第50話 積乱雲
ああ、なるほどなと鍋倉は思った。その僧侶は上半身が大きく見えた。肩とそれから首にかけての筋肉が発達しているのであろう。そして分厚い胸板。比叡山の手の者か? 少なくとも聖道門の僧兵には違いなかろう。
果たして男は、網代笠を脱ぎ捨てた。雨にさらされるのをいとわない。そして雨から垣間見える眉の濃い、目鼻立ちのはっきりした精悍な顔つき。歳の頃は四十五、六ってところか。やはり、ただの通りすがりってわけではなさそうだ。
その男が言った。
「高野山の遍照と申す」
ずっと嵯峨野からつけられていた。だとしたら大した奴ではないのかもしれない。鍋倉の内傷は気に敏感なのだ。ついさっき、高弁が気を放出した時は意識を失わんばかりだった。微量な気なら指先に痺れを感じる。その鍋倉が感知できなかったというなら、その男は大した者ではないのかもしれない。
しょうがない、相手してやるか。高弁の気に中てられ体は思うように動かないが、警戒に値する相手とは思えない。鍋倉は、滝のように落ちる雨だれを潜った。一方で、高野山の遍照と名乗った男は、腰にある一尺の棒二本を抜く。そして器用に、左右一本ずつクルクルと回すと構えをとった。次の瞬間、その男は気を発した。凄まじいその圧力に鍋倉は一歩後退を余儀なくされた。体はというと痺れてしまっている。見誤ったか。やつはただ者ではない。
鍋倉がそう思ったのは当然で、この男は市井で名高い五強の一人、高野山『三武書』の遍照だったのだ。
「まいる」
そう言うや否や、遍照が消えた。そして、十歩離れたところで姿を現す。が、現れた遍照は一人ではなかった。何人も現れ、前に進むたびに一人増え二人増え、五人になったり四人になったり、時には八人にもなることがあった。
おそらくは残像。足送りの調子を変え、鍋倉に錯覚を起こさせているのだ。その幾人かの遍照がジグザクに向かって来ていて、もう鍋倉の目の前まで迫っていた。
高弁の時の後遺症もあり鍋倉は、痺れて体が思うように動かせられなかったが、眼球だけはどうにかそれからはま逃れていた。それに患った内傷のせいで気に敏感だったこともある。実体は捉えて逃さなかった。目と鼻の先にいる四人の遍照の内、一体が一尺の棒で側頭部を砕きに来た。
それが陽動だと鍋倉は分かっていた。避けもせず、実体だけを目で追っていた。はたして残像が消えると次なる攻撃が加えられた。この攻撃こそ本命。鍋倉は紙一重で避けてやろうと考えていた。ままならない体ではそれが精いっぱいなのだが、逆にずっと紙一重でかわしてやることで力の差を見せつけられる。遍照と名乗ったこの男が利口ならば、反撃に出ないこちらの態度に疑問を抱き、色々と勘ぐって来るだろう。そのうえで諭し、戦いを諦めてもらおう。
実際、実力差は歴然としているように鍋倉は感じていた。内丹の量という点において、先ほどの高弁と比べると格段に見劣りする。軽功は黒覆面の男に及ぶべくもない。体術はというとおそらくは熊野衆徒恵沢禅師の弟子、寿恵が吉野でやった稲妻のような走り、その完成形だと思われる。過去に体験し、目や体が慣れてしまっては、鍋倉がなめてかかってしまうのも無理はなかろう。
が、しかし、遍照の実体から放たれた刺突、それは目を見張るものがあった。棒の先に気がこもっていた。それが向かう先は?
棒の先の動きを鍋倉は目で追っていた。肩口、それも左の経絡である。もしやこれは、点穴?
