第63話 恐慌
「これが『太白精典』であーーーるっ!」
たしかに鬼善の言う通りだと鍋倉は思った。鶴丸は鬼善に接触したその瞬間に、金神を注入されたのだ。佐近次は夜叉蔵を見た。凄まじい目つきであった。二人は何度も戦っている。夜叉蔵はこくっとうなずく。
「『太白精典』という奥義書はほぼ全てが金神を祭り奉り、神託を頂くのに費やされているという。金神の神気を得、自身を超人に変える方法は最後の数枚に記載されているのみ。今まさに今出川鬼善のがそれじゃ。されど、鬼一法眼様のものとはまた違う。佐近次よ、おまえは鬼一法眼様を見たことがあるか?」
「あるさ、遠目だがな」
当時、佐近次は門人に紛れ、目立たないようにしていた。鬼一法眼の物言うような視線が苦手だったのだ。おまえは何者だ? 何のためにここに来たのか? そう問われているような気がした。
「で、どうだった? 悪人のように見えたか?」
「いや、あれこそまさに求道者だった」
己に厳しい。固く結ばれた口元と深く刻まれた顔の皺からそんな印象を受けた。加えてあの眼光。佐近次は鬼一法眼と接することによって、謀っているという邪な心が洗い流されてしまうのではないかと気が気ではなかった。ともすれば、本心から弟子入りしてしまいそうになってしまう。だが、倭人に教えを受けるなんて思いもよらない。
夜叉蔵が言った。
「そう、佐近次の言う通りじゃ。鬼一法眼様はまさに求道者だった。事実、『太白精典』を参考に新たな武術を完成させたのじゃ。鬼一法眼様はそれを『啓明祓太刀』とお名付けになられた。『太白精典』の太白は宵の明星。それに対し、新たな武術は陽気に満ちた明けの明星、啓明を力の源にした。つまりじゃ、佐近次、おまえが戦った黒覆面は鬼善と似て非なる術を使っているということだ」
鍋倉が言った。
「夜叉じいは鬼一法眼となんか係わりがありのか? 弟子だったとか」
「わしはのう、この人生で二人の人物を護衛した。人を守るっていうのは容易なことではない。敵がどこから湧いて来るか、それはもう難儀なもんじゃ。じゃからな、敵になりそうな者を片っ端から調べ上げた。おまえさんの尊敬する高弁なぞも調べさせてもらったよ。やつのこたぁ色々知っておるって、佐近次以上にな」
そう言うと夜叉蔵は、にしゃっと笑った。
佐近次が言った。
「それはそれは。是非、ご教授願いたいものですな」
夜叉蔵はまた、にしゃっと笑った。「まぁ、慌てるな」
依然として混乱極まりない境内。一方で、演武台はというと鬼善が仁王立ちでせせら笑いを見せていた。
「毒でない証拠を見せてやる!」
鬼善は声高々にそう言うと鶴丸に手のひらをかざした。すると、鶴丸に注入された神気が鬼善の手に吸い取られていく。その様子は一部の達人を除いて観衆のほとんどに見ることが叶わなかったろう。だがそれも、しばらく経って理解することになる。鬼善が手をかざしたことにより、鶴丸がよろめきながらも立ち上がり、助けに入った僧兵を拒みながら一人、演武台から降りて行ったのだ。
間違いなく鶴丸は気の攻撃をうけた。境内にどよめきが沸く。観衆の戸惑う表情。その中に、夜叉蔵の険しい顔があった。
「金神は人の気のように増えたり減ったりしない。ゆえにあのように出し入れすることが出来る。気の伝達なら何にでも出来るようになるし、さらに達者になると伝達だけでなく気の操作も出来るようになる。例えばじゃ、念じるだけで鍋倉に入っている神気を暴れさすとかな。それだけではない。これは奥義とも言えるものじゃが、その上の段階がある。物体自体の操作じゃ。神気を入れた物を自在に操る。ただし、これは金星が鋼で出来ているゆえ金属に限る。杖や長棒なぞ木製では気自体の注入、伝達、操作は出来ても物体そのものは動かせない。そこでじゃ、鬼善が『太白精典』を習得してからどれくらい経っているのか。奥義に達するには十年二十年では無理じゃろうから当然、あやつがそこまで上達しているとは思えん。問題はじゃ、そこまでいかないにしろやつが、どこまで『太白精典』をものにしているかじゃ」
「まさに、妖術。邪としかいいようがない」
佐近次だけでない。観戦しているほとんどの僧兵がこの術を聖道門の盟主に相応しいか疑問を持っていた。そこに鬼善の高笑いである。
「今更、後には引けんぞ。万が一、ここで手を引くようなら聖道門は世間から腑抜の誹りを受けることになる。されど、このわたしに負けを認めるというなら話は別だ。最強のわたしが盟主となるのだからな」
