第28話 矛先
「つまり、鬼一法眼は清盛公を死に至らしめんとして金神を分霊したと老師は言うのだな」
「そうかもしれないし、そうではないかもしれん。わしはな、お前に仇討ちをしろと言っているのではない、その逆じゃ。お前はこやつを助けなくてはならんから西行様のように骨を折る。するといま話したことにたどり着く。その時、お前はどうする? 霊王になりかわって復讐するのか?」
「われらの不幸は清盛公の死によって始まった。その始まりを鬼一法眼が造ったとしたならば平家をその手で潰した源義経もまた鬼一法眼の弟子。それに文覚。やつは伊豆で、義経の兄でもある源頼朝に平家潰しをけしかけた。これは偶然ではない! 老師! これは陰謀だったんだ。やつらが結託して平家を潰したんだ!」
「だからだ。霊王子よ、前もってわしが話したのは。いいか、肝に銘じてくれ。わしはお前らを思って西行様との、公言はしないという誓いを破ったのだ。教団の者はもとより、その他の誰にもしゃべってはならぬ。もちろん公言しないからと言ってお前一人で事を荒げるな。これ以上の流血は許さぬ。わかったな」
約束は出来ない。だが老師の強い眼差しにそれも言えない。その夜、草庵の小さな簀子で霊王子はもの憂げに月を眺めていた。
気持ちの納まりがつかないのだ。老師に西行様からの言いつけを破らしてしまったのはひとえに、己のためだと霊王子は理解できていた。だからこそ、ここは老師を立てなければならないのだが、血を流すのがどれほどのことだというのだ。我らは念仏で浄土に行けると約束されている。誰が死を恐れるというのか。
それに鍋倉。もしかしてやつは本当に燃やしてしまって『択撰平相国全十巻』は灰になっているのかもしれない。が、もしそれが本当だとしたら、目も当てられない。嘘だった方がどれだけいいか。あの体でありとあらゆる者達に狙われ続けるのだ。もし、『択撰平相国全十巻』が存在するのなら教団がその所有者となろう。悪党どもの矛先はこの我に。
霊王子は簀子を立ち、右足を引きづって老師を起こさぬよう鍋倉の横に座った。高熱にうなされている鍋倉の横で、老師は肘枕ですうすうと寝息を立てて横になっている。
「不思議なお人だな、老師は」
看病中とは思えない老人の心地よい寝顔が、手拭を乗せられた鍋倉の顔と並ぶ。霊王子は鍋倉の額から手拭を取る。そして桶に浸し、おもむろに手をその額にあてがう。
「ものすごい高熱だ」
桶の手拭を軽く絞り、鍋倉の額にそっと置く。そしてまじまじと顔を見る。
「いったい、どうしてこの男は清盛公と同じ目にあわされたのか? なぜ、この男は文覚の弟子であるにもかかわらず鬼一法眼に狙われたのか?」
細く、長い指の背で鍋倉の頬を撫でた。
その鍋倉は喘ぎ続ける。しばらく看ていたが、霊王子はまた簀子に戻り、月を眺めた。
早朝、手拭を絞っていた霊王子は鍋倉の瞼が動くのを見とがめた。「老師、老師」と横に寝入っていた老師を揺さぶる。「いつのまにか寝てしもうた」と目をこすりながら老師は鍋倉の顔を覗き込む。
鍋倉は、目を覚ました。すぐに、目の前にいるのが霊王子だと気付いたが、すでに気力も衰え、驚くことも出来ない。やれることは、ただぼんやりと考えるだけだった。
熊野や遠藤、そして今出川と同様に霊王子もあの戦いの渦中にいた。それで最後に笑ったのは霊王子ということか。いや、一番可哀相だったのかもしれない。皆よりずっと以前から『択撰平相国全十巻』を狙っていて、それがあと一歩のところまで来ているんだ。落胆がひとしお身に沁みよう。霊王子にはとんだ迷惑な話だ。
霊王子が言った。
「鍋倉、老師がお前を助けてくれたのだぞ」
蓮阿が続く。
「わしは蓮阿と申す」
鍋倉は礼をするため身を起こそうとしたが、霊王子に「動くな」と制止され、それで寝たままで礼を述べた。蓮阿はというと「まずは一安心」と前置きし、言う。
「鍋倉よ、この娘の願いを聞いてはくれまいか」
状況が状況である。その話以外ない。霊王子の落胆が目に浮かぶ。しかし言わなくてはならない。
「灰になった。ゆえにこの世にはない」
霊王子が言った。「この期に及んでまだ言うのだな」
