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掃雲演義  作者: 森本英路
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第26話 餓狼

 葉摺れの音があちらこちらから聞こえた。


 鍋倉は丸まった背で頭だけを上げる。案の定、オオカミの群れである。それが周りをうろうろするだけで襲ってはこない。ああ、なるほどなと思った。さっきのはせっかちの馬鹿野郎だったんだ。おれは自分の体だから分かっているが、やつらから見ても分かるもんだな。もうちょい待てばおれが死ぬの、みんな承知しているんだ。 


 と言っても、そこはやはり獣であった。時より唸り声を上げていた。我慢はしているのだろう。しているのだろうが、余程腹をすかしているに違いない。よくよく考えれば集落に近い獣らは墓地に行けば死体が幾つも転がっている。その点は人里の方のが行儀がいいのだろうが、こいつらはそうはいかない。この分だと死ぬまでは待ってくれそうもない。


「月見様、ごめんよ」


 月見様は佐近次さんを好いている。あの人柄なら当然だ。それで佐近次さんはというと月見様があの美しさだもん、好いていない訳がない。


「佐近次さん、ごめん」


 二人が身分を越えて相想っている。鍋倉はそれを台無しにしたのではないかと空恐ろしくなってきた。


「せめて月見様だけは無事にお連れしたかったのに」


 途中までは上手くいっていた。惜しむらくは、黒覆面の男。遠く及ばないどころかその差がまったく測れない。そんな相手と真っ向戦うのは恥じ入ることではない。ただ、自分を過信していた。初めから決死の覚悟で挑まなければならなかった。


 いや、そうだろうか。鍋倉は自嘲した。この期に及んで自己弁護か。あの時だけいつもと違うはずはないじゃないか。とどのつまり、おれが全然、弱かっただけ。黒覆面の男に会わなければこれからもっと強くなったのかもしれないが、武を志す者にとって今この瞬間が全て。自分だけが特別ではない。ここまで生きて来れたのは、たまたま運が良かっただけのこと。


 そう、おれはここまでの男だったんだ。腕を奪おうとすれば、己の腕も差し出せと父、淵に教わった。戦う相手をあやめるとはそういうこと。理由はどうであれ、多くの人を斬って来た。ただ単に、今回は自分が斬られる番だった。そう思うと鍋倉は諦めがついて心が落ち着いた。


 ところがふと、鍋倉の頭にあることがよぎった。佐近次があの黒覆面の男と戦ったのに疑問が湧いたのだ。なぜおれとそれ程も変わらぬ腕前の者が生き残れたのか、がせなかった。


 確かに佐近次を、思慮深い男だと思う。しかし、黒覆面の強さが尋常ではないのも目の当たりにした。平安京に初めてやって来た時、牢獄で黒覆面の正体が鬼だと聞いた。それはそれで間違ってはいないと思える。その黒覆面の男が佐近次を生かしたということは単に、まったく相手にしなかっただけ、としか考えようがない。であるなら、そんな黒覆面の男がなぜおれには本気を出して来たのか。


 おれが鍋倉だと知りながら狙われるとしたら、理由は一つ。『撰択平相国全十巻』以外あるまい。だとすれば、なぜ所持していたことを知ったのか。なぜその在りかも聞かず死に至らしめんとしたというのか。否。『撰択平相国全十巻』ではない。ならば『太白精典』なる秘伝書か? 


 黒覆面の一挙手一投足を思い浮かべた。それも違う。やはり最初はなっから『太白精典』ではなく、このおれが狙われていた。その証拠に月見には興味が全くないようであった。わざわざ月見から遠く離れ、人の目につきにくい森の中へ入って行った。


 『太白精典』が欲しければ、あの月見様と一緒にいた大木の下でさっさとおれを殺していた。そうしなかったのは、むしろ幸運。それはそれでいい。月見には危害が加わっていないのだ。それに最強と謳われる鬼一法眼の愛弟子たち、金神八龍武が追って来ているはずだ。安心して死ねる。が、やはりそこに引っ掛かる。ひょっとすると黒覆面の男は月見を無視したのでなく月見に気取られたくなかった。それで敢えて、月見から遠く離れて森で戦った。もし黒覆面の男が月見に気取られたくなかったとしたならば……。それにあの強さ。


 鬼一法眼!


