第10話 雲泥
残念! これが本命。佐近次が攻撃に移ろうとする前に、鍋倉は間髪いれず胴薙ぎに木刀を振う。ところがそれを佐近次は、受けた。
《受け》は払いとは違う。敵の太刀を撥ね得ぬぎりぎりの状況で《受け》は行われる。つまりは最後の手段なのだ。その《受け》をこともあろうか佐近次が片手で、それも逆手に行なった。鍋倉はこの時、勝利を確信した。そして案の定、鍋倉の木刀は受けた木刀をものともせず佐近次の胴に届こうかとしていた。が、佐近次は押し込まれる己の木刀を左掌手で打撃し、止めるどころかその木刀を、鍋倉の腕ごと上へ跳ねあげてしまった。
目を見張った。受けた木刀で一撃の威力を落としたとしても、遠藤為俊でさえ両手で受けていた鍋倉の渾身の太刀筋である。それをこともなく、振るう腕もろとも掌手で跳ね上げてしまった。しかも、止めたのも跳ね上げたのも実質、掌手の威力なのだ。どれほどの内功がその手に加わっていたのか。
とはいうものの感心ばかりはしていられない。鍋倉は跳ね上げられた力に逆らわずその反動を利用してさらに踏み込むと上段から真っ直ぐに木刀を振り下ろす。何万、いや、何十万回と修行で繰り返された動作。切り返しに出来たタメは木刀をしならせる。そこからの、しなり戻りの威力は尋常ではない。
当然、その太刀を佐近次は後ろにさがってかわすだろうと鍋倉は考えた。いくらなんでもこれを掌手で止めるのは無理かろう。そしてその通りになった。佐近次が後ろに飛んでそれをかわす。
好機! と内心叫ぶ。佐近次がさがったそこは遣戸であった。さらに踏み込んで佐近次の胴に刺突を放つ。
が、佐近次が斜め後ろ、遣戸と遣戸の間にある柱に向かって飛んだ。
一旦は、柱を蹴って舞い上がったその高さから鍋倉は、今度はおれの方が遣戸に追い詰められてしまうと考えた。もちろん、そうはさせじと振り返り、着地するその瞬間を狙う。が、それが来ない。
驚くべきことに、佐近次は逆さまの体勢で天井を走っていた。距離にして二、三歩か。くるりと身をひるがえし、鍋倉と大きく間合いを空け、着地した。
なんて身の軽さなのか。その佐近次が猛進して来たかと思うと足を狙って滑り込んでくる。横に飛んだ鍋倉は床を滑る佐近次に向けて木刀を落とす。が、相手もそれを読んでいたのだろう、木刀で受け止められ、しかもその体勢から蹴りを放ってきた。無防備だった後頭部に強烈な打撃を受ける。
一瞬、意識を失い、前のめりに倒れたが、はたと意識を取り戻し、回転して立膝に体を起こす。次の攻撃に備えないといけない。木刀を両手に持ち替え、佐近次を探して辺りを見回した。ところが佐近次がいない。
頭上、後ろから冷ややかな視線を感じ、鍋倉は肩越しに視線を返した。
燈台の陰影の加減もあったのだろう。肩越しの視線でしっかりと正面から相手を見られてないのもある。柱を背にして佐近次は、宙に浮いているようであった。頭が天井に当たるか当たらないかのところで両腕を垂らし、その右手の木刀はというと風に揺られる柳の枝のようであった。
なんでそうなっているのかを鍋倉は全く理解が出来ていなかった。特別な内功を使っているようには思えない。もし人を浮かすほどの内功であったのなら、周囲に影響が出ないはずはない。それにもかかわらず、どういう訳か佐近次はただ平然と、宙に浮いているのだ。
いわゆる当時の天井は、格天井であった。格子に組まれた木材に板を組み込んだものだが、佐近次は右足の指をその格子にかけ、左足を柱に押し付けていた。例えるならその姿は、梁と柱の歪を防ぐため斜めに入れる補強材、まるでその方杖のようであった。一方で、何事もないかのように上体だけは開かれた脚の中間にいる。果たして、その上体が捻転した。
途端、天井から放たれた佐近次が旋風脚さながら、凄まじい勢いで向かってくる。鍋倉は魅入っていた分、出足が遅れた。巻き込むように回転する佐近次の脚からは何とか逃れることが出来たが、最後に追って来た木刀には手も足も出なかった。
それどころか、鍋倉はまるで腰を抜かしてしまったかのように足を床に放り出し、上体を支えるために後ろ側に手を付いていた。
結果は寸止めだった。右手一本で振られた佐近次の太刀は脳天寸前で止められ、鍋倉はというと、その佐近次に見下ろされていた。
