第32話 天命
小鳥のさえずりに重いまぶたをこじ上げる。蔀から入る陽光は長く斜し、暗く殺風景な床を照らす。葉や草の露が蒸発し、そよ風に漂う朝独特の森の香り。鍋倉は床を茫然と眺めていた。光で四角く切り取られたそこだけは、木目がまるで川面のように浮かび上がっている。
「あっ」と飛び起きて、鍋倉はあわてふためく。白湯をすすっている蓮阿がこともなげに言った。
「霊王子か? 暗いうちから出てったぞ。あやつ、どうやら一睡も出来なかったようじゃな」
霊王子はもう平安京に旅立ったのだ。声を掛けてくれればいいものを、と鍋倉は思ったりもしたが、別れの言葉をわざわざ言って行くのも霊王子らしくないと考え直す。改めて、鍋倉は草庵の中を見渡した。居ないと分かっていてもやはり何か物足りなく、気が付くと霊王子のあらぬ影を見ていた。
「なさけないやつだ」と蓮阿に怒られ、次いで朝飯のしたくを命じられる。気が進まなかったが止むを得ず、言いつけ通り食事の用意をした。かくして蓮阿と顔を合わせて食事をする。
「澄よ、わしとの飯は不服か?」
「そうではありません」と言うのがやっとで気抜けをどうにもできない。ぼうっとしていると先に食事を済ませた蓮阿が「澄、表に出るぞ」とさっさと外に出ていく。
はてと鍋倉は箸を置き、とぼとぼと重い足取りで蓮阿を追う。
「澄よ、ちゃちゃっと来れぬのか?」
外で、蓮阿がしかめっ面で待っていた。その顔が言う。
「今から、『粋調合気』を授ける」
「へっ」と鍋倉は耳を疑った。その名の感じから武術に関する何かであるようだった。
「老師は歌人ですよね」
かかかっと蓮阿が笑う。そして、「あれがよいな」と大木に近付いて行く。何をするのだろうと鍋倉は茫然と眺める。するとどういうわけか、蓮阿が掌手で大木の幹を突いた。しかも功法がまるっきりなっていない無造作な動き。なんだ、武術の真似事かと鍋倉は少し笑ってしまった。が、結果は思い描いたのと大きく違っていた。大木がすさまじい唸りをあげて揺れ、木の葉を半分残し、他は全て地に落ちてしまった。
唖然とした。
「澄よ、硬功を使わずともこれくらいは出来る」
鍋倉は、オオカミから助けられた記憶を夢と混同していた。それが現実として蘇ってくる。固唾を呑む一方で、心持の方はがらりと神妙に変わる。
「まさか、あのオオカミからおれを救ってくれたのは」
「生駒に歌の友人が庵を構えておってな、そこを訪ねようと近道を進んでいた折、偶然お前に出くわしたんじゃ。で、山を下って誰かに預けようとしたがお前の有様を見たら、ま、色々気にかかっての、牛を一頭借りて吉野まで乗せてきた。じゃが、霊王子は余計じゃった。あやつは足をけがして自由に動けん状態で敵に会いたくなかったんじゃな。それで吉野に押しかけて来た」
これだけ長く世話になっていて初めて知った。恥ずかしいやら情けないやらで鍋倉は感謝の気持ちを言葉でどう表せばいいか分からない。言葉にできないのならと鍋倉は、自分の出来ることを考える。老師の手足となり、生活に不自由させたらだめだ。命ある限り老師のお世話をしよう。
そんな気持ちを察したのか、蓮阿が言った。
「よいよい。重たく考えるな」
そして続けた。
「それよりも、弟子になるのかならないのか」
老齢の身で大木を揺らしたり、オオカミの群れを追い払ったりしたのが、『粋調合気』なる武術のなせる業であることは容易に理解できた。これほどまでに強力な武術を老師が隠し持っていたことは驚きであり、それを授けてくれるのは心より感謝しなくてはならない。だが、己の先が見えているだけに鍋倉は快諾出来なかった。
思うに、『粋調合気』なる武術は秘法なのだろう。功法がまるでなってないように見えて実際は大木を大きく揺らした。これほど奇抜な術が噂にならないわけがない。おそらくは老師のみがその伝承者であり、その秘伝を受けるとなれば鍋倉とて誰かに伝える義務がある。そうでなければ、『粋調合気』は失われる憂き目にあうのだ。
あとで後悔はしないだろうか、と鍋倉は不安を覚えた。老師に失望させることなんて出来やしない。その点、和歌か笙の弟子ならば当たり障りはないだろう。その上、身の廻りの世話を出来るし、昨夜決心したことにも適っている。
