第45話 文
夜、佐近次は清水寺境内南苑にいた。
吉水教団を監視するという口実で今朝、今出川邸の東門を出た佐近次は『塵旋風』の陽朝に呼び止められ、今夜戌の刻、清水寺境内南苑に来いと言われたのだ。
鍋倉は依然として二尊院に取り残されている。助けようか迷ったが、佐近次はそのままにしておくことにした。目的はあくまでも鍋倉に集る虫たちだ。当面は比叡山の連中だろう。これはいい機会なのかもしれない。あるいは『四身式』の鶴丸が重い腰を上げるかもしれない。『七歩蛇』が倒されてしまったのだ。
鶴丸は高齢と聞いている。だが、比叡山にもう駒は残されていない。それが鍋倉と接触するとなったらどうなるか。武芸者ら界隈に激震が走るだろう。高野山や愛宕三山、大峰山や三井寺などはどういう反応を起こすのだろうか。これまでの睨み合いの膠着状態では何も起こらない。自分にとって残された時間はもうないと言っていい。鍋倉は簀巻きにされて厠に突っ込まれている状況ではあるが、我慢してもらうしかない。やつには呼び水になってもらわねば。これは伸るか反るか。危うい賭けではあったが、鍋倉は特別な何かを持っている。それにわたしには鍋倉を、いつでも助けられる力がある。
とは言え、あまり目を離してはいられない。その場に居なければ何も出来ないのだ。ところが清水寺に来てみれば肝心の陽朝の姿はない。心底、意地が悪いのだろう。苛立ちを押さえ、崖下で時間を潰す佐近次は本堂を仰ぎ見ていた。
清水寺は崖の上にせり出して本堂がある。斜面にそそり立っている無数の巨柱、その先端は樹木で遮られよく見えない。それでも見上げていると天がその巨柱によって支えられているような錯覚に陥ってしまう。よくこれだけのものを造れたなと感心してしまう。
この類稀なる清水寺さえ、争いに巻き込まれ焼き払われていた。やったのは比叡山の僧兵で六十数年前。それは興福寺との諍いのさなかであったという。清水寺は平安京にほど近い興福寺の末寺ということで比叡山に狙われたのだ。今は復興し、幽玄な外観を誇っている。
ふと、風を切る音がした。佐近次は飛び退く。陽朝が姿を現し、また飛んで暗闇に消えた。
口元を緩ませた佐近次はケヤキの幹を背に、辺りをうかがう。不意に宙から陽朝が舞い降り、斬りつけて来た。佐近次は身を屈める。白刃が頭上を抜け、ケヤキの幹に食い込む。が、それは止まるどころか青竹を斬るように幹を両断する。
斜めに斬られたケヤキはというと、その切断面を滑って大きな音を立てて倒れた。押し潰されないよう回り込んでいた佐近次は、目の前にある切断面を観察した。黒く変色しているのを見とがめる。匂いも焦げ臭い。
「達人の刀剣には冷気がまとう。だが陽朝、きさまのは暖気。宙を滑空するのは暖気を体にまとわせ、風を呼んでいるから」
高笑いの陽朝が、風をまとって宙から現れる。
「知ってどうなるってものでもあるまいし」
佐近次は進み出た。「発想は悪くない」と腕を組んで右手を顎に当てがう。
そのしぐさを見て、狐目の陽朝が細い目をさらに細めた。
「お前、いつになく態度がでかいの」
「陽朝。月見のためにおれを殺そうとしているが、きさま、月見の親になった気分なのか? それとも月見を女として見ているのか? ま、当然、女だろうな。きさまのその面には藤原家なら我慢出来る、佐近次なら許せないって書いてあるものな」
血色の悪い陽朝の顔が赤く染まる。
「なますにしてやる」
いまにも飛びかかってきそうな陽朝に佐近次は、石つぶてを放った。
「こざかしい」と難なく太刀で跳ね返す陽朝。
「慌てるな。話は終わってない」と手元で小石を投げては掴みしている佐近次。それが続ける。
「月見のことを考えると、わたしと鍋倉は邪魔なんだろ。それで手近のわたしから殺そうと思った。ところがだ、鬼善が本当に殺したいのはわたしではない。鍋倉だ。誰にでも分かるように鬼善も言ったはずだったがお前には分からなかったのか? それをわたしから殺そうと思ったところが一層、間抜けなんだなぁ。ま、いずれにせよ鬼善に騙されているんだから八龍武一の知恵者もたかが知れている」
陽朝の暖気が熱気に変わった。こうなると陽朝の太刀は切れ味を増す。そこへ佐近次は、手にある石ころを次から次へと放つ。そのどれもが陽朝に苦も無く太刀で弾かれてしまう。打つ手なしかに思えた佐近次であったが、その表情は満足げである。
