第31話「甲斐の虎、死す」
三方ヶ原にて徳川軍を破った武田軍はその後三河に侵攻、野田城を包囲した。そして2月、野田城は落城した。
圧倒的速さで西へと進む武田軍。誰もがその勢いのまま織田領へと侵攻すると思われた。
だがしかし、武田軍は長篠城に入城すると、そこから動くことはなかった。
なぜなら、武田軍はそこから一歩も動くことが出来なかったからである。
「お加減はいかがですか」
勝頼は優しい口調で話しかける。
勝頼の前には父・信玄の姿がある。だがしかし、父は布団に横たわっていた。
こけた頬に青白い肌。衰弱しきったその姿からは威厳もなにも感じられない。
それは勝頼の知っている父の姿ではなかった。
野田城を陥とした直後、突然信玄は血を吐いて倒れた。
もともと信玄は重い病を患っており、それが度重なる戦で悪化したのだ。
それが、武田軍が長篠城から動かない理由であった。
「おお……、勝頼か」
弱弱しい声。
勝頼はその張りのないかすれ気味の声が父の声だと信じたくなかった。
「はい。勝頼です」
勝頼はそう答えると父の手を握った。
すると、父は再びかすれた声を発した。
「わしはもう長くはない……」
言葉通りの意味である。信玄の命はもう燃え尽きようとしていた。
だが、勝頼はまったく動じない。
そんなことはとうに気付いていたのだ。
かつて、勝頼は父の野望を聞いたことがあった。そのとき、父は言った。
『お前が将軍になれ……!』
それはあまりに大きすぎる野望。だが父らしいと勝頼は思った。
しかし、この言葉には一つ腑に落ちないことがあった。それは「お前が」という部分である。なぜ「自分が」ではないのか。武田家の当主は勝頼ではない。ならば、もし将軍になるとするならば当然勝頼ではなく、父・信玄のほうがふさわしいはずである。
そのことを考えているうちに勝頼は一つの結論に至った。
父の命はもう長くはないのではないか、そしてそのことを本人はもう自覚しているのではないか、と。
「そうかお主は既に気付いていたか。さすがは我が息子よ……」
信玄は勝頼を見てそう言うと少し微笑んだ。
勝頼は父の笑顔をはじめて見た気がした。
「武田家のこと、頼むぞ……」
「はい」
勝頼は己の目から涙がこぼれるのを感じた。
冷静なフリをするのはもう限界だった。
4月、武田軍はようやく動き出した。だがしかし、軍は西へは向かわなかった。信玄の容態が一向に回復の兆しを見せないため、やむなく甲斐へ撤退を開始したのである。
だが、信玄の命は甲斐までもたなかった。
元亀4年4月12日、甲斐の虎・武田信玄は信濃国駒場にてこの世を去った。享年53。
その男の死は武田家を、そしてこの戦国乱世を大きく動かすこととなる。




