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第32話「新たな当主」

 元亀4年4月12日、甲斐の虎・武田信玄死す。

 信玄の遺骸は配下たちの手によって密かに荼毘に付された。

 総指揮官を失った武田軍であったがその場にいつまでも立ち止まるわけには行かない。

 信玄の弟・信廉(のぶかど)が代わりに軍の指揮をとり、再び撤退を開始した。

 いまのところ信玄の死は織田には知られていない。それどころかそれを知っているのは勝頼と一部の重臣たちだけであり、味方でさえ大半の兵は知らされていない。

 それは信廉が信玄の兜をかぶり、信玄に成りすましているからである。信廉は信玄に背格好がよく似ており、信玄の兜をかぶれば瓜二つなのである。

 ちなみに味方にも信玄の死を隠しているのは、単純に士気が下がるのを恐れてのことである。


「皆、もうすぐ甲斐ぞ」


 信廉がそう将兵らに伝えると雑兵たちは安堵した表情を見せる。

 長かった上落戦を終え、ようやく故郷に帰れたからである。

 その一方、事情を知る家臣団の顔はやや暗かった。






 信廉が無事躑躅ヶ崎館に到着すると、一人の男がそれを迎えてくれた。

 彼の名は真田一徳斎(さなだいっとくさい)。かつては真田幸隆と名乗っていた男である。


「なにゆえ帰ってこられた」


 一徳斎は信廉を、勝頼を、そして信茂ら重臣たちを睨みつけた。

 だが、一徳斎は信玄の死を知らないわけではない。きちんと信廉が早馬で事の次第を伝えている。


「兄上が亡くなったことは伝えておいたはずだが?」


 信廉はたまらず一徳斎に問いかける。

 これに対し、一徳斎は誤解だと首を横に振って答えた。


「そうではない。わしが言いたいのは、信長包囲網の要である我らが撤退しては、信長は息を吹き返し、武田の天下が遠くなるであろうということだ」


 これに対し、さっきまで黙っていた信茂が突如立ち上がった。


「幸隆、お主は御館様を見捨て、進軍を続けるべきだったと言うのか!」


 信茂の顔は真っ赤に染まっており、怒りに満ち溢れていた。

 一方、一徳斎は口元の灰色の髭を撫でつつ冷静に言葉を返す。

 だが、その言葉は先ほどの言葉より少し語気が強まっていた。


「武田家の上洛は御館様の悲願でござる。御館様もきっとそれを望んでいたはず」


 二人の間に不穏な空気が流れる。

 まさに一発触発。

 だが、そんな二人の間を一人の男が臆せず割って入っていった。


「一徳斎、いまさら過ぎたことを言ってもしかたあるまい。これからどうするべきかを考えるのだ。信茂は少し頭を冷やせ」


 乱暴な口調。しかし、その男の言葉は妙な頼もしさを感じさせる。

 二人を落ち着かせたその男は将兵たちのほうを向く。

 そして、叫んだ。


「皆!武田信玄は死んだ!だが、俺はいつか父を必ず超える!だから、ついてきてほしい!」


 そう、その男こそ第20代武田家当主・武田四郎勝頼であった。

 短く単純明快な言葉。だが、その若き当主の力強い言葉に将兵らは喚声を上げる。

 甲斐の虎は死んだ。だがその子もまた立派な虎であったのだ。

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