第49話 鄂王
嵩山少林寺は河南にあり、金の支配下にあったために公にはされなかったが、劉枢は還俗する際、時の大師に寺宝『易筋経』を読む機会を与えられた。劉枢への期待はいかばかりだったのであろう。劉枢は『易筋経』を一字一句違わず暗唱できるまでにし、御山を去るのである。
延々と岩肌に沿って列なる石段を劉枢は、一日かけて下った。振り返るとそそり立つ山々。そのどれもが何万年にも及ぶ浸食のために、山影は切り立ち、その山頂は剣のごとく山頂を天へ突き立てている。そしてどれくらいの歳月を費やしたのだろうか、木々が山肌の岩を穿ち、緑を霞に滲ますように枝葉を山体に広げていた。
劉枢は目を閉じると、いつもその風景が瞼に映る。倭にはない風景だったこともある。大師への感謝の気持ちもあった。だが、思い返せば臨安府に着いた時もその風景を瞼に見た。思うに、愛する郷土を異民族に奪われたままだということが未だに許せないのであろう。
村を幾つも継いで劉枢は、海の如くな河に出る。船頭を雇い、小舟に揺られそれを下る。長江から江南河を経て臨安府に入ると早速、小さな私塾を開いた。北伐に備え、義勇軍に参加する仲間を増やすためである。
当時、南宋の治世は皇帝寧宗で、宰相の史弥遠が政治を司っていた。その史弥遠が宰相に就任する以前、劉枢が臨安府に入る六年前ではあるが、北伐が行われていた。それは失敗に終わっていたが、金との講和を成立させた功績により史弥遠は、宰相の地位を得ていた。
そもそも金銭目的で劉枢が私塾を開いたわけではない。誰彼いとわず歓迎し、上も下もなく歓待した。人々には劉枢が岳飛と重なったのであろう。文武両道、人柄もいい。それに河南の生まれだという。臨安府には、金の支配から逃れ、故郷を捨てて逃れてきた者も大勢いる。しかも史弥遠の政策は金に対して平身低頭で、こともあろうか金の王を皇帝と認め、臣下の礼をとっていた。かくして劉枢の私塾には多くの人が集まり、劉枢は志を共にする仲間を増やしていくのである。
そんなある日、劉枢は宮中に呼び出された。宰相の史弥遠が直接話をしたいという。北伐が近いという者もいれば、囚われるのではないかと心配する者もいた。しかしそんなことを度外視して劉枢は史弥遠と直接会って話がしたかった。軍をも文人に支配させる強硬な文治政治を行っていた史弥遠である。彼の考えが聞きたかった。ことによっては説得しなければならないとも考えていた。
会ってみると史弥遠は、北伐には反対でないことが分かった。ただ、勝算がないとしきりに言うのだ。劉枢は幾つか、検索した策を提示した。考え抜かれた案で私塾の識者の間で検討がなされたものである。抜けがあるはずがない。史弥遠も確かにと頷いていたが、それでも結局、納得はしなかった。史弥遠が言うのだ。
「鄂王が出来なかったのを誰が出来るというのだ」
鄂王とは岳飛の諡をいう。とどのつまり、そこに行きついてしまう。そしてさらに言うのである。
「もし、それでも貴殿が北伐を成功させるというなら噂ではなく、形で示してほしい。そうでなければ皇帝はおろか、宮中の誰も信用しまい」
史弥遠の言い分はもっともだと思った。劉枢としても、それを言われれば返す言葉がない。それでも劉枢は、引き下がるわけにはいかなかった。
「形を示せというのは、どこかの都市を落とせばいいのでしょうか。戦わせられないと言っておきながら形を示せとは、いかに」
史弥遠が言った。
「『易筋経』と『洗髄経』は一対というではないか。至高にして最も権威ある武術書。貴殿はその一方『易筋経』を習得されていると聞く。もし、もう一方の『洗髄経』を手に入れることさえ出来れば、貴殿を皇帝に北伐の将として推挙できるが、いかに」
何を言い出すかと思えば、と劉枢は憮然とした。確かにその双方とも習得出来れば鄂王と雖も見劣りしてしまうだろう。達磨大師以来、その両方を習得した者はいないのだ。だが残念ながら、それは物理的に無理というものだ。
「『洗髄経』は失われて久しいと聞きます」
史弥遠は言った。
「それが有るのだ。東大寺という寺に」
「東大寺? 聞いたことがない名ですが」
「倭国の寺だ」
「倭国?」
「東海に浮かぶ小さな島国だ」
そう言うと史弥遠は吏僚を一人呼んだ。そして続けた。
「この男に国書を託してある。私がしたため、皇帝より印を頂いた。貴殿はこの男とともに軍を率いて倭国に渡り、皇帝の名を以てこの国書を倭国の王に届けよ」