発勁を習得している鍋倉は、少しばかりその辺の知識は有していた。体に網の目に張り巡らされている経絡には気の出入り口、あるいは分岐合流する地点がある。そこを経穴と言い、そこへの攻撃は点穴と言った。大陸ではどこの経穴がどのように体に影響を及ぼすか、理解がなされていて武術にも生かされているという。
男は高野山の遍照と名乗った。高野山は空海が始祖である。その空海は大陸に渡り、経と武術書を持ち帰ったと聞く。その秘術を知っているところから考えるにこの遍照という男、もしやただ者ではないのかもしれない。
ふと、この男に殺されるのならと鍋倉は思った。本来の『粋調合気』ならば、点穴なぞ取るに足らないだろう。蓮阿に教わったあの気息法は自然と同化を目的としている。事実、『粋調合気』は、丹田を荒らし、内丹を禁じている。
考え得るに『粋調合気』は、自然から気を吸収して生命活動を維持しようというのだろう。言うなればこの世の万物、さらに言うと八百万の神と一体になる。考案者が西行という点からしてもそれは間違いなかろう。まさに歌人の思い付きそうな発想だった。
有るような無いような存在。自然と一体化した者に経穴への攻撃が果たして有効なのだろうか。おそらくは、徒労に終わるだろう。
と、言っても鍋倉の場合、地上のどの気とも相容れぬ金神の神気が体に入っている。そしてそれがある限り、『粋調合気』の奥義には達せられない。点穴を受ければ間違いなく影響が出よう。あるいは金神の神気が本格的に起こされるかもしれない。だが、それはまさしく、今の鍋倉にとって願ったり叶ったりだった。
ところが先ほどからの流れから鍋倉は、遍照の左肩への一撃を寸前のところでかわしてしまっていた。さらには、それに続く右肩への二撃目もぎりぎりのところで経穴から外してしまった。
果たして、二手打ち終わった遍照は大きく飛び退いた。あまりにも距離を取ったのに鍋倉は、あれっ? と思ったが直ぐに、ああ、そうなんだと理解した。おそらく遍照は、驚いたに違いない。想像するに、一手目はともかく二手放って立っていた者は未だかつていなかったのではなかろうか。
とはいえ鍋倉は、気のこもった刺突をもろに二発食らっている。寸前のところで迷ってしまってはしかたなかろう。案の定、鍋倉はひざまずき、せき込んだ。口を抑えた手の平を見てみると、べっとりと血が付いている。それが篠突く雨で瞬く間に洗い流されていった。
鍋倉はふらふらと立ちあがった。今度はちゃんと遍照の点穴を受けてやらなければならない。生きていては高弁の迷惑にもなるし、霊王だって盛長だって面白くないはず。それにどうせ罰が当たる身である。いや、あるいはこれが罰なのかもしれない。
一方で、遍照はというと訝しげな顔をしていた。実際、疑問に思うだろう。結果的にただの打撃になってしまったのにまるで点穴を突いたような相手の反応。それは自分が狙った効果ではないにせよ、なぜか鍋倉は血を吐いている。それでもその疑問に答えを出せたのか、あるいはふっ切ったのか、その遍照が言った。
「まいる」
今度は残像を使わない。軽功で一瞬のうちに鍋倉の目の前にやって来たかと思うと遍照は、また左肩への刺突を繰り出した。
鍋倉はというと、今度はへまをしなかった。ちゃんと点穴を受けた。見事にその効果も発揮され、まったく身動きがとれなくなってしまった。
意外であった。身をよじるほどの苦痛を予想していた。唖然としている鍋倉であったが、そこに遍照が顔を近づけてきた。その恐ろしい形相が、篠突く雨に叩かれ飛沫を上げていた。それでも遍照は瞬き一つもしていなかった。何か言いたいのだろうか、大きな目を見開いている。
だが、それも一時、止めも刺さず遍照は、鍋倉に背を向けると歩き出し、転がっていた網代笠を拾うとそのまま立ち去ってしまう。
動けなくなった鍋倉は激しく雨に叩かれた。点穴を解いてもらわなければずっとこのままなのだ。いずれ体温を失い命を落とすであろう。あの遍照の物言わぬそぶりから、止めを刺さないことは予期出来ていた。生駒の山で置き去りにした黒覆面の男の眼差しが脳裏に重なる。相当憎かったのか、うっぷん晴らし出来て喜んでいるかのような、いや、もともと馬鹿にして蔑んでいたのかもしれない。それでいて、汚らわしいものでも見るような眼の色だった。
読んで頂きありがとうございました。次話投稿は日曜日とさせていただきます。今後ともよろしくお願いします。




