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掃雲演義  作者: 森本英路
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第40話 忌み名

 霊王子の方が先に、鍋倉の存在に気付いていた。それもそのはずである。板塀が倒れた音や砂煙で、何が起こっているのかは両勢力がぶつかり合う戦場からでも察せられたし、それにもまして霊王子らは、『征矢せや』の海秀に防衛線を突破されていたのだ。それだけではない。さらにはもう一人、海秀のほかにも取り逃してしまっていた者がいた。『七歩蛇しちふじゃ』と二つ名をもつ男である。


 七歩蛇しちふじゃとは、噛まれたら七歩も歩かないうちに息絶えてしまうという龍の姿をした四寸足らずの小さな妖怪である。『征矢せや』の海秀は料簡りょうけんが狭い上、よく飛び跳ねることで『いなご』とそしられていたが、『七歩蛇しちふじゃ』は言うなれば小さな龍である。その二つ名でも分かるように比叡山では将来を嘱望しょくぼうされていたし、事実、攻防の七手以内に必ず敵を倒すという評判の男だった。『征矢せや』の海秀は鍋倉が倒したからいいとして、そんな『七歩蛇しちふじゃ』が防衛線を突破していて、法然の遺骸を追っているのだ。霊王子らが気にしないはずはない。


 言うまでもなく鍋倉は、『征矢せや』を倒したことで比叡山の方にも目に止まっていた。戦場でぶつかり合う両勢力から注目の的だった訳だが、当の本人はそんなことになっているなぞ露知らず、霊王子と再会できるとあって嬉々としていた。戦いも何もかも忘れて、霊王子の呼ぶ声の元に向かっていた。案の定、比叡山の僧兵に遮られる。巨体だが、軽功を使って一瞬の内に鍋倉の前に現れた。


「変わった武芸だな。わたしは紫円という。ご教授願おう」


 鍋倉は、その僧兵から雄渾なる内功を感じ取った。木製の長棒を武器としていることからしてもこの巨体の僧兵が力任せの武芸者でないのは疑う余地もない。


 鍋倉は言った。


「御随意にどうぞ」


「では、まいる!」


 巨体の僧兵が構えを取った。言葉使いからして先ほどの軽功の名手とは格が違うように思える。それに雰囲気に重みがあるというか、存在感もある。その僧兵が長棒をひゅんひゅん軽やかに回したかと思うと何の予備動作もなく突きが、気合いもろとも向かって来ていた。一直線に迫る長棒の先端。宋銭大の断面が渦を巻きつつ恐ろしいほどの勢いで襲って来る。


 すごい! と鍋倉は思った。おそらく、この長棒で突かれたら何所であろうがぽっかりと風穴が開けられてしまうであろう。避けられたにしても、ちょっとでもかすめればその旋転に巻き込まれ、衣類はもとより皮膚までも剥ぎ取られてしまおう。それだけでない。予備動作もなく突きが放たれた。ゆとりがあると言おうか、技を自在に変化させられる柔らかい動きにも目を見張る。


 吉野では『今弁慶』と戦った。紫円と名乗ったこの男は、それよりかは一回りほど小さかった。膂力りょりょくも劣るだろうが、紫円の技には『今弁慶』にないゆとりがあった。天賦の才なのだろう。鉄製の八角棒をぶん回すのとはわけが違い、努力しても真似できない紫円独特の動きがそれを物語っている。なるほど、こういう人もいるんだと感心しきりの鍋倉であったが、やることは変わらない。体を開いて、向かって来る長棒に対して横に立つ。いつもより力は必要であったが二尺棒で、旋転する長棒を上から押さえつつ逃がすように下へ導いていった。


 果たして、長棒は地面を突いた。といってもまだ押す力を加えているものだから長棒は大きくしなり、その反動で巨体の僧兵は地面から切り離されて、天に向けて跳ね上げられてしまった。鍋倉の頭上高くで、大きく弧を描き、三十歩程後ろに落下した。


 が、いかんせんその宙空にある時間が長すぎた。巨体の僧兵はそこで体を捩じり、足から着地する。そして迷いも恐怖も、何のためらいもなくヒュンと走り、もう鍋倉に掴みかかって来た。


 一歩下がって体を開きつつ鍋倉は、襲って来る僧兵の手に二尺棒を当てがいクルッと円を描く。次の瞬間、巨体の僧兵がばばばっとその場で三回転した。そして大きな音と砂煙を上げて地を打った。観ていた誰もが声を失う。当の鍋倉はこの時すでに霊王子を求め、その声が聞こえた攻防の境界線に向けて歩を踏み出していた。


 うねる人波の中に霊王子の姿があった。詰まった信者らの間を弾むように縫って向かって来ている。やがてそれが目の前に躍り出た。息を切らし、いや、嬉しさなのだろうか、言葉を詰まらせ発せられないでいる。鍋倉もそんな霊王子になんて言ったらいいのか、言葉を迷っていた。肩で息する霊王子は、吉野で一緒に生活した霊王子だった。会いたかったと言ったら霊王子はなんて言うのだろうか。わたしもよと返してくれるはずだ。いや、こんな時に会いたかったと言うべきではない。今、霊王子に言うべき言葉はただ一つ。


