第30話 手笛
「鍋倉、動かずともよい。ほれ、霊王子。お前じゃ」
蓮阿が薬湯の椀を霊王子に差し出す。
へっ? て顔の霊王子。なんでわたしがと言いたいのだろうが、蓮阿は言わせない。いま一度、蓮阿が、「ほれっ」と椀を差し出す。
霊王子は、今の今まで信者の手前、誰か一人に何かを施すなんてことが出来なかった。周りがそうさせなかったのもある。おそらく教団は霊王子を誰のものでもない、教団のものとしたかったのだろう。
つまり霊王子は何のことはない、初めてのことに戸惑っていたのだ。何か恐ろしいものでも触れるように震える手を伸ばし、薬湯の入った椀を掴む。そしてちらっと鍋倉の顔を覗き見る。不安だったんだろうが、鍋倉はというとそんな霊王子の心情を理解できていない。あまりに不自然な霊王子の動きに、椀を掴むくらいで何でこんなにも時間がかかるんだ? と不審に思っていた。普段との落差があまりにもあり過ぎる。
鍋倉の想像では、霊王子の手は素早く椀を掴み、素早く差し出される、である。ましてや鍋倉の認識ではもう自分は霊王子の手下なのだ。蓮阿に盾突くことは出来ないまでも、椀ぐらい自分で取れと命じてもいいものだ。
あ、そうか。霊薬だから溢さぬように慎重になっているんだな。おれがこの体だから手に取った途端、椀をひっくり返すとも考えられる。溢しでもしたら、目も当てられない。
そう思っている鍋倉の顔は素っ頓狂である。椀に集中するあまり、口はだらしなくぽかんと開いている。その様子に、霊王子は愕然とした。
もう既に自分でも自覚出来ている。鍋倉に何かしてやりたい気持ちが強いことを。それがこの、鍋倉の態度だ。霊王子は他人にこの手の感情を持ったことはないし、持ったことがない以上、伝えたためしがない。自分への歯がゆさと馬鹿面の鍋倉に、自分が何をやっているのかもう訳が分からなくなった。それで吹っ切れたのだろう、ハイっとぞんざいに椀を鍋倉に差し出した。
ようやく口元に届いた薬湯を鍋倉は取り敢えず大事に受け取った。溢してはいけないと思う一方で、しかしなぜ、霊王子は急に普段に戻ったのか、とも思った。先ほどまでは、あれほど慎重に扱っていたのに。
見ると霊王子の頬が赤らんでいる。どうしたっていうんだ。ますます意味が分からない。熱があるのか? 看病疲れ。いや、心労に違いない。……おれのせいだ。
「すまない」
「ふん」と霊王子が立つ。そしてふいっとどこかに行ってしまった。
それから三人の生活が続いた。霊王子が鍋倉の看病と食事を作る。蓮阿は柴を刈り、あるいは里村で食材を手に入れ、その合間を縫って鍋倉に金神を起こさないすべを伝授する。
「金神は金星の気。この地上の気とは異にする。だから人の気と相まみえることはない。ゆえに先ず、お前の知る武芸の定法を全て忘れよ。次に丹田を荒地に戻す。当然ながら経絡を断ってはいけない。が、気を練って内丹を作り出すことはもっての外、丹田は無用。また気の制御を失うのももっての外。といっても荒立たせることはしない。体内の気を凪とし、決して波立たせない」
そして気息法もやって見せ、鍋倉がそれに続く。それが十日も過ぎればその体力も蘇り、本来の活発な気性を取り戻す。生来、明るく楽しみたがり屋な鍋倉は些細なことも面白い話に変えるすべを知っていたし、蓮阿の合いの手もまたうまい。
この日は梅雨の季節とあって、朝からうっとうしい雨が降り続いていた。部屋に籠っていても陰鬱になるばかりで鍋倉と霊王子は生き抜きがてら二人並んで簀子に座って雨だれを眺めていた。
外の空気を吸ったなら少しは気分も晴れるだろうと思っていたが、雨だれを見ていても単調で何の変化もなく、面白くもなんともない。ただ、霊王子は楽しんでいるように見受けられる。森の草庵の静かな雰囲気が余程気に入っているんであろう。雨のあたる森を終始、ニコニコして眺めていた。しかし、鍋倉にとっては余りにも当たり前過ぎる光景であった。佐渡ではまさにこのようなところに住んでいた。つまらな過ぎて、じっとしていられない。何か面白いことがないかと落ち着きを失っていた。あっちを見たりこっちを見たり、簀子の板のささくれをめくってみたり。頭の中では、老師のずっこけた話は昨日したっけとか、あの話はどうだったっけとか。