正直、負けた気がしなかった。すべての技が返されたというならまだしも、実際は何もやらせてもらえなかったのだ。目くらましならぬ、心機のかく乱。こういう戦い方もあるのだな、とは感心つつ、もう一度やったなら負けはしないとも思った。が、しかたない。おれはここまでの男だったということだ。鍋倉は言った。
「果たし合いだ。覚悟は出来ている」
ところが木刀を、佐近次が捨てた。
「やはり潔いのは好感が持てます。よいでしょう。剣は口よりも語る。あなたの人柄はわかりました。信用します」
果たし合いではなかった? もしかして、佐近次さんはおれの人物を計ったのか。その佐近次が続けた。
「と、簡単に言ってしまいましたが、わたしとしてみればやはり、燃やしたことをうそだと言ってもらいたかったですねぇ。なにしろあなたは大変なことをしでかしました」
「『撰択平相国全十巻』を焼いたことがか?」
「あれがどういうものか知っているのですか?」
「清盛公が金に糸目をつけず古今東西の家伝書を集め、厳選し、注釈を付けたという代物だろ」
「分かっていてか……。しようがない。それで念の為ですがあなたに聞いておきたい。中身を見たのですか?」
「いいや、おやじが見なかったんでおれも全く見てない」
やはり、と思っているのだろう、佐近次がうなずく。
「あなたは『洗髄経』を知っていますか?」
首を横に振った。
「武術の祖、達磨大師が書かれた有難い内功の奥義書です。大陸ではすでに失われたものになっていると聞きます。それが東大寺に有った。それも残念ですが平家の焼き打ちにあい、焼失したとされています。されどその直前に平家が盗んでいたとするならばどうでしょう。必ず『撰択平相国全十巻』の中にそれが含まれているはずです」
固唾をのんだ。佐近次がさらに言った。
「これはあなたにでも分かるようにものの例えを言ったまでです。霊王子も言っていたでしょう、信じられぬと。ちょっと考えれば分かります。他にも貴重な文献が記されていたことを。それを燃やす人はまずいない。あなただけです」
………普通、燃やす人はいない。そうと分かってもなお、信用してくれた佐近次という男の度量の広さに鍋倉は感激した。そして燃やして得意になっていた自分の考え足らずに、またどじったかと嘆く。思えばいつも肝心なところで失敗してきた。
「まぁ、そうはいうものの、『洗髄経』についていえば、もし『撰択平相国全十巻』にあったとしても写本は写本。しかも清盛公に注釈を入れられてはねぇ。達磨大師も形無しだし、なにより、本物ではありません。そして、注釈が入れられた写本の『洗髄経』が存在していたというならば、本物はどこかに存在しているってことです。そう自分を責めないように。わたしが言いたいのは、表面ばかりを見ていたのでは物事の本質は見えないってこと。それはあなたの戦い方もそうであるように、太刀筋、速さでは、あなたには敵いませんでした。現に、わたしは追い詰められてしまいましたよね。でもあなたは負けた」
佐近次の思慮深さに鍋倉は感服した。そしてやはり、佐近次は工藤がいうような悪い男ではないと感じ入る。いや、そんなどころではない。命を救われたも同然なのだ。この男について行かねばと心に決めた。
「霊王子はあなたが工藤邸で遠藤為俊と戦ったことを聞きつけて来たのでしょう。これからもあなたは狙われ続けます。ともあれ、これはわれわれにとって好都合。あの女を捕える良い機会でもあります。どうです。力を合わせませんか?」
と、言ってもそればっかりは、と鍋倉は悩む。ついて行こうと思った矢先なのだ。それをひるがえすなんて男らしくない。だがこの佐近次がもしあの女を捕縛したらと考えてしまう。女が可哀相に思えてならない。
「いや、それは待ってくれ。あの女とは佐渡からの因縁がある。あの女はおれ一人でやらしてもらいたい」
佐近次が押し黙ったままひとしきり。
「よいでしょう。されどわれわれも霊王子の手下に仲間二人を殺されているということも忘れずにいてもらいたい」
鍋倉は佐近次に深々と頭を下げた。そしてますます佐近次という男について行こうと思った。
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