そう鬼善が言い終わるや否や、四人の僧兵が演武台に躍り出た。高野山『三武書』の遍照、愛宕三山『周天廻宝』の半眼居士、大峰山『役三行』の宗憲法印、三井寺『福聚輪』の空尊である。その四人がおのおの顔を見合わせ互いに頷くとその中の一人、遍照が観衆に向かって呼びかける。
「各山の英雄豪傑の方々、よぉく聞いてくれ。我々四人は邪法『太白精典』を聖道門の頂点とすることを承知しかねる。よって、今ここで今出川鬼善を成敗し、『太白精典』を封印することとする。方々、いかに!」
境内に詰まった僧兵らから一斉に歓声が上がり、遍照の言葉に応えるかのように何処からともなく長棒が四つ、演武台に投げ込まれた。四人が四人とも素手である。鬼善の戦い方からして肉弾戦が危険なことは火を見るよりも明らかなのだ。果たして、それを拾った四人が境内の観衆に向けて感謝の意を表し、手を合わせる。
鬼善が吠えた。
「この四人は勝手に決まりを変えたぞ。いいのか俊雲!」
金堂には比叡山の慶海を始め、歴歴が陣取っていた。その中の愛宕三山俊雲が鬼善に大音声で返す。
「決まりは破ってない。昨晩、対戦相手を決めたは便宜上のこと。僉議で決ったは勝者、もしくはその山の代表が盟主になる、である。忘れたか? それは貴様の提案だろう。何人がどう戦おうと互いに承知すれば良いではないか」
鬼善が、にやっと笑い、
「互いにとはおもしろい。やはり聖道門は腐ってるねぇ」
と呟き、遍照らに向けて言う。
「聞いたな、みなが証人だ。わしが勝てば決まり通り奥義書は頂く」
遍照ら四人は鬼善を囲み、長棒を構えた。それを鬼善が腕を組んで余裕綽々と見渡す。
遍照らの気合い一声、同時に突きが放たれる。鬼善は上空高く飛び上がり、囲みの外に着地すると演武台を長手方向に走る。遍照らはそれを追った。そして、鬼善を演武台の隅に追い詰めると怒涛の攻めを繰り出す。鬼善はというとそれをかいくぐりつつ一人に接近。だが、他の三人がそれを許さなかった。一斉の突きがその鬼善を後退させた。鬼善はそのまま演武台の隅に追いやられ、防御一辺倒となる。ところがである。電光石火であるはずの達人たちの長棒が鬼善の奇抜な動きにまったく追いついていっていない。
観衆らは皆、わが目を疑った。その光景はまるで風に飛ぶ布を四人の男が必死に棒で絡み取ろうとしているようであった。
鬼善がまた、上空高く飛び上がった。境内が大混乱に陥った。舞い降りた先が観衆の真っただ中だったのだ。
今出川鬼善に触れること、すなわち死!
鬼善から離れようと僧兵らは我先にと、人の荒波を必死にもがく。神護寺の境内には高雄山山頂があり、少し下って伽藍があり、その中に演武台が増設されていた。言い換えれば神護寺は山頂付近、その山腹に出来た平地に建てられていたということになるのだが、伽藍を取り巻く境界は回廊や築地塀ではなく、簡単な雑木の植え込みだけであった。言わずもがな、その先は山を降った急斜面である。鬼善を中心に観衆が後退したため境内の端に陣取った観戦者らは前から押されて行き場を失う。果たして、宙に投げ出されるかっことなって阿鼻叫喚、悲鳴諸共次々と急斜面を転がり落ちていく。
山門から下る石段でもそれと同じようなことが起こっていた。こちらの方はまるで雪崩である。境内に入れなかった者たちが声だけでも聴こうと石段に陣取っていた。そこへ境内から押出された者たちである。次から次へと覆いかぶさって、そこに陣取っていた者らは上から下に向けて転倒して行き、一番下の者から順に下敷きとなっていく。しかし、これだけではとどまらない。鬼善の周りでも連鎖的な転倒が起こり無数の圧死者を生んでいた。
遍照ら四人の内、見かねた二人が、「これ以上好きにさせまい」と演武台から飛び降り鬼善に攻撃を加えた。笑みをもらしつつも鬼善は、その場でそれをかわしていたのだが、何を思ったのか倒れている僧兵らを踏みつけ踏みつけゆるゆると移動し始めた。するとさらにまた、あちらこちらで転落者、圧死者を生んだ。
鬼善を追う二人は、焦りの表情で長棒を振るう。そこに恐怖に任せて逃げ惑う僧兵らである。必然、二人の長棒の冴えは鈍ってしまう。鬼善はそれを狙ってのことだろう、鈍い動きの二人に余裕綽々、神気を注入する。鶴丸同様その二人も崩れ落ち、幾重にも重なっている僧兵ら同様、倒れてそこへ折り重なっていく。
読んで頂きありがとうございました。次話投稿は木曜日とさせていただきます。今後ともよろしくお願いします。