「比叡山を追い払おう」


 霊王子の表情が光って見えた。鍋倉は有頂天になって意気揚々に、


「信者の方々、さがられよ! さがられよ!」


 と声を掛けつつ霊王子といっしょに比叡山の僧兵へ向かって進む。信者ら五百は潮が引くように後ろに下がって行く。残ったのは鍋倉、霊王子とその手下ら、それと僧体の甲冑武者五人とその郎党ら、みな合わせてその数一千。一方で、比叡山の僧兵一千は信者で出来たせきの頂に陣取ってはいたものの、鍋倉の武功に怖気て一歩も下ることができなかった。にらみ合いが半刻程続いたが、棺はもうどこか遠くへ行ってしまっただろう。比叡山は法然の遺骸奪取を諦め、退陣し始めた。


 やがて全ての僧兵らの姿が闇に失せるに至り、吉水教団の信者五百名は歓喜の声を上げた。竹槍の柄で地を突き、足を踏んで「すーみ、すーみ、」と連呼する。鍋倉は比叡山一千を撃退し一躍教団の英雄となったのだ。当の鍋倉はというとどこ吹く風。ただただ、霊王子のそばに居られて嬉しかった。


 僧兵らの気配が完全に途絶え、ほっと一息ついた霊王子が言った。さっきからずっと思っていたことだった。


「澄、治ったのなら何で報せてくれないの」


 霊王子の言葉は聞こえてなかった。その動く口元をじぃっと見ていた。


「澄! なんとか言いいなさい!」


 はっとし鍋倉は何と話しかけられたか分からない。慌てて言葉を探した。


「おまえが、すーみ、すーみって言うもんだから、みんながそう言ってしまっているじゃないか。おれは、すみ、澄だ」


 出てきた言葉がそれだったが、霊王子は怒るどころか満面の笑みである。


「あなた、自分がやったこと、分かってるの?」

「悪いやつなんだろ、あいつら」

「そうじゃない。やっつけた相手のこと」

「いや、しらない。悪いやつじゃないのか?」

征矢そや七歩蛇しちふじゃ。知らないの?」

「知らない。有名なのか?」


 霊王子は呆れた。説明しようかと思ったが、やめた。鍋倉が興味を示さなかったのはともかく、二人で話しているのを多くの者に見られている。気位の高い霊王子だ。これ以上は耐えられない。だが、どうしても聞きたいことがある。内傷は良くなっているようだからいいとして、強くなった理由。鍋倉は『撰択平相国全十巻』を読んでないし、今更読もうにも兵庫津で燃やしてしまっている。


「その武術、どこで習得したの?」


 蓮阿が歌人を通したいのは分かっていた。しかし鍋倉は、霊王子には包み隠さず言ってもいいと思った。吉野で一緒に暮らしたから霊王子が気位の高いのは分かっていた。そんな霊王子が人の秘密を話し、自分の品位を落とすようなことは絶対にしまい。ましてや蓮阿は二人にとって恩人でもある。


「二人だけの秘密だけど」と言って鍋倉は霊王子の肩にほとんど触れるまで近付いて、小声で言った。


「実はこの武術は『粋調合気』といってな、西行様が考案なされたそうだ。それを蓮阿様が受け継いで、おれに託された。当の本人は武術家ではなくて、歌人でいたいらしい」


 ふと、霊王子は蓮阿が鍋倉に伝授していた気息法を思い出した。すぐに、そういうことかと得心した。ふふふっと霊王子は笑みをこぼした。


「老師らしいわね」


 鍋倉も満面の笑みを返した。


「んで、吉野に居たかったんだけど、おん出されてしまった」


 霊王子は声を上げて笑った。


「あなたは何にも変わって無いのね、強くなっても」

「強くなったからって変わるものか。おれはおれ、何も変わらない」


 また、霊王子はふふふっと笑い、恥ずかしそうに言う。


「澄、あなたにはわたしの名前を教えてあげる。せい、きよいって書いて清っていうの。もう霊王子って呼ばないで」

「へーっ」

「なにかおかしい? わたしにもちゃんとした名前がある」

「いや、なんかおれの名前に似ているなって思って」


 霊王子が赤面し、俯く。


 ええ? なんでっと思った鍋倉は下に向けられた霊王子の顔をのぞき込む。が、その霊王子に顔を背けられた。鍋倉は慌てた。清は気位が高い。それを傷つけたのではないかと心配した。


 鍋倉は言った。


「あ、そういうのではなくいい名前だと思うよ。おれなんかよりずっといい名だ」


「そういうのじゃない」と小さな声。騒ぎにかき消される。「わたしはずっと前からそう思っていたのよ」







読んで頂きありがとうございました。次話投稿は日曜とさせていただきます。今後ともよろしくお願いします。

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