「ほんとうだ。燃やしてしまったんだ。それも間違ってやったわけではない。自分でそう決めてやったんだ。平家の嫡流は途絶え、その持ち主はこの世にはいない。持ち主があの世の者であれば、この世の者にとっていいことはない。あるべき所に帰す。だからおれは兵庫津で『撰択平相国全十巻』を全て燃やしたんだ」
いま思えば、今出川邸で霊王子に自分の考えを説くなんてことをよくやったなと自分自身に感心する。蓮阿が霊王子を見ていた。そこに憮然としている顔がある。
「やれやれ」と蓮阿。それが言った。「『撰択平相国全十巻』を返してやってくれぬか?」
何度頼まれても灰になったものは元には戻らない。言葉もなく鍋倉は首を小さく横に振る。
もの言いたげな霊王子。だが、何も言わなかった。蓮阿はというとため息一つつき、目線を下げた。そのまましばらくは黙っていたが、また話をきり出した。
「貴殿は生駒山で何者かに攻撃を受けた。相違ないか?」
鍋倉は小さく頷く。
「相手は見知っている者か?」
「く、ろ、覆面」
「平安京を騒がす盗賊が?」と驚く霊王子。
「盗賊?」とちぐはぐな眉の蓮阿。
ということは……、と二人は考えた。黒覆面の男が鬼一法眼ということになる。それでも蓮阿は、盗賊という言葉と鬼一法眼がどうしても結びつかない。それを心に引っ掛けたまま話を先に進めた。
「その黒覆面に無理やり注入されたのは金神の神気だ。助かる道は体内で金神の神気を己の気に、気から精に生成するしかない。されど黒覆面にしかその方法が分からない」
やはりな、と鍋倉は思った。おれにお似合いの死に方だとうなずき、笑顔を造る。
「うむ」と蓮阿がその笑顔に答え、続けた。
「貴殿の死は遠からずやって来る。だからこそこの娘の願いを聞いてほしい」
霊王子が手をついて頭を下げた。
鍋倉は以前、霊王子に殴られたのはなぜか? と考えたことがある。想像するに、おそらくはおれが助けようとしたからだ。霊王子は助けられるのを嫌ったんだ。なるほどこの女は女神と謳われるだけあって自尊心も相当高いんだろうな、とその時は鼻で笑ったものだった。
その女にいま、おれは頭を下げさせている。鍋倉はますます自分のしでかしたことにおののき、ごめんと言いたいが怖くて言えなかった。本来ならその身を以って報いないといけない。だが、それはこの体だから出来ない。胸がえぐられる。どうしようもなくなって鍋倉はその手を伸ばした。そして霊王子の床に付いた手を握る。その身を以って報いると雖もこんなことしかできないのだ。だがこれが精一杯。そう思うと情けなくなって鍋倉は涙が込み上げてきた。一度噴き出した感情は止まることをしらず、次から次へと流れ出る涙は止めどもない。そんな鍋倉に、霊王子はうなずいて見せ、そして言う。
「悪かったな、鍋倉。お前の言うとおり、あれは清盛公のものだ。誰のものでもない」
息をのんだ。
そうではない、そうではないと鍋倉は心で連呼しつつ頭を振る。しかしその頭の振り様があまりにも強すぎた。それで鍋倉は気を失った。
はっとした霊王子。すぐさま蓮阿を見た。
「大丈夫。ねむっただけだ」
その言葉に、霊王子は胸をなでおろした。
鍋倉が落ち着いたのを見計らい霊王子と蓮阿は朝食をとることにした。霊王子は、座っておれと老師に言うと勝手にあるものをみつくろい、それを手早く汁とおひたしにして、炊いた玄米と一緒に膳にした。蓮阿は出された汁を吸い、おひたしに箸をつけると唸った。料理のりょの字も知らないだろうと思ったのにことのほか旨い。考えてみれば、なかなか堂に入る料理ぶりだった。
こりゃ、めっけもんだと箸を走らす蓮阿であったが、当の霊王子は全く箸を動かさない。考え事をしているようだった。ぼーっと宙を見たかと思うとうつむく。その重たい空気の霊王子にたまらず蓮阿は椀を置く。
「何を考えている?」
「なにも」
「嘘をつくでない。顔に書いてあるわ」
「いきなりえらい剣幕だな」
「まさかまだ、鬼一法眼に執着しているんじゃなかろうな」
読んで頂きありがとうございました。次話投稿は日曜とさせていただきます。今後ともよろしくお願いします。




