第53話 写本
「陽朝はことあるごとに佐近次をいじめるの。その二人がそろって帰って来ない。わたしには何かあったとしか思えない」
「佐近次さんっ」 鍋倉は言葉を詰まらせた。月見がここへ来たことからして不穏な空気を感じていた。案の定、佐近次に係わることであった。
一方で、「ん? さこんじぞな!」とそっぽ向いていたはずの夜叉蔵が身を乗り出す。何か考えているのか。ひとつ間があり、また背を向ける。そして一言、ぼそぼそっと言った。
「かえってややこしくなるんじゃないかな」
変な夜叉じい、と鍋倉は思いつつ、そうだ、おれがしゃしゃり出ればかえって佐近次さんに迷惑がかかるかもしれない。月見様の言った通り、もし諍いを起こしたとして、陽朝ってやつが帰って来ないところからみても佐近次さんは、その陽朝を殺めたに違いない。
佐近次さんが捕まってしまったのならともかく、今はそっとしておくべきだ。おれが探しているとなれば、残りの八龍武が慌てるに違いない。
吉水教団の高僧三人が流罪になったと盛長に聞かされたばっかりだった。鍋倉はそれが相当こたえていた。事はどう転ぶか分からない。成り行きから騒ぎになって最悪、六波羅が乗り出すとも限らない。
一方で、侍女はというと佐近次を探すのに手を貸そうとか、そんな二つ返事を鍋倉に期待していた。なのに黙ってばかりで煮え切らない。しなびたじじいが横から口出しし、鍋倉を惑わしているからだ。侍女は夜叉蔵を睨みつけた。
「いま、姫様が鍋倉殿に話をしているのです。あなたは黙っていなさい」
へへっと夜叉蔵が笑う。
月見が言った。
「澄、こんなところにいないで帰って来て!」
夜叉蔵はというと鍋倉から生駒の一件も聞かされている。月見の声色をまねて言った。
「澄ぃぃん、帰って来てぇぇん」 そして地声に戻し、続けた。「って、生駒に捨てておいてか?」
月見は言葉を返さなかった。表情はたれ衣で分からない。夜叉蔵がたたみかける。
「お嬢ちゃん、鍋倉はどういう訳で捨てられたのかの? 佐近次はそん時どうしていたんじゃ?」
月見が言った。
「佐近次は八龍武といっしょに吉水教団の者らを蹴散らして、わたしを迎えに来ました。それで澄がいないってことになっていて、しょうがなくみなで山を降りたのです。それが何か?」
たれ衣で見えないが、月見は居直っているかのようである。
「探さなかったのか?」
「お父様の占いは外れたためしがないの。澄は死んだって占いに出たし、現にあの山の中で隠れているわたしの居所も当てたわ」
にしゃっと夜叉蔵が顔を崩す。
「鍋倉さんよ、おまえさんをなぶったのは黒覆面の男じゃったよな。なるほどそりゃ、占いもあたるだろうよ」
どういう意味で夜叉蔵が言ったのか鍋倉は皆目見当がつかない。そんなことより、佐近次がそこにいたということの方が鍋倉は引っ掛かった。
「佐近次さんも清、いや、霊王子らと戦ったんだ」
実際に戦って敗れた清から金神八龍武の強さを鍋倉は聞かされていた。その中に佐近次もいたとは夢にも思わなかった。
本当は強いのかもしれない。
鍋倉は佐近次から、黒覆面の男とも戦ったと聞いた。その佐近次と実際に手合せもした。よくよく思い返せば放った渾身の木刀を左手の掌手だけで跳ね返したり、足で天井に張り付いたりもしていた。武芸者というものは相手に手の内を見せたりはしない。見せる時は相手の息の根を止める時だが、佐近次も多分に漏れずそうなのだろう。今回のことだって、佐近次はきっと自力で何とかしてしまうのだろう。ならばやはり、自分がしゃしゃり出るのはまずいのではないか。
鍋倉がそう考えているそこに、「佐近次は強いからな」という夜叉蔵の独り言が耳に入ってきた。思いもよらない人から思いもよらない言葉である。
「夜叉じい、佐近次さんを知っているのか?」
「ちょっとした昔馴染みじゃ」
「昔馴染み? どんな?」
「どんなかって」と言って夜叉蔵が唸った。