鍋倉はわざととぼけて言った。
「弟子? 歌のですか? それとも笙ですか? お願いします。一生懸命に精進致します」
「お前、聞いておったのか? 授けるのは『粋調合気』だと言ったじゃろ」
やはり、そんな小手先のことで老師は誤魔化しきれない。それでも鍋倉は、引き下がれなかった。どうやって弟子にならずに老師と一緒にいられるか。間違ってもお世話をしたいとは言えない。そう言えばおそらく老師はいらぬお世話だと突っぱねるだろう。言い方が問題だ。決して騙すわけではない。昨日、霊王子の今様を見て思ったことは嘘偽りではない。
「助けてくれたのも、一緒に暮らせたのも感謝してもしきれません。でも、おれはむやみやたらに人を殺さず、美しいものをいとおしもうと決めたのです。幼き頃から死は武芸において悟りを得るよい機縁だと思って修行してきました。だから死を恐れる者を軽蔑していました。でもおれは昨日、それは身勝手なことで間違いだったと分かりました」
「お前はばかだの、死に際して悟ったではないか、それを」
あっと思った。
「澄よ、それでわしもばかであった、お前に『粋調合気』を授けることを迷っていたんじゃ。今の言葉。それこそがわしの求めていた言葉じゃった。ほれ、お前、碗を持つのがやっとであろう。わしの胸ぐらを掴んでみよ」
鍋倉は言われる通りそうやった。途端、宙で一回転させられ大の字に地に打ち付けられた。
度肝を抜かれた。
かかかっと蓮阿が高笑いしていた。
「相手が強ければ、もっとすっ飛んで行っただろうが、お前ほどではこの程度。ゆえにお前が悟ったことにこの『粋調合気』は適っている。それ以上にお前に縁を感じるぞ。もしや西行様のお導きではと考える程じゃ。なんとも痛快。なんともめでたい」
仰向けの鍋倉に、蓮阿がしゃがんでその顔を覗き込む。
「澄よ、お前がどう言い逃れしようと『粋調合気』を学んでもらう。そして後世に繋げて行くのじゃ。それはお前の役目、天命であるぞ」
「天命?」と鍋倉は言った。昨日、もし天命があって生きていられるのならばと思った。それが脳裏をよぎる。
「そうじゃ、縁が全てを物語っている。わしは見所のある若者と何人も出会った。じゃがどうも気が進まなかった。なぜか? いまそれが分かった。縁じゃ。みな、縁がなかったのじゃ。お前には縁があった。先ず、第一の縁は不慮の災難で気が使えなくなったこと。第二の縁はすでに『粋調合気』の初歩を終えていること。ほれ、わしが教えた気息法でお前の丹田は荒れてしもうただろ。それじゃ。お前の重心は随分下にあったのが、解き放たれて自由自在。そして第三の縁じゃ。いままさにお前の口から、いや、心の底から思っている、『粋調合気』の要諦を語ったことだ。確かに相手の生殺与奪を決めるのは身勝手じゃ。なら、相手に生殺を選ばせたらよい。相手をのすのは己にあらず。どの武芸も自らが技の強弱を決める、大なり小なりな。じゃが、『粋調合気』は相手の力、ひいてはもっと大きな何かに委ねると言って差し支えないだろう」
「立て」と命じられた。言われたと通り鍋倉は立つと「よく見ておけ」と蓮阿が無造作に飛んでその場に着地した。
「澄よ、重心を移動させるだけでこれほどの力が働く」
蓮阿が自身の足を差した。鍋倉はその足が深々と土にめり込んでいるのを見とがめ、息を呑んだ。
「逆もしかり。ちょこっと相手の重心を移動させてしまうだけで相手は手痛い損害を被る。ほれ、重心を下にしろとか、一定に保てとか言ううじゃろ? それは重心を制御しろと言っているのと同じじゃ。武術において重心の制御がいかに大切かということでもある」
確かに、と鍋倉は思った。蓮阿はさらに言った。
「では問う。制御とは? 何から己の重心を意のままにしなければいけないのか」
そんなことは考えもしなかった。まったく見当がつかない。
蓮阿が言った。
「水は高い所から低い所に流れる。物を落とせば地に落ちる。それは大いなる力じゃ。いかに武芸の達人だろうがその力にはあがなえない。己が使う、あるいは操る力はこれのみ。内功なぞそれにくらぶれば小さきものじゃ」
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