第39話 逆鱗
語気を荒げる鍋倉に、僧兵は気圧された。だが僧兵とて名のある剛の者である。噂にも上ったことのない鍋倉の顔を見てそんなやつに馬鹿にされたかと憤慨し、しかもよく見るとこの男、微塵たりとも気を発してないどころか、精気さえも感じられない、そんな武術のイロハも知らない下郎にこの言われよう。おれをだれだと思っているのかっ!
「ぶっぶっっっーーー殺ーーーすっ!!!!!」
怒号するや否や、僧兵は飛び掛かかった。
一方で鍋倉は、腰から二尺の棒を引き抜くと僧兵に向かってクルリと円を描く。一刀両断にしてやろうと振るわれた僧兵の太刀だったが、鍋倉の棒に触れるとその手から抜き取られただけでなく、棒を軸にぐるんぐるんと回り出した。
呆気にとられたのは僧兵である。怒りに捕らわれたとはいえ、あまりにも面妖である。己の太刀がどういう訳か奪われてしまったのだ。まるで神通力か、妖術か。長年武術界に席を置いたと雖も、その様な技は見たことも聞いたこともない。しかも相手はどう見ても、どう見積もってもただの人である。それがどういう訳か、太刀を奪われただけでなく、さっきは取るに足らないこの男に気圧されてしまった。
ふと、気付く。行き交う吉水教団の連中らもいつの間にか途絶えている。なぜだ、と僧兵は考えた。おれの怒号に恐れをなしたためか? いや、そうではない。怒号を上げる前には混乱は収まっていた。おれと同じように教団の連中は、目の前のこの男に気圧された。それで混乱状態から目が覚めたんだ。
気を発せずに相手に威圧感を与える。武術の常道をくつがえすほどの功者がどこかにいたとして、それがなぜ今の今まで名乗りを上げなかったのか。なぜ邪教に手を貸すのか。
僧兵は、どれもこれも納得が行かない。特にこの目の前の光景。奪われた太刀はというとすでに高速回転となり、残像で白刃が円盤のようになっていた。
名乗りを上げるにしろ、邪教に手を貸すにしろ、この僧兵の問いにもし答えよというのなら要は、成り行きだったからだ。だだ、どうして気圧されたのかについては説明が必要であろう。当の鍋倉も自覚出来てはいない。なにしろ目の前の僧に頭に来ていたのだ。どうやって己の非力を、己が特別な存在ではないことをこの僧兵に分からせてやるかで頭の中がいっぱいであった。信者らがどうして正気を取り戻したなんて考えが及ぶはずがない。
いずれにせよ、気圧された理由なぞ僧兵には想像だにしないであろう。鍋倉は、武人でなく歌人の蓮阿に知らず知らずに影響を受けていた。つまりは言霊である。鍋倉の霊威が言葉に力を宿した。蓮阿は言った。西行の和歌であれば鍋倉の中の金神を眠らせておくことが出来ると。それはまさしく、西行の霊威の凄まじさを語ったものだといえよう。
ともかく、面白くないのは僧兵である。怪訝な顔で鍋倉を見つめていた。一方で、鍋倉はそんな僧兵を尻目に、高速回転させている僧兵の太刀をぴたりと止めた。太刀は、鍔を棒に引っ掛けてぶら下がっている状態である。あんぐりとそれを見ていた僧兵だったが、その視線をゆっくりと上げる。目が合うのを待っていた鍋倉はというとその時が来ると、思い上がるなと見下すような冷淡な視線を送る。
ぎくっとした僧兵。それが固唾を呑み、そして逃げるように視線を逸らす。周りには大勢の吉水教団の者達。さきほどまでは狂気に飲み込まれて我を失っていた。羽虫のように飛び交っていたはずだが、今は足を止めてこの戦いの行方を静かに見守っている。
覚悟がないとぬかしておいて、どう見ても不様としか言い様のない。客観的にそんな己の姿を想像すると僧兵は耐えきれなくなった。視線を鍋倉の棒に戻し、固唾を呑んでそれに手を伸ばす。額から頬に向かって大粒の汗が走るのを感じた。
僧兵は、手を止めた。ちらりと鍋倉を見て様子をうかがう。表情がピクリとも動いていない。この男はいったい何を考えているのか。あるいはもしや、棒の先にぶら下げているということは返してやろうという意思表示なんじゃなかろうか。