「お互いに知ってるといえば知っているが知らないって言えば知らないってところかの」
余計分からない。そこに小石がカチッと河原に落ちて、ころころと月見の足元に転がった。投げたのは、鍋倉が追い払った河原者の女たちの内の誰かである。長く話し込んでいたので戻って来ていたのだ。
「帰った方がいい」
そう鍋倉は月見に言うと、遠巻きに集まって来ている女たちに届くよう大声で言う。
「この人に手を出すな。この人に何かあったらおれは佐渡に帰る。二度と帰って来ない」
夜叉蔵がにしゃっと笑った。
「河原の女は気性が荒いんだ。さっさとしないと見境がなくなるぞ」
侍女が周りの空気を察した。遠巻きの女たちの視線は刺すようで、「これは大変っ」と、後ろ髪行かれる月見の手を侍女は掴み、無理矢理に引っ張っていく。
かくして、鍋倉のもとに舞い戻って来た女たちは月見と何を話していたのかと騒がしい。鍋倉はその場を取り繕うのに追われた。が、どうしても夜叉蔵と佐近次の関係が気にかかる。
笛の練習を日暮れまで行い、浮かぬ顔の鍋倉を察してか、帰るとなって夜叉蔵が、
「あぶない、あぶない。佐近次は怪しいし鬼善も同じ。近付かないのが身のためだ」
と、謎かけのような言葉を残し、どこか知らないねぐらにとぼとぼと一人、帰って行ってしまった。
平安京の西北にどっしりと構える群山。愛宕山系に伸びる間道の袂で大木が枝を広げている。日は天頂にあった。佐近次は日差しを避けてその影にいた。その大木の、広がる枝の下を網代笠の男が通り過ぎようとしていた。佐近次は躍り出る。
「高弁殿、ですね」
この時、高弁は聖道門の同盟を掲げ、各山の調整にまい進していた。網代笠を上げ、その高弁が顔を見せた。
「なにか?」
「無作法にもここで待たせてもらいました」
そう言うと佐近次は続けた。
「この国では佐近次と名乗っています。南宋の僧であったところ還俗し、この国に渡って参りました。劉枢が本当の名です。こんなところで話すのは失礼と存じますが、お願いをお聞き届け願いたい。なにとぞ、御所蔵の『洗髄経』を手放してはもらえないでしょうか。わたしどもの大地は北狄に半分を奪われ、中華の民は自信を失っております。『易筋経』はわたくしどもが所蔵しているとはいえ、『洗髄経』は長く失われたままです。中華の民のためにどうか」
佐近次は深々と頭を下げた。
「わたしが『洗髄経』を所蔵していることをだれから聞きなされた?」
「偶然、清凍寺にて」
そう言うと佐近次は、下げた頭から高弁を仰ぎ見た。聞き流したかのように高弁の表情には変化がない。その高弁が言った。
「確かに達磨大師の『洗髄経』と『易筋経』が揃うともなれば、宋人の拠り所足るものになるでしょう」
「では、譲ってくれるのですね?」
「写本ならすぐにでも」
はっとした佐近次は必死に、
「写本ではだめなのです。国を守るこころの支柱にはなりえません」
と懇願の眼差しを送った。
だが、高弁の気色は変わりがなかった。古くは、仏教を学ぶために最澄や空海が大陸に渡った。後に曹洞宗を開く道元もこの時は南宋で学んでいたという。言うなれば日の本の仏教界では大陸は憧れの地。ところが高弁は、南宋なぞ眼中にはない。彼は言うのである。天竺に生まれたら僧にはならなかった。釈迦如来がおられた地にいられるだけで幸せだからだと。
また、高弁は十九の頃から夢を書き留めていた。後世に伝わる『夢記』であるが、そこに度々記されている。経典など何かわからない部分があったのなら、夢に僧が現れる。それは宋人ではなく、決まって天竺人であった。さらに一つ付け加えるならば、『洗髄経』と『易筋経』を記したという達磨大師は宋人ではなく天竺人。佐近次が宋人だろうが皇帝の使者だろうがなんだろうが、高弁に何の気後れがあろうか。
読んで頂きありがとうございました。次話投稿は木曜日とさせていただきます。今後ともよろしくお願いします。




