第31話 別れの唄
「平安京に帰らねば」
そんな霊王子の気持ちを、いつとはなしに鍋倉は気付いてしまった。振り返れば、今出川邸のとは遠くかけ離れた小さな小さな簀子にぽつんと一人、霊王子の姿をよく見かけていた。
初めはいい気だもんなと軽く考えていたが、何かの拍子に通りかかった折、蔀越しにため息が聞こえてきたのだ。いくら鈍感な鍋倉でも何か悩んでいるな、ぐらいは分かるというものだ。
何を悩んでいるか、が気になった。ここでの暮らしが不服なのかとあれこれ考えを巡らす。だが、どこをとってもそうとは思えない。武力一辺倒だと思った霊王子の食事はことのほか旨く、しかも縫い物もやる。これまで実践する機会がなかっただけで一応一通りは教えられたと霊王子は言っていた。
清盛公の手によって、武芸の型を取り入れた今様が作り出されたとも、床に臥せった中で鍋倉は聞いていた。愛妾の霊王がその今様を学び、その養女たる霊王子がそれを引き継いだというわけだ。
しかし、霊王子の言いぶりでは教わったのはそれだけでないらしい。蓮阿によると養母の霊王は清盛公が出来あいでは満足できず自分好みに仕上がるよう手塩に掛けて育てた白拍子である。幼き頃より芸も教養も一級のものしか与えられていない。その教養が、庶民の暮らし向きにまで及んでいるとは。
とはいえ、普段やらなければその腕は落ちてくるものだが、総じて霊王子は才女なのだろう。こういう人も世の中にはいるんだと感心するものの、本人は別段、鼻にかけるでもない。彼女にとってそれはごく自然なことなのだろう。家事をする姿はまるで子供が遊んでいるように楽しげである。蓮阿なぞは、ちゃっかりそれに甘えていて、「これもやってくれんかのぉ」と綻んだ服を次から次に持ってくる。
そう。服といえば、霊王子は目立つというか、不自然な水干姿を止め、小袖に褶のどこにでもいる女の姿に変えていた。不服どころか自分から着たいと言い出し、初めて着たときも飛んだり弾んだり、くるっと回ったりしていた。その様子から、いたく気に入っていたように思える。
何を悩んでいるのか? 全然見当がつかない鍋倉は、何が原因でそんなに顔を曇らせるのかと霊王子に直接訊いてみたかった。だが、訊いたとしても霊王子はそれを自分から口にはしないだろう。弱みを見せないのだ。
幼き頃からそう叩き込まれたに違いない。庶民の女のように家事をして、服装を変えたとしてもそこは変わらなかった。鍋倉への命令口調は依然としてそのまんまだった。だが一方で、鍋倉の体調をいたく気にかけてもいた。そのうえで、鍋倉から心配されていたとしたら霊王子のことだ。殊の外、傷つくのではあるまいか。そう考えると鍋倉は、その顔を曇らせる理由を霊王子に聞くことが出来なかった。
だが、鍋倉は見てしまったのだ。時折、蓮阿の庵を訪れる人がいる。みな歌人たちであったが、その者たちに霊王子はこっそりと平安京の様子を聞いていた。
初めは何を話しているのか気にも留めていなかった。しかし、いつしか鍋倉は気付いたのだ。客が去った後、霊王子は必ず小さな簀子にぽつんといることを。
確かに、考えてみれば当然だと言える。今まで気が付かなかったのは己が浮かれ、周りがよく見えてなかったに他ならない。そして思う。うぬぼれとそしられてしまうかもしれないが、もし、霊王子が自分のためにここにいるのであれば、それは許されることではない。
霊王子と自分とでは置かれている立場がまったく違うのだ。霊王子には平安京で待ち望む多くの者がいるはずだ。彼らは霊王子がいるというだけでどれだけ救われてきたか。霊王子もそれに懸命に答えようとしている。それが本来の姿なのだ。それに自分はいつ逝ってもおかしくはない。そんなやつに付き合わす理由がどこにある。
といっても、鍋倉から言い出すことは出来ない。庶民の暮らしをしようとも、霊王子は鍋倉に情けを掛けてもらうほど落ちぶれていないのだ。
それで鍋倉は、蓮阿に相談した。いわずもがな蓮阿も、霊王子のそれに気付いているようである。
「人にはそれぞれ宿命というものがある。霊王子はやらなければならないことはここにはないのかもしれんな」
その日の夕食、蓮阿が霊王子に平安京に帰るよう勧めた。迷いなぞない、と霊王子はそんなそぶりであった。「お世話になりました」と神妙に頭を下げる。それからの夕食は終始沈んだままであった。たまりかねた蓮阿が、「陰気がこもるではないか」と笙を取り出す。