 それならば辻褄が合う。だがなぜ、やつはおれを葬ろうとしたんだ? そうか。そういうことか。おれのことを、さては月見をさらった賊だと勘違いしたな。そうに違いない。それなら月見は今頃、平安京に戻っているということか。なんだ、今度こそ安心して死ねる。


 月見には悪いが、最後の夜が女人、それも絶世の美女と過ごせることが出来た。らしくないのは笑えたが、最後としては上出来だと鍋倉は満足する。


 いや、上出来なのだろうか。


 鍋倉はつぶっている目を剥く。今回のことの原因の一旦はおれにある。今出川鬼善は相当な被害を被った。それだけでない。一門の者なぞはほとんどが命を落としただろう。佐近次はどうなった? 月見も怖い思いをしただけでなく山奥で一夜を明かさなければならなかった。もっと言えば熊野の者たちもそうだ。


 ところが正直、遠藤為俊にはまったく感慨が沸かない。おれを殺したいだけで、あれはやっぱりやり過ぎではないか。馬鹿みたいだと鍋倉は思った。


 どう考えてもつり合いがとれないのだ。勝ったの負けたのと、噂はどうであれ、『遠藤家伝』の正統性を遠藤為俊は公式に認められた。一方で熊野三山はというと『太白精典』の所有者を自称している。それは古来、熊野三山が所持していた事実から反論の余地はない。彼らにとっては、『太白精典』の帰還は悲願なのだ。命をささげたって惜しくはない。であるなら遠藤の場合はどうだ。おれを寄って集って殺すという目的は、手を組んだ熊野衆徒とあまりにも隔たりがあるんじゃないのか。それじゃぁ、そのつり合いを均等にするなら、と鍋倉は考えた。やはり、一つしか思い浮かばない。


 だが、よもやそんなことがあろうか。佐渡に押しかけて来たのは平家の残党ばかり。おそらくは平家の最後の直系平六代の線で事実を知ったのであろう。そしておそらくは、文覚様はご実家の遠藤家には口を閉ざされたのだろう。それをなぜ遠藤為俊が知り得たのか。


 ともかくも遠藤は間違いなくおれが『撰択平相国全十巻』を所持していたのを知っていた。じゃないと平安京の治安を乱すような愚行を、取り締まる側の者が出来ようか。おそらく熊野衆徒は遠藤にそそのかされたのであろう。


 となれば、すべての事の発端はおれにある。そしてそこから考え得るに、あの戦いの中で、おれはやつらに生かされていた。捕縛して『撰択平相国全十巻』の在りかを聞こうとしていたのだろう。よくよく考えれば今出川邸の乱戦の中、突っかかって来る者は大勢いたが、矢はまったくと言っていいほど飛んできていなかった。先ずは周りの門人をせん滅し、その後残ったおれを捕縛しようとしていたんだ。


 ああ、なんてこった。皆はおれの犠牲になってしまった。おれは皆の人生を狂わせてしまったんだ。


 彼らとて希望やこころざしを持って平安京に来たのであろう。それがおれのために野たれ死んでしまった。大変なことをしてしまった。もう取り返しがつかない。つぐなうことすら叶わないんだ。


 そもそも『撰択平相国全十巻』を佐渡から持ちださなければこうはならなかった。離れ小島にあったから人をきつける力は弱まっていたが、それが平安京にもなると強烈な力を発したのだろう。逆にいえば『撰択平相国全十巻』にはそれだけの力があった。そして佐近次さんはそのことをおれに言っていたんだ。


 そんなことも分からずに佐渡から持ち出した揚句、よくもまぁ燃やしたものだ。確かに佐渡でも多くの者が死んだ。だからあの時は、良かれと思って燃やした。


 争いが無くなると思ったんだ。それを馬鹿が持つからこうなる。それでおれはというと鬼一法眼の勘違いで死の寸前。不幸中の幸いは、おれが死んだら『撰択平相国全十巻』を得ようとする者もいなくなって世の中から争いの種が一つなくなるってことか。


 鍋倉は小さな笑みを漏らす。いまはそれが目一杯。そしてそれはやはり自嘲だった。


 依然、オオカミの群れは鍋倉が弱り切るのを舌なめずりして待っていた。その鍋倉はというと頭を起こすことも出来ず、群がるオオカミの様子は分からない。だがこの後に何が起こるかは、想像は出来ていた。







読んで頂きありがとうございました。次話投稿は日曜とさせていただきます。今後ともよろしくお願いします。

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