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掃雲演義  作者: 森本英路
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第42話 尸丸

 居並ぶ顔ぶれを見て、鍋倉は共感した。だれがやれ何だなんてばかばかしくて面白くない。それになんと言っても和歌である。むやみやたらに人を殺さず、美しいものをいとおしもうと心に誓った。和歌はそれにかなっていることを師、蓮阿を見て鍋倉は学んでいた。若い雑人ぞうにんの紹介が終わってみれば、うってかわってとても良い繋がりを得たと鍋倉は心より喜んでいた。


 老いて縮こまったであろう小さな身体の霊王が、かろうじて残った数本の歯を見せていた。


「盛長、おぬし自身の紹介がまだではないか」

「いいえ、わたしの紹介なぞ。わたしがここにいること自体、方々の栄誉の傷となりまする」


 と、若い雑人。この男が盛長である。


「なにをいうか」と霊王が満面の笑みである。そして続けた。

「盛長は見ての通り剃髪はしていない。在家なのじゃ。それでこの教団の台所や諸雑務を全て取りしきっている。鍋倉殿も世話になることじゃろう」


 鍋倉は、盛長に会釈をした。


「よろしくお願いします」


 盛長も会釈を返し、


「鍋倉殿の剃髪はいかがなされます?」と霊王に問う。


 考えてもみなかった。教団に入るっていうことはそうゆうことなんだと鍋倉は今更ながら気付く。


 ひひひっと霊王が気味の悪い笑いをした。


「清の手下になる。その必要はない」


 そういや、清の手下はみな、髪がある。良からぬことをやっているから目立たないようにしているのだなと鍋倉は思いを巡らす。


「あ、もう一つ」と霊王。

「実は清の夫になるのがこの盛長だ。二人の子孫は永遠に教団に仕えて行ってもらわなければならんからな」


 夫? 夫って、と鍋倉はその意味を考え、それ以外ないと分かると後は目の前が真っ白になった。だれが何を言おうと何をしようと、もう何が何だか分からない。随分と話があったような、なかったような。気付けば、境内に出ていて信者の人だがりの中心にいた。見知らぬ者に盃を差し出され、反射的にそれを掴もうとしたが落としてしまう始末で、不様をさらけ出している。だが、よくよく考えれば清を自分の妻にと思ったこともない。いいなづけがいると聞いて何を絶望しているのか。清とて年ごろの女だ。相手がいない方がよっぽどおかしいかろう。それをずうずうしくも親しく接し有頂天になって、己のバカさ加減に鍋倉は恥ずかしくてたまらなかった。この気持ちをどうしてくれようかと思った。ちょっとやそっとではぬぐえ切れないのだろう。


「誰かおれの口に酒を注ぎこんでくれ」


 大きく口を開けて、空へと向けた。その様子が余程滑稽だったのか、みな酔っ払っているので面白がって、大きく開かれたその口へどんどんと酒を流し込む。鍋倉は、まさにあびるようである。それが気つけとなり気分が大いに晴れた。勢いがついて、酒を注いでいる最中の信者らをどけどけと鍋倉は払い退け、手近の誰かから瓶子と盃をひったくる。そして酒を盃になみなみと注ぎ、一気に飲み干すとその空になった盃を高々とかかげ、「我々の勝利に!」と叫ぶ。境内に歓声が上がり、大いに盛り上がる。


「すーみ殿、おれの酒を飲んでくれっ!」


 遠く、黒山の人だかりの向こうで誰かに掲げられた瓶子が、人波の上を曲がりくねりながら近付いて来る。鍋倉も盃を高々と上げ、「もちろん!」と答える。そうなると我も我もと鍋倉に瓶子を持って集まってくる。鍋倉はそのどの瓶子も断らなかった。信者の誰もがその気っ風のよさに度肝を抜かれ、英雄好漢とはこういう人を言うのだと疑わない。そんな鍋倉はというと、ふと、次々に来る信者の中に鴨川の面々、隣人らが見えないことに気付く。


 盾になるとか言っていたが、あの死体の山だ。彼らは大丈夫だったのだろうか。いてもたっても居られず、その場を離れようとした。が、みなが離さない。酒を注がれる度にその想いも薄れて行き、前後不覚になると鴨川の隣人のことなぞ跡形もなく消え去ってしまった。






 翌朝、鍋倉は境内で酔いつぶれているところを盛長に起こされた。意識が朦朧としているのを盛長の部下に強引に立たされ、引き摺られて本堂に入れられる。鍋倉は、「あとにしてくれ」と言うのがやっとだったが、「重役の方々が折り入って頼みたいことがあるそうだ」と盛長が引かない。体がどうにもならない鍋倉だったが、何とか這いつくばる。そして、騒ぎ過ぎて枯れた喉を無理やり振り絞った。


