁の顔目掛け後ろ蹴りを放つ。が、それも、退け反る高弁の鼻先にかわされてしまった。
二度の攻撃を外され、錐もみする鬼善の姿勢は宙で演武台と平行になっていた。当然、高弁は落ちたところを仕掛けてくるに違いない。となれば高弁は、一撃入れんと早っているはず。鬼善はそこに隙が生まれると考えた。出会い頭に蹴りを叩き込んでやろうと鬼善はもうすぐ床が背に着くその体勢から、両足を素早く引き戻し、高弁の胸元目掛けそれを放つ。
ところがこれもまた見切られてしまった。半身に体を入れ替えた高弁の胸先に旋風を走らせるのみ。
読みは外れた。といっても、まだまだ高弁が攻撃に移る気配はない。三発放ち、もう宙にとどまっていることが出来なくなった鬼善は、背中から床に着地した。
相手にしてみれば絶好の機会である。さすがの高弁もいいかげん仕掛けて来るだろう。そう考えた鬼善は機先を制してやろうとそこから蟹ばさみを仕掛ける。
ところが、その高弁はというと鬼善が落ちてもなおも攻撃を誘っていた。仕掛けてくるとするなら蟹ばさみしかない。そして、その考えは図に当たる。待ち構えていた高弁は、両膝を己の胸元に引き上げてそれをすかし、返す刀で床に横たわる鬼善の上にその両足を落とした。
技を出せるまで出さしといて最後にこれか、学生ごときがまるで百戦錬磨だな。ハメられたようで面白くない鬼善はそれでも動じない。順覚との闘いがいい経験になっていたのだろう。外された蟹ばさみの流れから両足を広げて旋回。高弁の床を打つ衝撃音を背後に聞きながら、鬼善は回転の勢いそのままに立ち上がり、トンボを切って後退、大きく間合いを取る。
全てが一瞬の出来事であった。
数少ない観戦者からどよめきが上がった。その一方で夜叉蔵はにしゃっと顔を崩す。
「なかなかどうして。高弁もやりよるの。今までだれも鬼善の攻撃を避けることが出来んかった。となればいよいよ噂は本当のようじゃのう」
「やっと聞かせてもらえるのか? 高弁のことを」
夜叉蔵は、にしゃっと笑った。
「ああ、噂があってな。高弁には神通が備わっているって。座禅を組んでいてもどこで何が起こっているのか分かるとか、未来が見えるとかな。鬼善の動きも目で捉えているのではなく別の感覚で捉えているのかもしれん。本人が生来持った資質か。もしかすれば、それは『洗髄経』の効能かもな。佐近次、うれしいか?」
佐近次は答えなかったが、やはり喜びを隠せない。目が輝いているその様子に、へへっと夜叉蔵は笑う。
「ところでおまえさんの術、『易筋経』だろ?」
演武台での戦いはというと、大きく局面を変えていた。猛進する鬼善に、正面からの攻撃を嫌ったのか高弁が大きく回り込み、明後日の方向に走る。逃がすまじ、と鬼善は向きを変え、その高弁と並走する。
一方で、佐近次の答えを待っていた夜叉蔵であったが、佐近次はというと好意的ではない。気分を害したのか憮然とした表情を見せた。
「少し黙っていてくれないか」
『易筋経』は、天竺から渡って来た達磨大師が嵩山少林寺に伝えたものである。『洗髄経』と合わせて一対とされ、佐近次がその一方の『易筋経』を習得しているとなれば、南宋の皇帝の命というのも眉唾物である。結局のところ、私利私欲かもしれん。そう思っている夜叉蔵はもっとなぶってやるつもりだった。にしゃっと顔を崩した。
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