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掃雲演義  作者: 森本英路
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第51話 竜笛


 今度こそいよいよ最後だな。そう思うと鍋倉はちょっと気が楽になった。佐渡に帰るという高弁との約束は守れそうにもない。だったらこの結末が一番良かったんだ。迷惑がかからない。


 依然として容赦なく雨が降り注ぐ。微塵たりとも動かせない体では文字通り何もできない。半日もすればあの世に旅立てるであろう。もう終わったことなんだ。色々思うところはあるが、仕方がない。後はこの大粒の雨が心残りを流してくれよう。そもそも誰も恨んではいなかった。流されていくのは清への想い。そして蓮阿への申し訳ない気持ち。


 ふと、我目を疑った。篠突く雨の向こうから行ったはずの遍照が、姿を現したのだ。こっちへと、どんどん近付いて来ている。


 果たして遍照は、目の前までやって来るとどういう風の吹きまわしか、鍋倉の肩を指で突いて点穴を解いてしまった。


 解き放たれた途端、鍋倉は膝をつき、頭を前に垂らした。生き長らえたといえども、嵯峨野での高弁に続きこの遍照である。もう心身ともにズタズタで、息をするのがやっとであった。雨が邪魔にならぬよう鍋倉は、うつむいた下で喘いでいたが、遍照がそれさえも許さなかった。顎を掴まれると鍋倉は無理やり顔を引き上げられ、目を合わせられる。


 その遍照が言った。


「助けられたと思っているんじゃないだろうな」


 鍋倉は別に助かったことなんて嬉しくもなんともない。大きなお世話ぐらいにしか思ってなかった。


「お前、内傷を患っているだろう。もって一年か?」


 別に隠すこともない。それには黙ってうなずいた。


「内傷がなかったら、わたしに勝てたと思うか?」


 さぁ、どうだか、自分の胸に聞いてみなと鍋倉は思い、笑顔を造った。その態度に、遍照は頭に来たのだろう。鍋倉の顎を放るように離し、その勢いで倒れる鍋倉の、その頭をぐりぐりと踏み付けた。


「お前は罪深い。雨に降られて半日は苦しませてやろうと思ったが、そうはさせない」


 そう言うと、遍照は行ってしまった。


 苦しみは、半日では足らないという訳か。激しい雨の中、まだ踏みつけられたままの姿勢で鍋倉は思った。遍照のやつ、おれに自尊心を相当傷つけられたようだな。わざと点穴を受けてやったのが悪かったのか。いや、一旦は避けてみせたというのが悪かったのかもしれない。ま、どっちでもいいや。もう死ぬと決めたんだ。別に点穴を突かれなくてもこのままここにいてやろう。半日後には死ねるっていうもんだ。






 ところが鍋倉の想いとは裏腹に、雨はすぐに止んだ。唖然と青い空を見上げ、どうもおれはうまく死ねないなと自分のことながら悪運の強さに感心してしまっていた。先ほどは、死ぬの生きるのってあれこれ考えたのがあほらしくなってきた。もうどうでもいいやっていう心境になって何も考えずに鍋倉は、鴨川の河原を幽霊のようにあてもなく歩いた。気が付けば、もう日は暮れていた。立ち止まり、暗い川面を眺める。


 自分のことは諦めたとして、やはり清が気がかりだった。教団の者らに高弁の計画を報せなければいけない。その一方で、高弁の言う通りさっさと佐渡に帰った方が清に余計な心配を掛けずに済むんではないかとも思えた。おれはどうすればいいんだ。どうしたいんだ。結局、考えても分からず、何もできない自分自身に怒りをぶつける。


 やっぱり、おれなんか聖道門の連中に殺されれば良かったんだ。


 と、不意にそこへ、笛の音が聞こえてきた。その音色、そしてその調べは蓮阿の笙と匹敵するものがある。まさか老師がと鍋倉はいてもたってもいられず、音源に向けてあえぐように走る。


 果たして、期待は大きく裏切られた。そこには瓶子を横に、大きな石に座る小柄な男の姿があった。がっかりってもんじゃない。茫然と天を仰ぐ。星ひとつない真っ黒な空であった。


 それでも、その音色の素晴らしさには感動を覚えずにいられなかった。どんな男が演奏しているのだろうか。鍋倉は好奇心に駆られて、小柄な男の気をそがないようにそろりそろりと近付く。が、笛の音は止まった。男は演奏の構えを解き、振り向いて肩越しにその顔を見せた。老人だった。それが言った。