「盛長殿、水を持って来てくれないか。シャンとしないと失礼だろ」


 せせら笑う盛長は、懐から赤い薬丸を一粒取りだす。


「水よりもっと効く薬がある。二日酔いに良いそうだ」


 鍋倉の口を強引に空けると「へへっ」と笑い、その薬丸を放り込んだ。粒が意外と大きかったのに鍋倉は首をすぼめて強引に喉を通す。


「鍋倉殿、飲みましたかな?」

「ああ」と答えるや否や、盛長が叫ぶ。


「霊王様、霊王様、鍋倉は飲みましたぞ!」


 這いつくばった姿勢で鍋倉は、その声が飛んだ方を見た。開かれた遣戸やりどから霊王が飛んできたかと思うと顎を掴まれ引き上げられる。目の前に敵意剥き出しの恐ろしげな霊王の顔があった。


「お前が飲んだのは、気つけ薬でも二日酔いの薬でもない、毒丸だ。と言ってもただの毒丸ではないぞ。心棲尸丸しんせいしがんと言って蟲の卵が入った薬丸じゃ。腹で薬の外皮が解けると蟲の卵がかえり、血中に潜り込みそこで成長し、最後は心の蔵に住みつき繁殖する。これの恐ろしい所は想像を絶する痛みと飲んだ者の姿かたちを醜く変えてしまうことにある。それだけでない。心の蔵に住んだ蟲はさらに卵を生み、血中で成長し、また心の蔵に戻ってくる。かくして今日から三月みつき、それがお前の寿命じゃ」


 なんだって? どういうことだ? 鍋倉はピンと来ない。


 恐ろしげな霊王の顔の横に、盛長の憎々しげな顔も並ぶ。


「命がほしければ『撰択平相国全十巻』を持ってこい。耳をそろえてだ」


 そう言った盛長に、霊王が目配せする。合図なのだろう盛長とその部下の動きは素早かった。押さえ込まれた鍋倉は縄でグルグルに巻かれ、さらにその上から藁蓆わらむしろ、そしてまた縄で縛られた。


 満足げに見下げていた霊王はその手の平を鍋倉の目の前に差し出す。そこに小さい何かが乗っていた。ぼやけた焦点が絞りこまれてゆく。


 ……小瓶?


「わかるか? これが唯一の解毒剤じゃ。この心棲尸丸しんせいしがんは遠く南宋から持ち込まれた貴重な薬丸じゃ。お前が飲んだのが最後の一粒、解毒剤もこれっきりだ。『撰択平相国全十巻』とこれを交換する。お前が持って来なければ当然、もがき苦しみ、醜い姿に変わって最後は死ぬ」


 事の重大さを、鍋倉はやっと理解した。『撰択平相国全十巻』はもうこの世にないのだ。状況を打開するにもこのざまでは、「だましたな。ひきょうだぞ。縄を解け」とわめき散らすのが精一杯である。


 この騒ぎに、清と入道蓮生が「何事か!」とすっ飛んできた。簀巻すまきにされている鍋倉の有様に清が血相をかいて「お母様!」と霊王に詰め寄る。当然のことをしたまでだとばかりに、霊王が自慢げに言う。


「毒丸を飲ませてやった。それも三月後に苦しみ死ぬという恐ろしい尸丸しがんをな」


 とは体に悪さをする蟲である。宋人の間ではそれが体に三匹棲んでいると信じられていた。庚申こうしんの日に眠るとそれが抜け出して天に上り、天帝に会って宿主の悪行を告げ口し、告げ口された本人は天帝に寿命を縮められるという。その迷信からして、霊王が鍋倉に飲ませた毒丸はどんなものかは容易に想像できる。清は絶句した。


 一方で、なにをそんなに衝撃を受けているのかと盛長は思った。『撰択平相国全十巻』を取り返すのが我らの役目ではなかったのか。盛長には清の態度が気に入らなかった。


「なにか問題でも?」


 盛長のその言い様。それが清に火をつけた。


「盛長、お前はここで何をやっているのか!」

「何ってなんだ! わたしは『撰択平相国』を取り戻そうとしてるだけじゃないですかぁ!」


 入道蓮生が言った。


「おばば、これが教団を救ってくれた者に対する仕打ちか? よく自分のやっていることを考えなされ」


 霊王は言った。


「何を言うか。法然様を助けてくれたからこそ、これくらいでがまんしたのじゃ。それに解毒剤があるのだから『撰択平相国全十巻』を持って来たらどおってことない。そうじゃろ?」







読んで頂きありがとうございました。次話投稿は日曜とさせていただきます。今後ともよろしくお願いします。

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