第25話 遺棄
「毒蛇は別として、わたしだって仁法さんの意見に賛成です。鍋倉殿を一刻も早く見つけ出しましょう。皆さんも鍋倉殿の顔を拝みたいでしょう?」
そう言うと鬼善は、のそのそとまたあの式盤を取り出した。あっ! と八龍武の誰もが思った。その手があったか、と感心する一方でこうも思う。さっきの嘆き声は何だったのか。鍋倉が姿を消してしまい、それで鬼一法眼様に怒られるってこの世が終わらんばかりに狼狽えていたはず。
四の五の言わず初めからそうすりゃ良かったんだ。唖然としている八龍武の面々であったが、鬼善はというと何もなかったかのように平然と方形の盤の上にある円盤を回す。月見の時と同じようにこれで鍋倉の居場所が分かる。八龍武の面々は式盤を凝視した。鍋倉に会ったなら絶対に『撰択平相国全十巻』の有無を確かめてやる。
果たして円盤の回転が止まった。八龍武の面々は固唾を呑んで鬼善の言葉を待つ。ところが、どういう相が式盤に出たのやら、鬼善の様子がおかしい。青い顔で、わなわなと震えている。明らかに、出た相は凶事に他ならない。
鬼善は言った。
「鍋倉殿はこの世とあの世の境、どうやら死出の旅路にいるようです」
月見が驚きの声を上げた。一方で、得意げになったのは仁法である。
「そらみろ。まむしさ、まむし。こういうことは単純に考えなくっちゃな」
『塵旋風』の陽朝が、月見に聞こえないよう鬼善に囁く。
「姫様のためには、居なくなった方が良かったのです」
確かにそれも一理あった。反対に『撰択平相国全十巻』の方はというとすでに無いのだから鍋倉に価値は見いだせない。父、鬼一法眼の客を失ったのと、娘月見の将来とを天秤にかけた鬼善は十中八九、ほっとしたであろう。といっても浮かれ気分で“いなくてよかった”とは言えないはずだ。案の定、まごまご戸惑った風を見せつつ、うなずく。一方で、『磐座』の道意は陽朝の囁きに聞き耳を立て、鬼善がうなずいたの見ていて、策とまでは言い過ぎかもしれないが、ある考えが頭に浮かんでいた。
「いたしかたない。鍋倉のことは忘れろ。間違っても誰にも言うな。たとえ鬼一法眼様であってもだ」
鍋倉のことに関しては黙っているだけで鬼善からの心証を上げられる。あるいは脅しにも使えるかもしれない。最悪、もしどこかで鍋倉が生きていたとしても、鬼善が死んだと占ったのだ。いつ何時現れるかもしれない鬼一法眼様に言い訳が出来る、などと道意は考えたのだ。だが、月見はそんな皆の思惑をよそに純粋に鍋倉を心配していた。
「佐近次、澄がかわいそう。なんとか出来ないの」
無言で首を横に振った佐近次であったが、こっちはこっちでやはり腑に落ちない。どういう訳で鍋倉は月見を置いて行ってしまったのか。らしくない。それ以上におかしいのは今出川邸に姿を現した黒覆面の男。何か裏があるとしか思えない。
道意が言った。
「今出川様の占術は間違いを知らない。ゆえにあなた様も見付けられたのです。占いに死んだと出れば鍋倉はあきらめる他にない」
「いい人だったのに」
助けてくれた鍋倉を置いていくなんて考えられない。その上、忘れろとも言う。かわいそうに思えて月見は声を上げて泣く。仁法はというと、もううんざりという顔である。死人に良い人も悪い人もないし、助けてもらったからといってその死人に何かしてやれるわけでもない。忘れろというなら丁度よいではないか。死人が抗議してくるわけでもなし。
といっても、置き去りにしようとする八龍武の面々を誰も責めることは出来ない。何もしてやれないのなら、せめて死体だけでも持ち帰って供養してやろう。誰にも言えないのなら密かに葬ってやってもいい。普通はそう考えるものだがこの当時、名も無き者の亡骸は野ざらしにして獣に食うに任せておくのが常識であった。そのために大凶作が起こりでもしたら洛中洛外どこもかしこも死屍累累の有様だった。そんな世間を知る八龍武の面々にとって月見は逆に、物の道理が分からないただのわがまま娘だったのだ。
ともかくも、八龍武の面々に鍋倉を探そうという気持ちはもう全く失せていた。
「さぁ行くぞ。生駒とはおさらばだ」