「どうれ、別れに一曲」
簀子に腰をおろし、笙を奏でた。その音色に誘われて、霊王子と鍋倉は席を立ち蓮阿のそばに座った。
深淵でいて澄み切った音色。神秘的な中に滑稽さをのぞかせる調べ。それに鍋倉は惹き込まれ、やがて幻を見るまでになった。自分がまるで物語の中に入り込んだかのようである。
鍋倉の目の前に現れた世界は、大国主命の神話であった。因幡の白兎。八十神の迫害。根の国訪問。大国主の妻問い。そして大国主の国造り。かくして蓮阿の笙は大団円を迎えた。鍋倉は至福へといざなわれ、残った余韻を味わった。
ふと、蛍が集まり出したのに気付く。蓮阿の笙に呼び寄せられたのだろうか。近くの沢から幾十、幾百、幾千と数が数を呼び、やがてそれはまるで牡丹雪が舞落ちるようであった。
おもむろに鍋倉は、手の平を宙に差し出した。
ひらひらと蛍光がその手の平に舞い降りる。そしてそこに探し物があるかのように甲虫は、火を灯して歩き回る。
鍋倉は微笑み、霊王子を見た。
ほのかな光に照らされた笑顔の霊王子。それがうなずくとその手の平を宙に差し出す。
そこにも蛍光がひらひらと舞い降りる。それが五つ、まるで雪の斜面で遊ぶ子供のように反った指の上を行き来する。
霊王子の満面な笑みが鍋倉に向けられる。それに鍋倉も笑顔を返す。
しばらく続いた蛍の乱れ舞いも誰からともなく明滅を合わせだし、ついにはその全てが同調し、やがて辺り一面一糸乱れず、光っては消え、光っては消えした。
無機質な青白い月光の世界と命が灯した淡い光の世界。夜のしじまに二つの世界が交互にやって来る。
霊王子が、
「こんなに美しいものがこの世にあろうとは」
と立ち上がり、
「この蛍たちより格段と見劣りしますが老師に返礼を致しとうございます」
と数千の蛍火の中に、つつっと入っていく。
驚いたのだろう。蛍らの光は散り散りとなり、ほどなく森の葉々に幾千もの光が灯された。
その光を背に霊王子が立つ。小袖に褶の庶民の姿であったが、その風情からかけ離れて凛とした空気が漂っていた。その霊王子が袂から扇子を取り出すと構えを取る。蓮阿も笙の準備が出来ていた。二人は互いに呼吸を合わせるため、間を造った。それはほんの一時だったが、二人から漂う空気に鍋倉の身が引き締まる。思わず背筋を伸ばした次の瞬間、奏でる音と歌う声が夜のしじまに解き放たれる。
清盛公が手塩に掛けて育てた霊王。その霊王から薫陶を受けた霊王子の今様が見事でないわけがない。蛍もそれを認めたのだろうか、木々に散って羽を休めているところを次々に、また宙に戻り出す。
不思議な空間であった。霊王子がいつくしみの心を歌い上げ、その舞から温か味を醸し出す。そこに蛍がその火で、命のはかなさを訴える。今にでも崩れてしまいそうなこの二つの危うい均衡を、笙が奏でる神妙な音響が強固に保つ。例えるなら慈愛といっていいのだろうか。霊王子と蓮阿、そして幾千もの蛍火がそれに満たされた空間を作り上げていった。
享受する鍋倉は、たった一人の観客。
感謝の気持ちでいっぱいになった。霊王子の舞いが蓮阿への返礼と言いつつも、自分に向けた今生の別れであったのは容易に想像し得たし、蓮阿もそれを察して調べを合わせたに他ならない。
分不相応だと鍋倉は思った。日の本の端に生まれ、しかも半端な人生を費やしてしまったのにもかかわらず、この国の中心にいる一級の文化人に喜捨を得たのだ。涙があふれ出し止まらなくなった。
鍋倉の武芸は、身を捨ててこそ浮かむ瀬もあれを信条としていた。幼き頃から父からそう薫陶を受け、死は武芸において悟りを得る良い機縁だと頭はもとより体に叩き込まれていたはずであった。今出川一門にしたって悪かったと思いつつも、戦いに死ねたのだから本望だろうという想いが心の隅に無かった、と言ったら嘘になる。
しかし、鍋倉はこんなに別れがつらいものとは思いもよらなかった。死を恐れるということはそれだけその人生で何かいいことがあったということか、ならば恐れる者ほど尊敬に値する。鍋倉は楽しみたがり屋の自分に置き換えてそう考えてみたりした。そしてもし、天命があり生きていられるのなら、むやみやたらに人を殺さず、美しいものをいとおしもうと心に誓った。
読んで頂きありがとうございました。次話投稿は木曜とさせていただきます。今後ともよろしくお願いします。




