第3話 牢名主
目を覚ましたのは牢屋に入れられてからである。身ぐるみ剥がされ、格子越しに水を浴びせられたのだ。朦朧とした意識の中、鍋倉は痛みの残る顎をさする。するとどういう訳か多くの笑い声が聞こえた。はて、なんだろうと虚ろな視線を巡らすと大きく開かれた口がそこかしこにあった。
「お前、霊王子にぶん殴られたんだってな。どうだった? 噂通りべっぴんだったか?」
不意に飛んできたその声に鍋倉は、あ、あの女! と顎の痛みの原因を思い出す。
「しっているのか! あの女を!」
誰かの肘が肩に乗せられた。そしてその誰かに顔を覗き込まれた。
「よく見りゃ、おまえ、男前だな。もしかして気に入られたのかもな」
笑い声が増す。鍋倉は憮然とした。
「おれの質問に答えろよ」
「答えろ? なまいきな小僧め。霊王子と言ったら泣く子も黙る平家の残党で吉水教団の女神様だ」
「平家の残党! それでおれは?」
「連中の捕物の邪魔をしただろ。それで牢屋に入ってる」
あたりを見回した。
「なるほど、牢屋だ。それで吉水教団って何だ」
収まりかけた笑いが、また戻ってくる。
「うるせぇ! もういい!」
牢屋の奥で誰かが怒鳴った。ぴたっと笑いが途絶え、傍に居た囚人の一人が「牢名主様」とおびえて鍋倉から離れていく。囚人の中からぼそぼそと「牢名主様は吉水教団がお嫌いだ」とか、「誰だ、吉水教団の話をしたのは」とか、「腐っても聖道門だ」とか、声が聞こえる。その騒然とした中、囚人の一人が強い口調で言い放つ。
「小僧、挨拶が先だ!」
囚人ら全てが素早く左右の壁に寄る。開かれた正面の壁に、片膝に肘をのせた坊主がでんと構えていた。
「元興福寺の僧兵、俊弁様である!」と左壁の誰かだ。
腕回りが人の太もも程もある。そしてその尊大な態度から因縁を吹っ掛けてくるは火を見るよりも明らかだった。ニヤリと笑った鍋倉。ポキポキっと拳を鳴らす。
「おいっ、お前、悪い奴なんだろ」
女に殴られ失神してしまったことに鍋倉は、まだ納得できていない。おれが弱くなっちまったかどうか、ちょうどいい腕試しだ。
「こわっぱが、口のきき方を教えてやる」
のしのし向かってくる俊弁。腰を落として迎えたそこに、大きく振りかぶった俊弁の拳。よけもせず鍋倉はガツンと頬に受けた。が、グラついただけで持ちこたえる。
「次っ。おれの番」
ぐっと踏み込み俊弁の腹に拳を打ち込む。それをくらった俊弁はあっけなく、うめき、ひざまずき、そして倒れた。鍋倉は腕試しのつもりだったが、霊王子にのされた後だから自分の力を過小評価してしまっていた。それでついつい力が入ってしまったのだろう。そこまでするつもりは毛頭なかったのだが、それを食らった俊弁はというと、つつかれた青虫のようである。腹を抱かえ、悶絶の声をあげ、床にのた打ち回っている。驚いたのは囚人たちだ。体格差からして、どう見ても俊弁の勝ちだ。しかもそれに歯向かう相手は女にぶん殴られた上、卒倒した優男である。十中八九、半殺しの目にあわされるだろうと思っていた。それがだ、俊弁の拳を受けた上、一撃で悶絶させた。信じられないことが目の前で起こったわけだが、その予想に反する事実を拒絶するどころか皆は大いに受け入れた。傍若無人の支配者はもういない。牢内は歓声でいっぱいになった。
大丈夫、おれは弱くない、なら、あの女、なんなんだ。
囚人の一人が悶える俊弁を見下ろしていた。
「こいつ、興福寺でも手がつけられないってんでおっぽり出された剛の者だ。そいつをいとも簡単にやっつけるたぁー、あんた。一体何者なんだ、名前を教えてくれ」
「鍋倉澄だが、それより吉水教団って何だ、誰か教えてくれ」
別の囚人が素早く駆け寄る。
「念仏門さ。阿弥陀如来の名を唱えれば誰でも浄土に行けるって悪事の限りを尽くすわ自分の命を粗末にするわで狂ったやつらなんですよ」
「どこにいる」