ばかな。おれは何を臆している。嫌がらせに決まっているではないか。僧兵は己を叱咤し、こんなところで自身の名を穢すわけには行かないと己を鼓舞する。
また固唾をのんで、さらに手を伸ばす。もう届きそうだと思ったその刹那、やはり鍋倉は動いた。二尺の棒がクルリと一つ、円を描く。太刀は一回転。その流れで鍋倉は棒先を下げる。太刀はというと切っ先から勢いよく垂直に落下。ザクッと地面に刺さって白刃の半分が地中に消えた。
牛車や馬や人で何百年も踏み固められた平安京の道は尋常になく堅い。驚いて、僧兵が目を丸くした。しかしそれでもなお、地に刺さった己の太刀に僧兵は手を伸ばす。
鍋倉は垂直に跳んだ。そして地に立つ太刀の鍔に両足を揃えて着地した。白刃が一瞬で地下に消え、柄だけが地上に残った。
思わず、僧兵は後ずさった。結局、軽くあしらわれただけだった。腸が煮えくり返る思いだったが、無名のこの男が達人であることは素直に認めよう。そして、ならばそれなりの戦い方をしなければと気持ちを切り替えた。正面から当たらず、得意の神速を屈指して動揺を誘い、その隙をつく。そう心を決めた僧兵は二回、三回とトンボを切り距離をとると鍋倉の周りを駆け始めた。
「軽功の名手か」
鍋倉が言うように僧兵の速さは矢のごとく凄まじかった。それを見ていた誰もが目を回し、吐き気をもよおすほどである。僧兵はというと鍋倉を惑わそうとしているのだろう、たまに飛び出してはすれすれに横切って行く。が、当の鍋倉は微動だにしない。それもそのはず鍋倉は、この僧兵に対して怒り心頭に発していた。『粋調合気』の要諦。相手をのすのは己にあらず。にっくき相手が必殺の大技を繰り出すのを待っていた。
そんなことを露ほども知らない僧兵は己の仕掛けた牽制に鍋倉がじりじりしているんじゃないかと思っていた。五月蠅いと頭に血が上っているはずである。だが、鍋倉がその誘いに乗ってこないのに僧兵の方が先に焦れ始めた。なんなんだ、こいつは。あほか、白痴か、かえって恐ろしくなって我慢しきれずに鍋倉の後方で高々と飛び、その高さから蹴りを、矢のごとく放つ。
一方で、いくら速度を上げようとも殺気立っている僧兵の気配を捉えられない鍋倉ではない。黒覆面の男にやられてからというもの気には敏感になっていたし、吉野では実際に飛んでくる矢でも修行を積んでいた。矢を逸らすことはもとより、二尺の棒で絡め取って、その矢の勢いそのままに飛ばした相手へ返すまでとなっていた。そしてこの場合、向かってきているのは実際の矢ではなく、生身の人である。
振り向きがてら鍋倉は二尺の棒を、飛んでくる僧兵のくるぶしに当て、ちょいと横に振った。途端、僧兵の体は横回転し、うまい具合に、といっても鍋倉が調整したのだが、横回転しているにもかかわらず鍋倉の横をすり抜け地面に激突。それでもなおも回転は止まらず、そのまま砂埃を巻上げて地を滑り、板塀の角に体をぶつけてそこでやっと止まった。
塀は、その衝撃で傾き出した。そしてそれに連なる東の面と南の面が引っ張られるかたちでばたばたと奥へ奥へと倒れて行く。かくして、僧兵も含め板塀の二面全てが、砂塵の中に消えてしまった。
この二人のやり取りを周囲の者たちは固唾を呑んで見守っていた。なんといっても一方は、比叡山の名高い『征矢』の海秀である。『いなご』と揶揄される場合もあったが、ともかく、無名の鍋倉などは瞬殺の憂き目に会うだろうと誰もが思っていた。それが不思議な武芸で『征矢』と恐れられる海秀を寄せ付けない。挙句、その海秀が板塀に埋もれるに至り信者らは驚きのあまり固まってしまった。
「すーみー、すーみ」
どこからともなく女の声である。鍋倉はすぐに霊王子だと分かった。そしてその声を手繰った。教団と比叡山がぶつかり合う境界線付近から聞こえていた。
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