第41話 たぎり
「そういうのじゃない」と小さな声。霊王子、いや、清の言葉は、勝利に沸き立つ信者らの騒ぎによってかき消される。「わたしはずっと前からそう思っていたのよ」
「え? 何て?」と鍋倉は聞き返した。だが、清は答えてはくれない。じれったくなってもう一回聞き直そうとした。ところが、そこへ長身の僧体武者が割って入ってくる。鍋倉の顔がやっと胸に届くかというほどの背丈なので、清に話そうにも邪魔でならない。鍋倉は文句を言ってやろうと思って、その顔がよく見られるよう一歩後ろに下がった。馬を思わせるほどの長い顔に白く長い顎鬚がたなびいている。それが言った。
「みながおぬしの名を呼んでいる。それに答えなくてはいつまででもおぬしは名を呼ばれ続けますぞ」
鍋倉と清が話している間に「すーみ」と連呼する信者らの興奮は最高潮に達していた。確かに、こんな夜中に名前を叫ばれるのもと鍋倉は思った。止めさせなくてはならない。
「答えると言っても、どうすれはいいんだ」
「手を上げればいいのです。さぁ、みなに見えるよう手を高く」
恥ずかしいなと思ったが仕方がない。鍋倉は二尺の棒を天に向けて上げる。ところが逆に信者からの大歓声である。その場は一層盛り上がってしまった。
鍋倉は唖然とし、また馬面を見上げる。
馬面が顎鬚を撫でながらばつが悪そうに、さぁ? って顔をしている。
清が言った。
「澄、法然様のところへ行きましょっ」
「そうしよう」
鍋倉は二つ返事であった。馬面の白髭も、郎党に陣を引き払うよう命じた。数はというと半分に減っていたが、教団の大行進はまた続けられようとしていた。何しろ信者はどこへ行けば法然の石棺に会えるのか分かっていない。大路に散り散りになっていたが、進む甲冑武者の後ろに次々と加わって行く。その過程で各々が、捨てられた竹槍を拾い、松明を拾い、南無阿弥陀仏の旗を拾う。
ところが今度は、念仏を唱えなかった。聞こえてきたのは歌である。誰からともなく口遊さまれた歌が信者らの間でどんどんと広まっていった。
気が付けば月光の下、清と鍋倉を先頭に吉水教団の一団は大きく派手に騒いでいた。難が去って安心したのか、信者らは心の内に抑えつけられた感情を解き放ち、歌い、踊る。笑い声も聞こえた。平安京の大路を練り歩く大行進は強い熱気に包まれていた。
やがてその熱気は渦となる。道一杯に埋め尽くす彼らにはもう個々の存在なぞなかった。この瞬間に、この場に生きている。生い立ちの不幸も、突然に襲い掛かって来きた不運も、なにもかも失せていた。あるのは燃えたぎらんばかりの活力。そしてこれほどまでの力があるならばと、幸福な未来を予感した。だがその一方で、それもこの一瞬だけだと誰もが理解していた。心の安らぎはここにはない。浄土にある。
七十数年前から続いた内乱。その間に賤民に身をやつす者、難民となって流れてきた者で平安京の河原は充満していた。大凶作ともなれば多くの餓死者を出し、特に源頼朝が伊豆で挙兵した治承四年の大凶作は空前絶後と言わざるを得ず、餓死者は洛中洛外合わせて五万とも十万とも噂された。
当時の弔いは身分の高い者以外野ざらし、いわゆる風葬だった。それ故、大路も小路も飢えで死んだ人々が無数に放置され、賤民や難民が集まる河原などは、幾十もの積まれた死骸の山に立ち塞がれて、車はおろか馬での移動は不可能で、人はというと死体の上を這いずって、あるいは踏みしだいて日々の行き来をする有様だった。
だからこそ、この一瞬を一心不乱に歌い、躍る。高ぶりを抑えようとしない一団はこうして平安京を横断し、西側の嵯峨野二尊院に到着した。
入道武者らの郎党は山門の前で、外周を固めるために散開した。鍋倉は、清の導きに従い馬面の白髭と他四名と共に本堂に向かった。後に続いてきた信者ら五百はというと山門をくぐり一斉に、境内になだれ込む。先着していた信者らと混じり合い、あちらこちらで酒宴が始められた。歌声に笛の音、笑い声、そして酒の匂いが本堂まで届いて来た。酒に目がない鍋倉はその本堂で、気もそぞろに畏まる。
正面奥の石棺を前に、いかにもと思わせる老僧が一人座っていた。向かって右手には学生六人が一列。左手には老婆、五人の入道武者、そして直垂の若い雑人。合わせて七人が一列で、左右が向かい合うかっこになっている。清はというと鍋倉を置いてどこかに行ってしまった。
いかにもって人らの中に一人取り残された上、外では酒宴か。鍋倉は居並ぶ顔を見渡した。どことなく雰囲気が湿っぽい。外では大騒ぎなのにと、やはり外が気になる。とはいうものの、彼らの顔はつぶせない。そうなれば飲める酒も飲めなくなってしまうってもんだ。鍋倉は辞を低くした。