平家の残党と聞き、ことによっては因縁浅からぬ間柄ではないかと鍋倉は考えていた。もし思った通りなら、『撰択平相国全十巻』を燃やした訳を話さなくてはならない。こっちから出向くか、あるいは、向こうから会いに来るか。
「霊王子ですか。やめといた方がいい。あんたほどの者でものされるんじゃ、しかもそれが女ときちゃぁ、やっぱ、ただ者でないってことだ」
「霊王子を知らないってことは、平安京に来たばかりでしょ。だったら法性寺の一件を鍋倉殿は御存じないはず。吉水教団のやつら、工藤祐長の兜に黄金の千手観音像をぶっ刺したって話らしいですぜ」
そう言った囚人を、別の囚人が押し退ける。
「いや、それは鬼の仕業って話らしい。現人神が魔王になって鬼に命じたに相違ない。黄金を鉄製の兜に刺すってのは人の技ではかなわないからな」
現人神とはこの世に人の姿をして現れた神であり、天皇をそう言った。そして魔王になったと言われたのは、幕府に敗れた後鳥羽上皇なのだ。
さらに別の囚人が、「お前ら、ばかか」と口を挟む。
「教えてやろう、法性寺の真相を。聖道門の念仏門潰し、幕府の敗残兵狩り、どちらもうまくいってなかったんでやつら、法性寺の千手観音を餌にしたのよ。要は誰でもよかったんだ。悪いことするのをひっ捕まえて拷問して、念仏門、平家、上皇の武者って言わせてしまえば手柄は二倍。聖道門のへっぴり僧も幕府の小役人もほくほくよ」
「今出川鬼善も、一儲けしたというではないか」
「ああ、捕まえた盗賊を比叡山と工藤祐長に売り渡したって話だな」
「そうだ、こっちも二倍。盗賊がその実、比叡山の元僧兵って分かれば比叡山に高く売ったらしいぜ」
鍋倉は何の話だか未だに分からない。
「あんたら、法性寺の一件ってなんのことだ」
色黒の逞しい囚人が言った。
「すまん、俊弁の野郎がいまの今までふんぞり返ってたんでこんな面白い話、口にすることも出来ん。で、わしらついつい先走ってしまった」
この男、まるで他の囚人より一段上だっていう態度だ。皆になり代わりあやまってみせる。一方で、別の囚人が後ろで悶える俊弁を親指で指す。
「ほら、こいつ興福寺だから、聖道門だろ」
色黒の逞しい囚人が話を続ける。
「法性寺っていうのは、ここから南にちょいと行ったところにある大寺院なんだが、そこの本尊が黄金の千手観音ってことは知られてなかった。それを聖道門比叡山の僧兵慶海と幕臣の工藤祐長が言い触らした。そりゃ、盗賊たちの格好の餌になるね。網を張って待ちうけたところに盗賊が向こうから勝手に飛び込んでくる。手間いらず。簡単なもんだ。しかもそこに今出川鬼善が割って入ってきて、三つ巴で盗賊を捕まえては自陣に引っ張って行く。で、さっき言ったことになる」
「拷問で自白を強要され、みな、念仏門に、平家、後鳥羽上皇の残党さ」
「工藤祐長っていうのは、わしら、ま、あんたもそうだけど、この牢にぶち込んだやつさ」
色黒の逞しい囚人がのたうち回ってる俊弁の上に座った。
「工藤祐長は武道がからっきし。ごますり専門。祐長の親父ってのもそうだったらしい。だがそういう点で言えば祐長の方がましかな。親父ってのは敵を前にして怖気て逃げたことがあるらしいぜ。つまり弱いのは血だな。それだからこそ祐長は武勇の栄誉がいる。だが、本物の平家や上皇の武者を捕まえられる訳がない。で、弱い奴を捕まえてはそうしたてる」
ここできめるとばかり、色黒の男が言う。
「考えは悪くなかったさ。だがやつが現れた。黒覆面の男さ。法性寺からまんまと黄金の千手観音像を盗み取り、その足で工藤党の陣にやって来てその千手観音で祐長の頭を引っ叩いたのよ。その威力たるや、兜はぶっ飛び、しかもその兜に千手観音の手を一本、ぶっさしたっていうじゃあないか」
囚人の一人が言った。
「黒覆面の男は煙のように消え、黄金も行方知れず」
さらに別の囚人が言う。
「比叡山の慶海も工藤祐長も面目丸潰れよ。なんたって法性寺は京洛二十一ヶ寺の一寺だ。その本尊を失ったんだ」
読んで頂きありがとうございました。次話投稿は木曜とさせていただきます。今後ともよろしくお願いします。