第64話 消魂
とってかえした鬼善は、演武台に残った遍照ら二人を睨みつけた。身構える遍照ら。それに答えるかのように鬼善が演武台へ向けて疾風のごとく走り寄る。だが、今度は飛ばず身を低くして演武台の下に潜り込んだ。
静けさが漂った。聞こえるのはうめき声ばかりである。
突如、どかんという轟音と共に、鬼善が演武台の床をぶち破って遍照ら二人の背後に現れた。度肝を抜かれた二人はというと、機先を制せられ、詰め寄る鬼善の攻撃にあえぐ。完全な接近戦。こうなれば長棒は不利である。早々に遍照を残し、もう一人も倒れてのたうち回る。
「最後に残してやったぞ、遍照。さて、どうする?」
そう言って鬼善が腕を組む。
その鬼善の態度に遍照はカッとなった。真っ赤に顔を染め、手にある長棒を膝で二つに叩き折る。そして、それを両の手それぞれに持ち換えて、ひゅんひゅんと振り回したかと思うと構えをとった。
「鬼善、いい気になるなよ」
その遍照の言いぶりに鬼善は高笑いをし、組んだ手を解く。かかって来いという意味なのか、右手を遍照に向けて伸ばし、手の平を空に向けた。そして、指四本をちょいちょいっと動かす。
逆上した遍照は、軽功を使って瞬く間に鬼善に接近したかと思うと猛攻を加える。せせら笑う鬼善は、しばらくは遍照のやりたいようにやらせていた。が、それも飽きたのだろう、鬼善は「五月蠅い!」と遍照の左右それぞれの手首を掴んだ。途端、遍照は崩れ落ちる。
天下の五強が手も足も出なかった。それもあの軟弱な今出川鬼善に。観衆は信じられない想いで放心していた。ところが、思いもよらない光景に目を奪われる。そこに立っている男は、勝者の雄叫びを上げるでもない。まるで快感の余韻に浸るような恍惚の表情。鬼善はうっとりとたたずんでいた。
観衆の誰もが背筋を凍らせた。
狂っている。聖道門はもうお終いだと誰もが思ったその時、金神の神気を受けたはずの遍照は立ち上がった。血反吐を顎に垂らしながら、ふらふらとその足元はおぼつかない。それでも、その目は死んではいなかった。まだ奥の手を隠している、そんな目をしていた。
片腹痛いわーーーーっ!
鬼善はこぶしを堅く握る。そして、大きく振り上げたかと思うとありったけの力を込めて遍照目掛けそのこぶしを放つ。
遍照が言った。
「柳っ!」
『柳』は『流』であり、『三武書』の奥義である。点穴が主体である中、攻撃だけでは武術書としてはやはり片手落ちである。この『柳』がその一方の防備であった。
鬼善のこぶしが触れるか触れないところで遍照は、上体を大きくのけぞらせた。空を斬るこぶし。驚きの色を隠せない鬼善はそれでも手を緩めない。再度こぶしを放つ。果たして今度も、遍照の上体は風に吹かれる柳のように揺れ、鬼善はというと己のこぶしを遍照に当てることは叶わなかった。
『柳』は、点穴に対しての守備として考え出された術である。要諦は、気の圧力に身を任せる。その奥義の名から分かるように相手が強い気を発すれば発するほど効果的となるのだが、鬼善はというと完全にキレてしまっている。めったやたらにこぶしを放つ。
「死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね」
凄まじい数のこぶしの残像。だが、無数に放たれたはずのこぶしの全てが遍照の『柳』に外されてしまう。
鬼善は言った。
「ふにゃらふにゃらと、海藻かっ、貴様はっ!」
「百烈指っ!」
遍照は気合いの声を上げたかと思うと人差し指で、鬼善の体という体の経穴を次から次へと突いていく。その勢いは止まらない。
「りゃりゃりゃりゃりゃりゃりゃりゃりゃりゃりゃりゃりゃりゃりゃりゃりゃりゃりゃりゃりゃりゃ」
先ほどの鬼善のこぶしの残像も物凄かったが、遍照も負けず劣らず凄まじい。そして、その攻撃を受けた鬼善はというと体を伸ばされ大の字に立たされてしまっていた。やがて最後の一撃を放ち終わった遍照。肩で大きく息を吸って吐いた。
その遍照が言った。
「これが『三武書』である」
鬼善は気を失った。大の字の姿勢そのままに後ろへ倒れていく。
