第59話 緑林の片棒
寝耳に水だった。黒覆面の正体は鬼一法眼ではないかとずっと思っていたのだ。だが、よくよく考えれば確かに佐近次の話は筋が通っている。疑っていた鬼一法眼こそは味方であり、おれに『太白精典』を伝授し『撰択平相国全十巻』を守らしめようとしていた。鬼善はというとそれを知ったからおれを恨み、生駒でおれの命を狙った。
それを証拠に、黒覆面のあの目だ。喜んでいるとも蔑んでいるとも取れる目。生駒でおれを殺そうとした黒覆面の男は紛れもなく、おれを憎んでいた。
ところが鍋倉としてはあの当時、誰かに恨まれることなんて全く身に覚えもない。あの目の色がおれの勘違いであったらそうであってほしいと思っていた。が、どう考えても間違いではない。もしそれを間違いだというならおれにでも分かるように説明してほしい。なぜ、黒覆面の男はおれをもがき苦しませ、オオカミに八つ裂きにされるような目に会わせたかということを。
佐近次の話は疑うべくもなく、紛れもない。黒覆面の男は今出川鬼善その人!
だとしたら、事はそれだけじゃぁ収まらない。鬼善が黒覆面の男なら法性寺で工藤のおっさんを千手観音で殴ったやつもあいつ。だとすれば、法然様の遺骸略奪もやつの悪行が遠因ということになる。いや、あるいはそれも計画のうちだったのかもしれない。そもそも盗人をし平安京を恐怖に陥れる一方で、今出川一門を使って公家の私邸の警固をし、日銭も稼いでいた。
なんて悪辣で恐ろしいやつ。ならば、と鍋倉は腹をくくった。金神を体内から抜くことなぞ、いよいよもって望めない。鬼善の目的がおれの死である以上、戦わなければいけない運命だし、もし勝ったとしても鬼善はおれから金神を抜くなんてことは一切しないだろう。
そう考えている鍋倉の一方で、佐近次はというと焦れていた。なにも月見の話をしに来たわけでもない。鍋倉がいらぬお節介をやくので今出川鬼善との縁が切れたと話はしたが、そもそもがなぜ、月見との関係を鍋倉が知っている。月見が言ったとしか思えない。面白くなかったが、今はいい。早くこの話は終えたかった。
ところが鍋倉にしてみれば、やはり気がかりなのは佐近次と月見の関係だ。佐近次は月見のために命を狙われていると言った。その話によると鬼善は佐近次に月見を与える気はないようだし、それどころか子飼いの八龍武にその命を狙わせしめた。陽朝は撃退できたからいいものを、悪辣非道な鬼善がそれで黙っている訳がない。佐近次さんはどうするのだろうか。
その佐近次が言った。
「わたしは南宋から来ました。本当の名は劉枢です。少林寺の僧でしたが、南宋の宰相、史弥遠様に請われて『洗髄経』を探しにこの国に来ました。そしてその持ち主をやっと見つけました。それはあなたの相孫、高弁殿です」
以前、鍋倉は佐近次から『洗髄経』の話を聞いた。確かあの時は、『撰択平相国全十巻』がいかに貴重な物かをおれに諭すためだったと思う。『洗髄経』を例にしたのだったが、まさかそれを高弁様がお持ちだったとは。
鍋倉は、それで合点がいった。なるほど高弁様、それであの気か。確かにあの気は尋常ではなかった。事実、鍋倉は今も高弁から受けた気の後遺症に悩まされている。
それにしても佐近次さんだ。まさか宋人とは。
「少林寺といえば武術の源流、それに皇帝の補佐からこの国に来るように命じられたってことは佐近次さん、本当はずっと雲の上の人だったんだ」
巷の噂や兵庫津で宋船を見た鍋倉にとって南宋は超大国であり先進国であり、文化が花咲く夢の国であった。驚き感心する一方で、やはり月見のことを考える。
「じゃぁ月見様を?」 一緒に南宋へつれて行く。
「姫様には申し訳なく思っている。『洗髄経』を手に入れ次第、わたしは南宋にたたなければなりません」
「え? 申し訳ないって。おいて行くってことか?」
「はい」
「一人で帰るってことか?」