「誰かと思えば、鍋倉さんじゃないか」


 蓮阿のもとで修行した足運びである。気付かれたのには正直、驚いた。一方で、小柄なじいさんは無邪気なものである。目を輝かせ、


「わしゃ、吉水教団であのめちゃくちゃの中にいたんだ。あんたがいなければあの時、死んでいた」


 と、にっと歯を見せたかと思うと今度は不審な面持ちになる。


「で、なんでこんなところをふらついておる? 教団の幹部は太秦の広隆寺に移ったというのに」


 不思議なのは鍋倉も同じだ。


「じいさんも。みなの居所を知っていて、どうしてあなたはそこに行かないんだい?」


 小柄なじいさんがひゃひゃひゃと笑った。


「決まっているではないか。役立たずの下っぱだからじゃ。で、おまえさんは? まさか、ほっぽり出された訳でもあるまいし」


 どう答えたらよいものか。色んなことがあった。自虐的にもなっていた。高弁様にはかいつまんで説明したが、ま、いいか。詳しく話してやろう。どうせあんたは下っぱなんだ。しゃべってもあたり障りあるどころか理解出来ないだろうしな。といっても、出来ればおれの馬鹿さかげんだけは分かってほしい。一緒に笑えたらすっきりするしな。


「そのまさかさ。しかも毒を盛られてな」


 鍋倉は平安京に来てから今日までのことを包み隠さず話した。小柄なじいさんは聞いているのかいないのか、その間ずっと紺色の空に浮かぶ黒雲に視線を向けていた。


 やがて雲の間から月が現れた。


「良い月じゃの」


 最悪だ、と鍋倉は思った。一緒に笑うどころか全然聞いていなかった。が、気持ちは収まった。それで佐渡に帰る踏ん切りがついた。


「ありがとな、じいさん。じゃあな」


「ちょいまち。まだいいじゃろう。わしの笛でも聞いて行け」


 小柄なじいさんが笛を奏で始めた。その音色と調べに、鍋倉はその場を離れることが出来なくなってしまった。だが、唐突にその演奏が止められる。


「ところでおまえさん、かいつまんで言えば味わいのある趣味を欲しておるんじゃろ? どうかな、わしの笛では」


 ふと、霊王子の今様が頭に浮かんだ。


 ……清。


 ぽん、と鍋倉の手の平に笛が置かれた。小柄なじいさんが横で、にしゃっと顔を崩している。


「三カ月の命なんじゃろ?」

「あっそうか」


 さっそく練習だなと鍋倉は、笛に息を吹き込んだ。


 音がしない。


 鍋倉はむっとした。


 小柄なじいさんがにしゃにしゃしている。


「鍋倉さんはおもしろい御仁じゃ。おまえさんといると何か面白きことが起こりそうでわくわくしてくる。わしは夜叉蔵という。夜叉じいと呼んでくれ」






 鴨川の一画では大変な人だかりとなっていた。平安京で噂の人、鬼神と恐れられた鍋倉が下手な笛を吹いている。どうやら河原者に笛を習っているようだ。口々にそれが伝わるとみなが一目見たいと詰めかけた。


 その場はほとんど見世物だった。笑い声や黄色い声援が飛び交う。笛を吹き始めてもう十日。どうやらこの見世物は女人を熱心にさせたようだった。毎日かかさずやってくる顔は女性ばかり。鬼神と恐れられたがなんのことはない。鍋倉はぱっと見、どこにでもいる青年のようで、違うのは笑顔が印象的な目のクリッとした色白の色男だったということだった。


 鬼神だという噂との落差も手伝って、この優男に市井の女たちはみな心を射抜かれてしまった。一方、鍋倉はというと悪い気がしない。応援されてやる気が出る。上機嫌で愛想を振りまき、手を振られるとそれに返してみたりした。鍋倉の悪い癖で悪乗りだと言えるのだが、そんな時でもふと、気もそぞろになる瞬間がある。笛の手を止め、川面を見つめるのだ。夜叉蔵としても、唐突にそれが行われるので不審に思わないはずがない。この日も例によってまた手を止めて川面を見つめている。もう何度目だろうか、たまらず夜叉蔵はその訳を問うた。


 鍋倉は言った。


「前にも話しただろ。高弁という偉い僧が教団を潰そうと計画している。それが気にかかるんだ」


「そうか、それでおまえさんはどうしたいんじゃ?」

「それを清、いや霊王子らに知らせてあげたい」


 にしゃっと顔を崩す夜叉蔵。


「なんだ。それか。不安ならわしも一緒にいってやろうか?」


 






読んで頂きありがとうございました。次話投稿は木曜日とさせていただきます。今後ともよろしくお願いします。

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