第61話 試合前夜
深夜、鍋倉と佐近次は鴨川の河原にいた。二人は夜叉蔵に言われた通り、馬を三頭手に入れ、真新しい直垂を身に着けて準備万端、夜叉蔵を待っていた。別に神護寺に忍び込もうって訳ではない。正面から堂々と山門をくぐる算段だった。試合見物に、わざわざ田舎から登って来た武家を演ずる手筈になっていた。
時刻を過ぎても夜叉蔵は現れない。人に段取りをさせといて自分は何をしているのか。佐近次は苛立ちを覚えていた。逃げたとは思っていない。夜叉蔵はそんな玉ではないのだ。
鍋倉は鍋倉で、不安を覚えていた。田舎武士に扮するのは夜叉蔵が言い出したことだった。その言い出しっぺが来ないってのはどうかしている。何かあったのか。歳も歳だ。上気せて、ぶっ倒れてるんじゃないだろうな。佐近次にしても、自分にしても、こういったことに慣れていない。夜叉蔵なしで神護寺に行くとなったら最悪だ、と思っていた。
そんな二人を随分と待たして、やっと夜叉蔵が姿を現した。ぶかぶかの袴を引き摺るようにやって来るなり、二人をくんくん臭いを嗅いで回る。
「よろしい、よろしい。垢は落としたんだな。あまり臭いと幕府の役人とは思えないからな」
鍋倉はきょとんとする。
「おれら、幕府の役人?」
「そうじゃ。連中、物見遊山でこぞって高雄山に向かって行ったでな」
佐近次が言った。
「遅かったな。何か良からぬことを企んでいるのではなかろうな」
「なんじゃ、それはこっちの言葉じゃ」
「何をしていた」
「当然、盗人だわな。つわものは皆、高雄山にいるからなぁ。今夜はらくちんだったわ」
夜叉蔵はひゃひゃひゃと笑った。鍋倉はあきれて言葉を失った。不機嫌そうな佐近次はというとそれは聞き流したようだった。「さぁ、行くぞ」と馬に乗る。
「待った!」
そう夜叉蔵が言うと、佐近次と鍋倉の足を指差した。今度はなんなんだ、と鍋倉は自分の足元を見る。袴の括り緒がきちんと結ばれていて足首が見えている。佐近次に至っては脛と脹脛を覆う脛巾までしていた。本人曰く、袴は苦手だ。これだけはこの国の風習に馴染めなかった。
おそらくは、股がすうすうして不快なのだろう。慣れれば快適なのだが、袴は少なくとも括り緒を絞めなければ大股に足を広げたり、天井を逆さまに走ったりすると太ももどころか股間をさらしてしまう。
「貴人はゆったりと着こなすものじゃ。ということで、わしが先頭な。で、おまえらはわしの家人で後ろじゃ。じゃ、よろしく頼むわ」
夜叉蔵は上機嫌に馬を先に進めた。
すでに、高雄山神護寺は各山の僧兵で埋もれていた。自らの御山の威信を掛けた戦いを見届けようと詰め掛けたのである。武家の姿もちらほらあった。僧兵と比べるとほんの少ししかいなかったがおそらくは、工藤祐長のような聖道門に肩入れをしている武家たちであろう。地頭など、頻繁に寺領を浸食するような輩は袋たたきにあう。そして、彼らのほとんどは念仏門を支持していた。当然、来れるはずもない。十中八九、ここに来れたのは聖道門を支持する武家だとして、ただの物見遊山で来たわけではない。僧兵らと同じく戦いの行方が気になったのだ。
一方で、神護寺に向かう道はというとあまりに多くの人で溢れていた。神護寺はすでに大勢の見物人が詰めかけている。ところがもう数刻で日の出だというのに、そこへ向かう僧兵たちの流れはまだ途切れていない。神護寺に近付いたところで鍋倉らは、その渋滞に捕まった。仕方なく馬を並足にし、のろのろとした流れに身を任せた。やがて山門からはまだ距離がある森で、止めてある多くの馬を見とがめた。鍋倉らはそれにならい、木に馬を縛るとそこから徒歩で神護寺に向かった。
かくして、清流に掛る橋を渡り、小さな門を潜って参道を行く。その両脇はというと僧兵がたむろしていて、二三人で固まって寝る者ら、酒を酌み交わす者ら、ひそひそと話する者ら、時間を待つ姿はみな様々である。山門の石段に至るとやはりそこでも下から上まで僧兵で埋め尽くされていた。日の出前とあって、みな座った恰好で寝ている。騒ぎを起こさないようにと鍋倉らは、人と人とに出来た空間に足を入れてそろりそろりと石段を登って行く。
