第36話 二尺の棒
早朝、蓮阿に別れを告げると鍋倉は、しぶしぶ蓑をはおった。腰には太刀の替わりに二尺の丸棒を差してある。草庵の戸締りに使う棒だった。だが今の鍋倉には、ただそれだけで良かった。旅立つには十分過ぎるものを蓮阿から頂いた。その感謝の気持ちも、手を遣戸にかけると逆にやるせなくなる。やはり行きたくはなかった。
もしや、と思い鍋倉は、行くなという蓮阿の声を遣戸に手を掛けたまま待った。開ければもうこの草庵には居られない。それは蓮阿とて分かっているはずなのだ。だがいくら待とうにもその声は掛からなかった。恐る恐る振り返る。蓮阿は笑顔であった。そしてそれが横に振られる。どっと寂しさに襲われた。
鍋倉は仕方なく遣戸を開ける。しとしとと雨が降っていた。その雨の中に歩みを進める。行かなくてはならないのは分かっていた。世話になった蓮阿が行けというのなら、行くことこそが恩返しなのだ。だけど、と鍋倉は思った。
その気持ちを押し殺し、いくらか進んでみるものの、やはりやるせない。振り返ると、草庵の前で蓮阿が笑顔で見送っていた。今度こそ行く、と諦めて鍋倉は重い足取りで先へ進む。が、無性に蓮阿が恋しくなって、我慢しきれずにそこで立ち止まり、振り返る。やはり蓮阿の笑顔は変わらなかった。
この二人の遣り取りは何度も繰り返された。鍋倉は進んでは立ち止まり、進んでは立ち止まる。蓮阿はというとその度ごとに笑顔だった。それでも笑顔が見れるうちはまだましだった。やがてはそれも森の中に失せてしまう。草庵が見えなくなった途端、鍋倉は胸が熱くなった。脳裏には昨日までの出来事が走馬灯のように蘇ってくる。
三人での食事は笑いが絶えなかった。霊王子が旅立つ前の日の蛍、そして今様。熊野別当快命が来た雪の日。日々の鍛錬。
鍋倉は、抑えきれず声をあげて泣いた。頬を濡らすのが雨水か涙か、分からないくらい泣いた。見送る蓮阿の笑顔が瞼から離れない。それがまた涙を呼ぶ。どうしようもなかった。こみ上げてくる感情を抑えることが出来ない。かくして鍋倉は重い足取りでとぼどぼと吉野山を下って行った。
平安京に舞い戻って来た鍋倉は、その東を流れる鴨川の畔を住居と決めた。掘立柱に重石板葺の簡単な小屋を作って雨露をしのぐ。折しも梅雨で鴨川の水位は上がる一方で、鍋倉は作ったばかりの小屋を流されてはしまわないかと河とにらめっこする日々を過ごしていた。すでに小屋を構えていた河原者と呼ばれる住民はというと雨量と水かさの関係がよく分かっているらしく悠々たるものである。
「やばいんじゃないの、これ」と鍋倉が濁流を指差して言うと、「大丈夫、大丈夫、ま、流されたとしてもまた、建てればいいさ」と河原者らはのんきなものである。鍋倉はそんな河原者達とうまがあった。
親兄弟同様に食べ物を分けてくれるし、なにかと世話を焼いてくれる。すぐに親しくなった。とりあえず吉野を出たものの鬼一法眼のあの怪しい眼光を思うと今出川邸に戻れず、何の気なしに決めたのが鴨川の畔であった。ここ二、三日の間でそれが間違いではなかったとほっとする。そして世の中があまりにも複雑で不条理なことばかりだと思う中で、河原者らの飾り気もなく有りのままに生きてく様に鍋倉は心うたれた。その想いが相手にも伝わるもので信用されたのか、隣人の一人に吉水教団への入信を勧められた。居住して幾ばくも無い篠突く雨の日である。
隣人によれば、鴨川の畔のほとんどの者が吉水教団に入信していて隣人自体は、列なった二十軒を代表してやってきたのだという。正直、鍋倉は教団が念仏門の亜流で小規模の集団だと思っていた。隣人の話からそうでないことが分かると感心し、その一方で霊王子の立場を考えると吉野山で一緒にいたことが今更ながら驚きである。
隣人が話している最中、そんなことを思い巡らしていたから、鍋倉は自分自身の置かれている立場、霊王に狙われていることなぞすっ飛んでしまっていた。隣人の勧誘に、何の気なしに「おれもそうよ」と言葉を出してしまった。そう聞いた隣人がもろ手を挙げて喜んだのは言うまでもない。
「ならば、今夜、東山大谷に行くんだろ?」
