第52話 盲目
二人は早速、太秦に向かった。見物人も一人、二人と付いてくる。すると我も我もと連なって結局、ほとんど全てが来てしまっていた。大勢の取り巻きを引き連れた鍋倉は、こうして広隆寺の境内に入ることとなった。
言うまでもなく、突然現れた鍋倉に騒ぎが起きないはずはない。何も知らない者たちが、鍋倉様が帰って来られたと喜んでいる。その声に盛長はというと耳を疑った。本堂から慌てて境内にすっ飛ぶ。確かに、目の前にいるのは鍋倉だった。ずうずうしくも大勢の女人に囲まれ、能天気にも突っ立っている。
そもそもこの男が平安京に来なかったら、こんなみじめな想いをしなくて済んだのだ。清はよそよそしいくなるし、鍋倉の名を出せば信者はさっといなくなってしまう。わたしが鍋倉に清を取られてしまったとでも言いたいのか。鍋倉は武一辺倒だ。政治力を発揮したり、教団を切り盛りしたりする能力はない。そんな輩に教団は任せられるか。清を任せられるか。馬鹿を言っちゃいけない。あれは一時の気の迷い。清は馬鹿ではない。わたしがどれだけ教団に必要なのかを知っている。
にしても、比叡山の連中は何をしていたのか。
あの腐れ坊主ら、頭が相当弱いと見受けられる。なぜ鍋倉を野放しにしとく。くそったれ達め! せっかく鍋倉を差し出してやったのに。
怒りが収まらない盛長は、鍋倉に声を荒げた。
「『撰択』は持って来たのかっ!」
夜叉蔵が盛長にぺこぺことへつらう。
「鍋倉が言いたいことがあるそうなので連れて参りました」
盛長は、夜叉蔵を見て直ぐに、はてと思った。この顔に見覚えがある。確か、絶えず法然上人の傍に控えていた男。法然上人が浄土に旅立つと消えて居なくなったがなぜ、その男が鍋倉と。
ぞっとした。気味が悪い。考えてみれば比叡山の連中から解き放たれたにしろ、自由に行動出来ているのはどういう訳か。しかもこの女人たち。よく見れば見知った顔もいくつかある。おそらくは、教団の信者たちなのだろう。こんなことをなぜ、聖道門の連中が許しておく。鍋倉は念仏門と一緒にいるんだぞ。
「あのー、聞いていらっしゃいましたか?」
夜叉蔵がそう言うと盛長は、はっとして慌てた。威厳を保たなくてはいけない。
「言いたいこと? 己の立場が分かっているのか」
盛長の、咄嗟に作った怒りの視線に鍋倉は、ええっ? と思った。話をしに来ただけなのに。とにかく、怒らせてはいけない。頭を低くして言った。
「高弁という僧が聖道門をまとめて教団を潰そうと計画しております」
何を言うかと思えば、と盛長は笑ってしまった。目の前に鍋倉がいるというこの状況から見て、聖道門が馬鹿なのは分かったが、そこまで手の内を明かしていくらなんでも鍋倉を放置するか? いや、いくら馬鹿だといってもそれはない。
「さては鍋倉っ、命欲しさに文覚相孫の高弁すら利用しようとしているのだな」
「そんな! 滅相も御座いません」
鍋倉が動揺しているとみるや盛長は、「不届き者!」と言い放ち、さらにこう言った。
「洛中で夜中、お前が馬鹿騒ぎを扇動したから、空阿様、幸西様、隆寛様が流罪となった。どう責任をとってくれるんだ!」
鍋倉はこの三人を見知っていた。比叡山と戦った後、盛長に紹介された学生達である。みな老齢で二度とこの平安京には戻って来られないだろう。そう思うと返す言葉が見つからない。何も言えず鍋倉は、すごすごと広隆寺の門を抜けた。夜叉蔵も、取り巻きの者らもそれに連なる。
山門の外で鍋倉はうらめしいそうに門が閉じられるのを見ていた。その傍で夜叉蔵が、ひゃひゃひゃと声を上げて笑い、「こうなると思っていた。さあ、帰ろう、帰ろう」と鍋倉の袖を引っ張った。
盛長にしてみれば爽快な気分だった。鍋倉が暴れもせず素直に、というか、しょんぼり帰ったのに胸のすく思いだった。意気揚々、本堂に入ると気が気ではなかったのかそこには、霊王が待ち受けていた。
「そなた、『撰択平相国全十巻』を手にしてないようだが、どうした?」
「持って来たなら、解毒剤をお持ちの霊王様にお出ましを願うところ。ですがやつは返すそぶりもない」
「じゃぁなぜ、やつは来た?」
「やはり命請いですよ。こともあろうか高弁の名をかたってね」
霊王の表情が一変した。