仁法は歩き始めた。
鍋倉は強烈な悪寒で目を覚ました。眼前に覆いかぶさる熊笹が小刻みに揺れている。歯で歯を打つ音が耳の奥で不気味に響いている。朦朧とする意識の中で、黒覆面の男が放って来た内功を陰陽の陰気と考えた。数日の練功で癒せるだろうと悠長に構えて目を閉ざす。すると瞼の裏の暗黒に、ほのかな明かりが浮かび上がった。それがみるみるうちに女性の顔を象っていく。
……月見様? そうだ! と思った。今日一緒に下山すると月見に約束していた。いや、そんなどころではない。黒覆面の男の目的が月見であったなら! そう思うといてもたってもいられなくなった。起き上がろうと身体を反転させる。途端、関節の至るところに強烈な痛みが走る。うめき声をあげるのがやっとでうつぶせのままそれ以上、体を動かせられない。おれの体は一体どうなっちまったんだ。訳が分からず、かといってその疑問に答えようにも気持ちの方が焦っていては正常な思考に至らない。
どうにでもなれと意を決し、大きく息を吸って体を起こす。やはりそれはよくない結果をもたらした。先ほどよりさらに強烈な痛みが全身を駆け抜けた。と同時に心臓がダダンと躍り、蔵腑が波打つ。手足の指先からは血の気が引いて行き、それが体の中心に向けて集まっていく。胸が急激に熱くなったかと思うと張り裂けんばかりの激痛に襲われる。鍋倉はたまらず吐いた。大量の鮮血。それが熊笹の藪に飛び散り、一面を赤く染めた。
どれほどの血を失ったのか。目の前の衝撃的な光景に、鍋倉は我に返った。経絡が馬鹿になっている。いや、馬鹿になっているというより拒絶反応を起こしていると言った方がいいのか。己が使う『よろいぬき』は衝撃波で臓腑に打撃を加える。熊野衆徒の首領に使った技、『発勁』はというと気をぶつけて経絡や血の流れに衝撃を与える。
相手の経絡に同調させることが要点である。経絡とは所謂、気の通り道である。そこが一時的に止まったり、短絡したりでもすれば人の体は機能不全に陥ってしまう。黒覆面の男が放った掌手はどうだったろうか。打撃というよりただ触っただけだった。それから考え得るに、何か力を加えられたわけでもない。単に、気を注ぎ込んで来たに過ぎないのだろう。それでこの全身の痛みと不快感、そして大量の吐血。
間違いなく、黒覆面の内功は陰陽通常の気ではない。あえて言うならば毒気。
つまりそれは特定の方法を知らないと助からないということでもある。もちろん、それを知る者は他でもない黒覆面の男ただ一人。必然、鍋倉はこの状況ではそれは叶わないと理解した。そして言うまでもなく、己の体がどれだけ持つかも黒覆面にしか答えられない。やつはどれくらいの猶予をおれに与えたのだろうか。森に放置していったのだ。おそらくはそんなに長くは生かしてもらえないのだろう。時間がない。動けるうちに月見を下山させ安全な所まで導かねば、と痛みを押して立ち上がる。
身体を捨てるとなれば痛みがあるのがむしろ有難い。無くなれば即ち死なのだ。そう思えばこそ鍋倉は強烈な痛みと極度の不快感を押して何とか前に進むことが出来た。
だが、そんな鍋倉にさらなる苦境が襲いかかる。牙をむき出し、唸りを上げるオオカミが一匹、それが目の前に姿を現したのだ。鍋倉が血を吐いて弱っているのを知っているのだろう。牽制も何もあったもんじゃない。いきなり、それも明け透けに正面から飛び掛かってくる。
鍋倉は、避けもせずただ右拳を振り上げた。それを絶妙な間でオオカミの頭に落とす。ほぼ直角にオオカミは方向転換、強烈な勢いで頭から地に叩きつけられる。拳を振り下ろすことこそが鍋倉にとってもっとも体を動かさない方法だったのだ。だが、それでもやはり強烈な痛みと極度の不快感がその身を襲い、鮮血が口から飛び散る。ふらりふらりと数歩前に進んだが、膝が抜けた。鍋倉はひざまずき、丸くうずくまる。
これはいよいよ最後だな、と鍋倉は思った。はぐれ者ってこともあろうが間違いなく、オオカミが一匹ってことは、まずない。
読んで頂きありがとうございました。次話投稿は木曜とさせていただきます。今後ともよろしくお願いします。