ああでもないこうてもないと考えていたら、面白そうなことが頭に浮かんだ。
「霊王子、これ、出来るかい」
鍋倉は口の前でおにぎりを握るように手を組んだ。
「手笛っていうんだ」
そう言って手と手の間に息を吹きかける。ほーほーと音が鳴る。
「へー、おもしろいの。どうやってやるんだ」
嬉々とした鍋倉は霊王子にやり方を教えた。霊王子がその通りやってみるとすぐ音が出る。ちょっとつまらないが、これは最初のとっかかり。
「たいしたもんだな。じゃぁこれはどうだ?」
鍋倉は両手の指を左右交差させて握るとそこに息を吹きかける。今度のは、先ほどの単純な音の繰り返しとは違い、音域も広がった。鍋倉は曲を軽く一節奏でる。
「これは難しいぞ。出来るかな」
そう言われれば霊王子としては、後には引けない。見よう見まねで組んだ手に息を吹きかける。だが、音が鳴らない。当然だと鍋倉は思った。自分は出来るまでに大分と時間がかかった。幾ら霊王子でも流石に無理だったなとほっとした鍋倉は霊王子の手を取って、ああでもないこうでもないと組ませ、手解きをする。丁度そこへ、蓑をかぶった蓮阿が通りかかり、二人が手を握ったり握られたりしているのを見て不審に思う。
「なにやっとんのじゃ?」
鍋倉が言った。
「あ、老師」
「あ、老師じゃない。何をやっておると聞いておるんじゃ」
鍋倉は、後で老師に披露させるつもりでいた。その時、老師はどんな顔をするか。ぎょっとするに違いない。それが楽しみで鍋倉は霊王子にこれらの芸を教えていたのだが、バレたからには仕方がない。この場でびっくりさせてやろうと頭を切り替えた。
「手笛ですよ」
「ああ、手笛か」
蓮阿がほっと安心したそこに、霊王子の手笛の音である。正直、鍋倉は驚いた。が、蓮阿を驚かせるのはこれではない。蓮阿にしてみても、感心はしていても手笛でぎょっとはならない。とはいえ、ここは霊王子を褒めるべきだ。
「老師、凄いだろ。さっき教えたばかりなんだ」
「ほほー、そりゃたいしたもんじゃ」
案の定、鍋倉が出来ることは出来て当然だというような霊王子の顔である。まるで子供のようだ。可愛い人だなと鍋倉は思う一方で、しめしめとも思った。
「じゃぁ、これは?」
鍋倉は左右二本ずつ指を口に突っ込む。甲高い音が鳴った。霊王子も見よう見まねで指を口に突っ込む。霊王子の綺麗な顔が台無しだった。口が蛙のように広がっている。
「あほか! なにやらせとんじゃ!」
ぎょっとした蓮阿が鍋倉の頭をひっぱ叩いた。思った通り。鍋倉は手を叩いて笑った。たしかに指笛は女人には、特に霊王子には似つかわしくないし、教団の女神という体裁を崩しかねない。霊王子もそのことに気付いたようだ。指を二本、目の前に差し出して顔を赤らめた。
鍋倉は叩かれた頭を搔いて、
「へへへっ、ですよねぇー」と、言ってまた笑った。
予定では食事の後にでも老師の前で、手笛から順に指笛を披露させるつもりであった。でも結果的には上手くいった。蓮阿はというと鍋倉の態度から察してか、さてはこやつ、わしをからかいよったなと思い、してやられたわとかかかっと笑った。
霊王子もそれが分かったようだ。しょうがないやつだと思う一方で、してやられたのに何やら笑いが込み上げて来る。霊王子もうつむいた下で声を押えて笑った。
こんな調子だから三人顔を合わせると笑いが絶えない。食事中だけでなく、何かの拍子で集った時さえもだ。
しかし、そうであればあるほど霊王子は一人になると深く沈んでしまうのである。平安京では絶え間ない抗争に吉水教団が巻き込まれている。この草庵に住んでもう二か月は経とうか。おもむろに自分の足を見る。足首の腫れは疾うの昔にひいていた。
「平安京に帰らねば」
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