「末席に加えていただいた鍋倉澄と申します。以後、お見知りおきを」
おもむろに中央の老僧を見た。老僧は目に一杯の涙をためている。こりゃぁ、ながびきそうな気配だと愕然とした。案の定、老僧は長々と感謝の言葉を重ねた。そのうえその言葉が口の中でもぐもぐと籠るので半ば聞き取れない。酒もおあずけされ、これでは拷問だと内心で悪たれ口をたたく。
ふと、左手に並んでいた老婆の視線に気付く。目の色に怒りを宿し、鋭く睨んでいた。それで鍋倉は大事なことを思い出した。
『撰択平相国全十巻』を燃やしてしまっていた。清の養母、霊王は平清盛が出来合いでは飽き足らず手塩にかけた白拍子である。その霊王が『撰択平相国全十巻』を執拗に付け狙っていた。霊王としては清盛公の形見のつもりなのであろう。是が非でも手に入れたいというのは分かり切っていた。
まずかった! 鍋倉は後悔した。霊王と会うなんて考えてもみない。もしそれが予想できたなら、本堂に上がりはしなかった。信者らに紛れこんで今頃はたらふく酒を飲んでいた。
それにしても霊王の眼光。怖くて目を合わせられない。燃やしたことは信念を持ってやったことだが、今にして思うとそれが正しかったとは思えない。当然、この場で胸を張って霊王に説教じみた話なんて出来る道理はない。かといって、謝るのもいかがなものか。霊王はまだおれが『撰択平相国全十巻』を持っていると決めつけているはず。それを燃やしたと本当のことを言ったとしても怒りを買うだけだ。鍋倉は慄き、言葉も発せられず、じっと固まっている以外何も出来なかった。
長々とした老僧の礼の言葉。頭を何度も下げている感じから、それも終わりに差しかかろうとしているのだろう。初めは拷問だと嘆いていたが、鍋倉はまだ終わらないでくれと願うばかりだ。おそらくは霊王も、老僧の言葉が費えるのを待っていることだろう。話が終われば霊王は問い詰めてくるはずだ。どうすればいいのか。頭の中は真っ白になり、鍋倉は酒のことなぞもうすっかり忘れていた。
ところがその心配をよそに、老僧が言葉の最後で霊王に釘を刺した。ずっと聞き取りづらかったその口調が一転、はっきりと澄んだ声で本堂に響き渡らせた。
「『撰択平相国全十巻』よりも法然様であらされるぞよ、霊王」
その場が凍りついた。老僧は、霊王に目をつぶれと言っているのだ。霊王はなんて答えるのだろうか。聞きようによっては、教団のために『撰択平相国全十巻』を鍋倉に与えよとも取れる言い様である。もちろん、そんなことを霊王が認めるわけがない。鍋倉もそう思うし、他の誰もがそう思っているのだろう。霊王の口が開かれるのを待っていた。
霊王が言った。
「鍋倉殿がおわしたおかげで法然様の御遺骸は御無事であったのじゃ。そんなことは誰でもわかるというに、わしを馬鹿にしているのかな、方々は」
驚くべきことに、霊王は鍋倉を許したのだ。所々失ってしまった歯を見せ、にこやかに笑っている。
誰もが呆気に取られている中で、鍋倉の心はというと動揺していた。先ほどまであんなに睨んでいたではないか。そもそも『撰択平相国全十巻』には多くの手下の命を費やしたはずだ。それなのに霊王がそうも簡単に諦められるものか。あるいは、老僧の言葉に素直に従うまさにその通りに、霊王は清盛よりも法然に心底傾倒しているのかもしれない。だとしたらと鍋倉は思った。なるほど、だからか。そうでなければ清がおれを霊王に会わすはずがない。
妙な雰囲気の静寂。それを若い雑人が破った。唐突に、朗々と口達者に全員を紹介しだしたのだ。一人一人、懇切丁寧に経歴を述べていく。それによると先ほど長々としゃべり、鍋倉に助け船を出してくれた老僧は信空という。師祖法然から教団を引き継いだ統率者ということだ。
向かって右手の列はというと一人を除き公家の出で、その一人が末席の源智で平師盛の子だという。次に左手の方であるが、上から老婆の霊王、入道蓮生と他四人の入道武者。その末席が口達者の若い雑人で、この男のみは名が分からない。皆の紹介に専念し、自らは名乗ろうともしなかったからだ。
名以外にも色々と分かった。入道蓮生はというと先の馬面の武士で歌壇では和歌の名人と通っているという。霊王や源智は平家所縁の者であるが、入道らはみな鎌倉の御家人で、他は公家である。驚いたことに、敵対した勢力に身を置く者らがここではごく自然に顔を合わせていたのだ。
読んで頂きありがとうございました。次話投稿は木曜とさせていただきます。今後ともよろしくお願いします。