吏僚が得意げにその国書を広げて見せた。
形を示せとはこういうことか。臨安府に来て、『易筋経』を習得していることで良いこともあったが、今回はそこをうまく突かれたか、と劉枢は思った。体のいい厄介払いではないか。さらに史弥遠が詰め寄る。
「船も用意してある。出来るか、出来ないか」
劉枢は断ることが出来なかった。一方で、失われたはずの『洗髄経』があると聞いて喜んでいる自分もいた。どこにあるかも分かっているし、皇帝の印が入った国書もある。結局、劉枢は仲間を率い、倭国に渡る船に乗った。
ところが、その船は嵐で沈んだ。どれくらい生き残れたか分からないが倭国の海岸に打ち上げられ劉枢は、たった一人であった。国書も失い、地理も分からず言葉も分からない。命だけは繋ぎ止めようと懸命に生き抜き、幸運にも本国から来た貿易商人に出会う。その商人が教えてくれた。
「東大寺は平家が焼き討ちし、一旦は灰燼に帰した。今あるのは源頼朝によって再建された新しい寺だ」
「燃えたっ?! それはいつだ?」
「三十年ほど前かな」
劉枢は、南宋から旅立つ時、多くの門人らに見送られたのを思い出していた。旅立つ前の日は南宋の将来を思い巡らせ門人らと大いに飲み、客らとは入れ替わり立ち替わり杯を交わした。
にっくきは、史弥遠。
商人は、国に帰ろうと言葉を掛けてくれた。ありがたかった。が、史弥遠はこのわたしと約束したのだ。『洗髄経』を持って帰ってくれさえすれば北伐の軍を起こすと。劉枢はおめおめと帰れなかった。それこそやつの思う壺なのだ。東海に浮かぶ小さな島の倭国からさえ逃げ帰って来た男に北伐を任せられようかと。確かに、民も仲間も納得はしまい。
かくいう史弥遠は、北伐する気はさらさらない。
船も沈むように細工がなされてあったのだろう。その証拠に風の便りだが、未だ北伐はなされていない。皇帝は寧宗から理宗の代に移り、その理宗を擁立した史弥遠は絶大なる権力を手にしていた。皇帝をも気にせず意のままに権勢を振るい、文治主義をさらに一層強く推し進める一方で、侵略者の金には莫大な金品を貢いでいるという。民は重税に苦しみ、軍は縮小の一途を辿りもはや無いのと同じであった。
是が非でも、『洗髄経』を見つけなければいけなかった。燃えて灰になったと言われるが、どこかに現存していると硬く信じた。そしてそれが間違いではなかった。しかも、どこにあるかも分かった。後はどうやってそれを手に入れるかだ。南宋への帰りは、国へ帰ろうと誘ってくれた南宋の商人に頼ればいい。彼との連絡はまだ、途絶えていない。
鍋倉は清が気がかりで佐渡に発つ気になれなかった。嵯峨野清凍寺からその足でふらふらと鴨川の掘立小屋に戻る。どうも、一緒に東山大谷へ向かった隣人らは帰って来ていないようだった。見知った誰かを探し辺りをうろつくと、なんとか知った顔を見付けた。鍋倉はその男に東山大谷へ向かった隣人の名前を数人挙げてどうしているのかと尋ねた。
「なんだ、吉水教団の連中か? みんな死んだと聞いたぜ」
なんてことだと嘆き、なにもかもおれのせいだと鍋倉は自分を責めた。思い返せば、自分は他の人とはずっとちぐはぐなことをしていた。右へ進まなければならないのを左。左に進まなければならないときは右。必ず、皆と違う道を歩んできた。それをへそ曲がりとか天邪鬼とかいうのかもしれないが、自分がやってきたことはそんなかわいいものではない。
鍋倉は掘立屋の軒先に腰を下ろし、どうして自分はそうなのかを考えた。幼少の頃の自分を思い出し、以降歩んで来た道をたどってみたりした。だが、分からなかった。ふと、薄暗くなっているのに気付いた。軒下から見上げると、先ほどまで晴れていた空は灰色の雲に覆われようとしていた。雲行きが怪しい。雨になる。
その予想通り、ぽつぽつと雨が降り始めた。ところがそれは瞬く間に激しさを増し、白く乾いていた河原を黒く塗り変え、雨だれはというと滝のようになった。
心身ともに疲れ切った鍋倉は考える気力も失って、雨を茫然と眺めた。ふと、四十歩ほど離れた雨の向こうに一つ、人影が現れた。飛沫が上がる輪郭から僧侶のように見える。網代笠を深々とかぶり篠突く雨に激しく打たれ、その男は立っていた。
読んで頂きありがとうございました。次話投稿は木曜日とさせていただきます。今後ともよろしくお願いします。