佐近次は大きくうなずいて見せた。
鍋倉はふと、佐近次の言葉を思い出した。おれは本来なら《月見の婿になる》はずだった。
「佐近次さん。まさか、おれに気を使って」
「見損なうな、鍋倉。『精忠報国』。後にも先にもわたしの心はこの言葉のみ」
この言葉のみ? と、言うことはつまり月見様は、いつかはこうなる運命だった。
「月見様がついて行きたいといったなら?」
「滅私。すでにわたしはこの身を中原の民に捧げたのだ」
「そうかぁ」と鍋倉の気持ちは沈み込んだ。あるいは佐近次さんならと期待していた。八龍武の一人を倒した佐近次さんなら月見を鬼善から奪うってこともあるかもしれない。しかも南宋では偉い人だと言う。海を渡ればいかに鬼善と雖も手出しは出来ないだろう。尚更、鍋倉の期待は高まっていた。
月見が可哀想でならない。だがやはり、『洗髄経』。その国にはその国の事情がある。自分がとやかく言うことではない。
「佐近次さん、お別れだね」
「そうではなく、助けてもらいたいのです」
ん? そうか、やっぱり月見様のために二人して鬼善を倒そうと言うんだな。だが、と鍋倉は思い直した。よくよく考えればそれを月見様が喜ぶかどうか。月見様は鬼善が悪逆非道だとは知らない。佐近次はというと構わず続ける。
「九日後、神護寺で武術会が開かれ奥義書を賭けた戦いが行われます。この時、各山の奥義書が集まります。当然、『洗髄経』もです。それを武術会の最中に奪います」
月見様じゃなくて? っていうか 「奪う? それって泥棒ってことか」
鍋倉は唸った。どうせ短い命だし、とも思ったが、どうも乗り気にはならない。それを察したのだろう、佐近次が頭を下げた。
「大陸は異民族に半分を奪い取られました。民は心のよりどころを欲しています。なにとぞ民族の宝、『洗髄経』を取り戻すのに力添え下さい」
そう言われても、と鍋倉は思った。
「たしかに大切なことであるとは思うが、話がでか過ぎて」
それに民族の宝って。しかも、そんな大仰な物を奪うって。乗り気になるどころか、鍋倉は余計しり込みしてしまっていた。
「大丈夫、わたしと鍋倉に敵うものはいません」
そうだろうか、と鍋倉は心配になった。上手くいったとしても、また馬鹿をしでかして皆に迷惑をかけるんじゃなかろうか。
「どうしても奪うのか? 何か方法があるんじゃないかな。高弁様にたのむとか」
「高弁殿にはお願いしたが」と言って、佐近次は大きくかぶりを振った。
断ったのか。確かにあの人は、情に流されるような簡単な人ではない。それに一度こうと決めれば梃子でも動かなそうだ。どうしたものか。
考えた挙句、鍋倉はふと、夜叉蔵の顔が頭に浮かんだ。夜叉蔵にはどこか知恵者の匂いがする。笛の音色から人の深みさえ感じる。人を食った言動やとぼけた態度がそれとあまりにもうらはらで、師の蓮阿を彷彿とさせる。
「いや、夜叉じいならばひょっとして」
鍋倉は、月見が河原に押し掛けて来た時のことを思い返していた。明らかに夜叉蔵は、佐近次を知っていた。佐近次を強いと言っていたし、「佐近次は怪しいし鬼善も同じ。近付かないのが身のためだ」とも言っていた。どういう意味でそう言ったかはよく分からないが、今となってかんがみるにその忠告は間違ってはいないような気がする。
夜叉蔵に相談したい。気持ちを抑えきれず鍋倉は、それを佐近次にせがんだ。当の佐近次はというと、その名を聞いても予想外にもピンと来ていない。どうも変だと思いつつ、念のためにもう一度その名を言って再度確認した。が、やはり知らないという。佐近次にしてみても、そこまで言われては夜叉蔵の存在が気にならないはずはない。かくして佐近次は、明日一緒に会いに行くと鍋倉に了承したのだった。
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