境内には縦に長く、胸ぐらいの高さの演武台が設えてあった。愛宕三山の俊雲が突貫で造ったという。高雄山は愛宕三山の一つで俊雲の管轄なのだ。その演武台の周りはすでに僧兵で埋め尽くされていた。武家の姿もところどころに見受けられる。どこぞの郎党か、どうやら小物ばかりである。聖道門を支持するといっても特別席は設けてはもらえない。下々と扱いが同じであれば、やはり名の通った者は現れない。工藤祐長やら、遠藤為俊やらがいないことにほっとした鍋倉は、敷き詰められた砂利に腰を下ろす僧兵や武家の間を縫って、境内を進んだ。
金堂の裏手から境内にそって神護寺には、伽藍を見下ろす高台、高雄山山頂がある。その山腹も僧兵らで埋まっていたがまだ陣取る余地がある。鍋倉ら三人はそこへ登っていった。
「文覚様の墓はこの高台の裏にあるぞ」
腰を落ち着けた夜叉蔵が呟くようにそう言った。
鍋倉は気持ちが急き立てられ、席を立った。山頂に登っていくと辺りを見渡しながら下って行く。ほどなく文覚の墓を見つけた。墓の南東の方角は大きく開けている。真っ暗であるが日が昇れば平安京を眺望出来そうで、そうであれば素晴らしい光景だろうなと鍋倉はその様を想像した。
真っ暗の中、黒く浮かぶ墓石の前に、鍋倉は座った。そして手を合わす。
「鍋倉淵の息子です。お初にお目にかかります」
鍋倉は佐渡を出てからのことを考えていた。そして、清を想った。
「おれも色々あったけど楽しかったですよ。なぁに、怨んではいません。あなたが佐渡に『撰択平相国』を持って来なかったらこんな楽しい人生ではなかったし、むしろ感謝するばかりです。でもさ、それでも心残りがあるんだ。なかなかうまくいかないもんだな。だけどそれが人生ってもんでしょ、文覚様」
黒く浮かび上がる文覚の墓は、ただそこに佇んでいた。
「さて、行くか。さようなら、文覚様」
深々と礼をすると鍋倉は、文覚の墓を後にした。
かくして朝日が昇った。鍋倉ら三人は伽藍に日が差していく様を、肩を並べて見守っていた。高台から見下ろす神護寺は真新しく、甍が陽光の反射でぴかぴかと光っている。夜叉蔵の眼差しが感慨深かった。
「八十年程前、大火で焼失したそうじゃ。それを憂いた文覚様が六十年前に復興を始め、完成したのは去年、高弁がやっと落慶供養にこぎ着けた」
鍋倉は言った。
「高弁様はやはり偉いお人なんだ」
「どうだか。高弁は文覚様と反りが合わなかった。高弁のやつは嫌々仕事を引き継いだのかもしれん。反りというならおまえの方が文覚様と合っていると思うがな」
そう言って夜叉蔵はへへっと思わせぶりに笑う。
「気休めはよしてくれ、夜叉じい」
「落ち込むな、それより始まるぞ」
夜叉蔵が顎で金堂を指した。
金堂の開いた戸から演武者の一人が現れた。その後ろから奥義書が乗せられた三方を持つ者が続き、また演武者が現れる。
時間まで暇をつぶしていた僧兵らはというと日の出とともに移動を始めていた。すでに境内は芋を洗うようであり、人が行き来出来る隙間なぞ全くない。おそらくは、後から来た者はこの戦いを見ることは叶わないだろう。
演武者らが堂々と歩んでいく。境内に膨れ上がった観衆は熱狂していた。その興奮の渦の中、演武者らは演武台に上がった。計八人の武闘家である。
「つわものぞろいじゃな。こんな光景、金輪際お目にかかれんぞ」
夜叉蔵の目つきが変わっていく。鍋倉はというと、この戦いはそんなんじゃないと一層気分が滅入る。そこにいくと観衆はお祭り気分だった。場所もわきまえず、声を出して笑った。伝説になろうかという人物の中に今出川鬼善と高弁が居るのだ。さらにはそのそれぞれが伝説の奥義書『太白精典』と『洗髄経』を持参したというのもまた笑える。
「学生は経でも読んでおれ!」
「八龍武の道意を出せ! おまえでは時間の無駄だ!」
高弁は驕慢心に溺れないようこれが仏僧のあるべき姿だと信じ、自らの手でその耳を削ぎ落した。失笑をかってもどこ吹く風である。一方の今出川鬼善も、稀代の英傑鬼一法眼の子として生を受けて以来ずっと悪評散々、慣れたものであった。
そんな罵詈雑言も、これから始まろうという熾烈極まりない戦いの前では和やかな雰囲気の一風景と言っていいだろう。誰の顔にも緊張感がない。そんな中で、演武台はというと動きを見せる。今出川鬼善と老僧、そしてその二人が持参した奥義書を乗せた三方だけが残され、他はぞろぞろと演武台から降りていった。
読んで頂きありがとうございました。次話投稿は木曜日とさせていただきます。今後ともよろしくお願いします。