「明恵房高弁? あれは法然様が浄土に旅立ったのを見計らい、『摧邪輪』なるばかげた書を世に出した男じゃぞ。それにはここにいる誰もが反論できなかった。『弾選択』を書いた比叡山の定照を論破した隆寛殿でさえも頭を抱え逃げ出したくらいじゃ。悔しいが、我らは黙っておることしかできず嘲笑の的になった。聖道門の連中はそれで気をよくしてさらに差別を行なった。そやつが何か企んでいるのならそれはまずいことぞ、盛長」
「いやいや、ご心配めさるな。鍋倉のやつ、なにを血迷ったか高弁の野郎が聖道門の各山をまとめようとしているって言うんです。そんな出鱈目が出来ましょうか。馬鹿にするのも程があります。聖道門の各山は数百年の勢力争いで互いに恨みに恨みが積り、復讐が連鎖の泥沼状態。手を結ぶなんてあり得ましょうか。なぁに、大丈夫。鍋倉の野郎はそれを口実に自分を高く売ってあわよくば毒消しを手に入れようと考えているんです。ま、馬鹿は考えてもこの程度だということ。お気に止めなさるな」
盛長は、取る継ぐ島もなく悠々と本堂の奥に姿を消した。
鴨川へ帰る道すがら、鍋倉はずっと言葉が出なかった。三人の僧が流罪になったのにもへこたれたが、やはり信用されなかったのがつらかった。夜叉蔵に言わせれば、同盟? そんなこったぁ誰も信じないよ、盛長でなくても平安京中で聞いて歩いてみな、とニヤけ顔である。と言っても、夜叉蔵自体は鍋倉を信じていないという訳でもないようだった。明恵房高弁ならそれが出来るかもしれないと言うのである。
各山の言い分を聞き、調整する。大変な労力と知恵を必要としよう。あるいは幕府執権北条泰時の師という立場を利用するのかもしれない。高弁はただただ、己の考える仏教に対して忠実なだけなのだ。こういう手合いは一度、口に出したが最後、同盟に向けてまい進するだろう。どんな苦労があったとしても諦めはしまい。
それでも、そうそう同盟が成るとは夜叉蔵も考えていないようだった。鴨川に着き、笛の稽古を始める。調子が出てきたところでまた例のごとく鍋倉が笛の手を止め、川面を茫然と眺める。すると夜叉蔵は、今は竜笛じゃろ? 鍋倉さんよ、と声を掛けてくれて、まぁまぁ何もかもと、そんなに慌てめさるな、と言うのである。
それが幾度となく繰り返され、広隆寺に行ってから数日。相変わらず笛を吹く鍋倉の周りには人垣が出来ていた。鍋倉の男っぷりに噂が噂をよんだのであろう。市井を言うに及ばずその人だかりには、むしのたれ衣で素顔を隠した娘らもちらほらと加わるようになっていた。
その誰かの侍女であろう、女が手招きしている。話をしたいようだが、それは難しかろう。この人だかりなのだ。誰かを特別扱いすると収拾がつかなくなる。
それでもその女は執拗に手招きする。無視をすれば、鍋倉殿、鍋倉殿と名を呼び始める。あまりにもあからさまなので鍋倉はいい加減頭にきて、ぎろりと睨みつけた。すると女は、どうして? 私をお忘れですか? と言うのである。
はて、誰だったっけ。記憶を辿ってみても、公家の侍女なぞ話したことも会ったこともない。一方で、鍋倉が思い出せないのをその女は察したのであろう、人垣の向こうを指差した。人だかりの後ろの方でつぼ装束の女がぽつんと一人見える。それがむしのたれ衣を指先でそっと除いた。
鍋倉は驚いた。その顔を忘れるはずはない。目に焼き付いている通り、輝く柔肌がそこにあった。
しかし、どうしてここに? 鍋倉はまずそれを考えた。黒覆面の男が鬼一法眼なのは分かっている。それにあの時は金神八龍武が後を追って来ているはずであった。生駒から無事に帰れただろうと思っていたが、実際に会ってみるとやはりそうだったかと実感が沸いて来る。いずれにせよ、無事で良かったのに変わりないが、それにしてもどうして月見様がわざわざこんなところに?
今出川邸の北の対屋に籠りっきりだと今出川一門の者らから聞いていた。暖かくなると寝殿の北庇に出てくることもあるそうだがそれも稀だという。本来の月見様がそうであるならば、きっとおれは呼び出されたはずだ。
「悪いが今日は帰ってくれ」
突然の解散に当然、皆はぐずぐず言った。それでも無理やり追い払った鍋倉はそこに残った月見を手招きで呼ぶ。月見はというとおずおずとやって来た。一方で、先に傍に来ていた侍女がちらりちらりと横目で夜叉蔵を見ている。邪魔だというのだろう。
「夜叉じいはおれの師匠だ。気にすることはない」
鍋倉がそう言うと月見は、堰を切ったようにむしのたれ衣越しに声を震わせた。
「佐近次が帰って来ないの。八龍武の陽朝も」
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