床を打つ音。と同時に境内は歓声の渦となる。「さすが遍照様!」とか、「『三武書』こそが最強っ!」とか、絶賛の嵐である。
当の遍照はというと血反吐を吐き、勝ったと雖もこちらも気を失う寸前である。膝に手を突き、上体が倒れてしまうのをなんとかそこで持ちこたえていた。賛美に答える余裕なぞないし、もちろん、もう戦える状態ではない。
といっても、対戦相手はまだ二人も残っている。このまま倒れてしまっては、その二人のどちらかが盟主となってしまう。遍照としては、是が非でもそれは避けたかった。
もっとも強い者が盟主となる。これではだだの運。冗談ではない。くじ引きといっしょではないか。正直、四対一ならばと鬼善をなめてかかったのがいけなかった。遍照はひどく後悔していた。
しかし、終わったことはどうにもならない。後に残ったのは二人。その一人の高弁はともかく、順覚だ。『筒井家伝』がどれほどのものかは見当もつかない。だが少なくとも、『三武書』ほどのものはないだろう。とめどもない血反吐を吐きつつ遍照は、そう考えていた。
ところが、である。鬼善が立ち上がったのだ。あらゆる経穴を破壊し尽くし、鬼善はもう死んだも同然なはずであった。それがどういうわけか頭を振ったかと思うとよっこらしょっと軽い感じで体を起こした。立ち上がったら立ち上がったで体に着いた塵を払っている。
遍照は内心、悲鳴を上げていた。鬼善は内丹をしていなければ、丹田もない。経絡もなければ経穴もない。つまり鬼善は、もう人ではなくなっている。
やつは鬼神っ!
一方でその鬼善はというと遍照の表情からその戸惑いを察していた。『太白精典』は他の武術書とは全く違う。いや、本来の姿は、武術書とは言えないものであろう。鬼善は斜に構え、腕を組む。そして、戸惑う遍照に向けて指を差した。
「これが、『太白精典』であーる」
余程の衝撃であったのだろう、精神を破壊された遍照は、ふらっとグラついたかと思うと前のめりに倒れて行ってしまう。
静まる境内に床を打つ音が響く。
僧兵らの誰もが凍りついた。どの表情も血の気を失っている。目の前にいる男はいったい何なのか。触れてはならないものに触れてしまったのではなかろうか。そう思ったに違いない。
そんな観戦者の中で、鍋倉ただ一人は鬼善に冷たい視線を送っていた。鍋倉も遍照と戦っていた。その経験から思うところがあったのだ。
『粋調合気』の奥義を極めれば、おそらく『三武書』は敵ではない。八百万の神と一体になる『粋調合気』。よくよく考えれば『太白精典』とよく似通っている。しかし、『粋調合気』は天の理に適っている。『太白精典』はまさに邪法。天の理を冒涜するどころか、仇なしている。つまり今出川鬼善は、人であることを捨てたのだ。逆をいえば、金神の神気を抜かれればそれはもう天の定めた摂理の真っただ中。人でなくなった以上、鬼善に魂の救済は望めまい。
のたうつ遍照がさらにひどく吐血した。もう血まみれである。
「殺してはならん。これからは仲間なのだからな」
その言葉も観衆には恐怖の対象でしかなかった。鬼善はもがき苦しむ四人に手をかざす。果たして、金神の神気がその手の平に吸い込まれていく。僧兵らは、こんな男にこれから使われてしまうのかと恐怖した。残す演武者は二人のみ。それも『筒井家伝』の順覚と『洗髄経』の高弁なのである。
「高弁殿、ここはわたしが」
そう言って順覚は傍らの高弁に声だけ掛け、目線は鬼善に据えたまま演武台の階段を上がっていく。そして、演武台に立つとゆるゆると太刀を抜いた。そこからさらに順覚は、鬼善に向けて無造作に進み、鬼善の前までいくと足元を探りつつ正眼に構えた。一方で鬼善はというと、先ほどからの半身に腕を組んだ姿勢を一切崩さず、向かって来る順覚を蔑むようにジトーっと見ていた。
「素手の相手に太刀ならばと考えたか? それともなにか? 遍照らを助けたわしが貴様の命を取らないとでも高を括ったか?」
読んで頂きありがとうございました。次話投稿は日曜日とさせていただきます。今後ともよろしくお願いします。