霊王子は東山大谷に住んでいる。鍋倉は吉野でそう本人から聞いていた。だが『撰択平相国全十巻』のこともある。のこのこ訪ねて行っていいわけがない。霊王子に迷惑がかかるのだ。今更ながら「おれもそうよ」なぞ言わなければ良かった。
雨粒が相当大きいのか屋根を打つ雨音が半端じゃない。耳にガンガン響く。東山大谷には行けない鍋倉はもうその話には興味がない。屋根が崩れてこないかのほうが気になって、もう隣人の話は上の空。教義がどうの開祖がどうの言っているのを適当に相づちを打っていた。ところが、隣人がこう言ったのだ。
「東山大谷の霊廟が大変なんだ、知らないのか?」
「えっ!」と驚き、鍋倉は我に返った。「霊王子に何かあったのか?」
鍋倉の心配をよそに隣人は、慌てて鍋倉の口を押さえる。
「お前、ほんとに信者か? おれら下々は恐れ多くてその名を口にしないんだぞ」
そういやぁ、あいつは女神だったな。にしても、大変とは何が大変なのか。鍋倉は押えられている手を口から払い除ける。
「もしおれが信者ではなかったとしても、いまさっき、勧誘しただろ。おんなじことではないか」
「あ、そうか」と隣人が手を叩いて納得し、言う。
「とにかく、人出がいるんだ。今夜、したくをして河原の枯れ松に来い」
「人出? したく? あの人には大勢の手下がいるんじゃないのか?」
「大勢いるにはいるが、棺もかの方も御守りするにはまだ足りん」
「足りんって。何が起こるんだ?」
「戦じゃ、決まっているだろ。さぁ、したくじゃ。共に浄土に旅立とうではないかっ!」
そう言って隣人は、雨の中に駆け出していった。
「戦?」
はて? と、鍋倉は一瞬考えた。と、するとまさか、あの、戦かぁ?
「って、殺し合いじゃないか!」と肝をつぶした。「とにかく!」と勢いよく立ってはみるが、「したくって」とおろおろするばかりで時間だけが過ぎていく。
かくして日が暮れると雨はすっかり上がり、月はしっかり出ていた。隣人の言った通り、河原の傾いだ枯れ松に隣人を含め数人が竹やりを手に集まっている。その輪に入った鍋倉はすぐさまその隣人らに怒られてしまった。
「棒って。棒ってなんだ! ガキの喧嘩か!」
鍋倉は二尺の棒を腰に差したっきりである。
「俺らはわざわざ御山に行って竹切りに行ったんだぞ。お前は何してたんだ。河原で芥拾いしてたんじゃなかろうな!」
河原って。「おれも吉野山でこれを」
「吉野まで? それを? ふつう御山といえば東山だし、武器と言えば竹だぞ」
「とんでもねぇ大馬鹿者だ」
「嘘はいけねぇ。お前の棒、どう見ても人が作った棒だ。河原で拾ったんだろ。まさか柴削ってまっすぐにしたと言い出すんじゃなかろうな」
その通り、人が作ったものですけど。「戸締りする時のつっかえ棒」
「おまえ頭がおかしいのか? と、いうことはだ。おめぇ、わざわざ吉野山まで行って、しかも戸締りするつっかえ棒を持ってきたということになるんだぞ」
「とんでもねぇ大馬鹿者だ」
「嘘をつくならもっともらしい嘘をつけってんだ!」
嘘、嘘、嘘って。ホントだからしょうがないじゃないか。だが、よくよく考えてみれば、確かに彼らが怒るのも無理はない。手には何もなく腰に二尺の棒を差しているだけなのだ。どう見ても今から戦おうという人の姿ではない。
実際鍋倉は、戦と聞いて得物のことは色々考えさせられた。弓、槍、太刀、手裏剣。昔は得手としていたものだ。ま、竹やりは考えもしなかったが、しかし今となっては不要な物なのだ。慌てふためいたわりに結局、二尺の棒に落ち着いていた。
それを、彼らにどう説明していいものか。棒のことを言えば、生駒山から今日までの話をしなくてはいけない。ま、話すつもりはなかったが、もし話すとなれば日が昇ってしまう。そんなことより霊王子のいる東山大谷に一刻でも早く向かいたかった。ここは隣人らに口応えはしない方が得策。急ぐ彼らにとってもそれは同じことだろう。案の定、助け船が出された。
隣人の一人が言った。
「まぁ、よいではないか。おれらは盾になるために行くんだ。戦ったって元々わしらは足手まといだからな」
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