「もういいだろう」と佐近次は手を止める。そして続けた。
「それが限界。あんたの熱気では石は切れないのだよ」
太刀を見た陽朝が、色を失った。刃がぼろぼろに欠けている。怒り心頭に発し、太刀を投げ捨て向かってきた。熱気が風を集め、小さな上昇気流を生み、陽朝はさながら風の鎧を身に付けたようであった。
『塵旋風』。その二つ名の通り陽朝の足元から落ち葉や粉じんが巻き上げられ宙に舞っている。視界を奪ったうえでその動きも奇抜、さらには風が攻防に厚みと変化を生じさせた。先ほどまでの滑空は、陽朝にとってほんのお遊び程度のものだったのだ。
ところが、そんな厄介な陽朝を佐近次はというと楽しんでいるかのようである。そのどれもを苦も無くかわしているが、決して本気で攻撃に移ろうとはしない。焦った陽朝が形振り構わなくなった。大量の空気が集まって来る。つむじ風が竜巻へと変わった。
が、その勢いも一っ切りであった。佐近次は陽朝の攻撃を手でさばきつつ、右足を背中側に蹴りあげ己の肩越しから陽朝の頭を打撃した。グラっと揺れた陽朝は、笑う膝を止められない。まとった空気の渦も散り散りとなって戻って来ない。
「陽朝、内功の質が違うのだよ。その様な小手先に走るから、その深みまで達し得ない」
これ見よがしに佐近次は、背中側にある右足を下ろさずに上体と入れ替えた。右足は高々と天を指し、両の腕は胸の前で組まれている。身のつり合いはというと左足一本で保たれていて、微動だにしないその姿は月光に映えていた。これが自分の技を破った者の姿かと陽朝は思った。あまりにも美しい。
と、同時に疑問も持った。これほどの技を持ちながらなぜ、今の今まで好いようにおれに殴らさせていた? 陽朝は、佐近次の得体のしれなさに固唾を呑んだ。
「おまえ、一体何者なんだ?」
「仏道、武術、その双方の淵源にして、頂きから来た者とだけ言っておこう。が、その問いは今となっては、然して意味をなさない。もっと大事なことがある」
「大事なこと?」
「ああ、お前たちにとってはわたしの素性などよりもっと大事なことだ」
「言え。大事なことかどうかはこのおれが判断する」
この期に及んで陽朝の、上から見下ろすような言いぶり。呆れかえって佐近次は鼻で笑ってしまった。だが、仕方がない。『塵旋風』の陽朝と雖も所詮は井の中の蛙なのだ。こういう輩は自分以外は全て蛙だと信じていて、自分は蛇だとか鷹だとか思っている。自分に都合のいい世界だ。そういう目でしか世の中が見えない者に、豹という動物がこの世にいるなんてこれっぽっちも考えが及ばないだろう。
「円喜を殺したのは今出川鬼善」
「ばかな。相手は黒覆面だ」
「その黒覆面が腑に落ちなくてな、わたしはやつと何度も戦っていただろ。生駒であの鍋倉が突然消え失せたのも納得が出来なかった。それにも増して今出川鬼善だ。やつが生駒に居ること自体、おかしいではないか。それで何か分かればと鬼善の塗籠に忍び込んで探ってみた。そこで見たのは鍋倉の父、淵と鬼一法眼の間で交わされた文だ。何の気なしだったのだがな、幸運にも重大なことが二つ分かった。鬼一法眼は『太白精典』の正統継承者に鍋倉澄を選んだということ。もう一つは鬼一法眼の文の筆跡が、やり取りの途中で変わってしまったこと。書に精通していないと分からないほどの巧みなものだった。見抜けと言っても、さすがに鍋倉の父には酷ってものだろう。つまり、鬼一法眼が失踪してからも何者かによって筆跡が真似られ、文の交換はというと、続けられていた。それはどういうことか? 馬鹿でも分かろう。鬼一法眼は、鬼善の逆恨みで殺害された。騙し討ちか、あるいは毒殺か。文が送り続けられたのは鬼善の隠ぺい工作。『太白精典』は鬼善に奪われ、やつはそれを修得した。それで円喜はというと馬鹿だから、月見を追って鍋倉が今出川邸を飛び出して行った後、その鍋倉を追おうとした鬼善を捕まえて『太白精典』を強要したのだろう。間が悪いと言うか。鬼善は鍋倉を心底恨んでいる。鬼一法眼が死んだのは鍋倉のせいだとさえ思っているのかもしれない。その鍋倉を殺す良い機会だと焦っていたのに、足止めされたらどうなるか」
読んで頂きありがとうございました。次話投稿は木曜日とさせていただきます。今後ともよろしくお願いします。




