第19話「義信事件 ~前編~」
武田太郎義信。武田信玄の嫡男であり、勝頼の兄である。智勇を兼ね備え、武田家の次期当主として期待されていた彼だったが、一つ問題があった。父・信玄とただひたすら仲が悪かったのである。
親子の仲に亀裂が入ったのは永禄3年、桶狭間の戦いの直後である。信玄は桶狭間での今川義元の戦死を聞くと今川との同盟を破棄、織田と組み弱体化した今川を攻めようとした。これに義信が反対した。
「父上、信長は我が養父・義元殿の仇!手を組むべきは織田ではなく今川でございまする!氏真殿とともに憎き信長を討ち果たしましょうぞ!」
「だが義信、氏真はろくに政もせず蹴鞠や和歌にうつつを抜かしていると聞く。わしは阿呆と手を組む気はない。」
「さ、されど…!」
「ええい!黙れ!これはもう決まったこと。我々武田は織田と同盟を結ぶ!」
こうして義信の意見は聞き届けられず、二人はこれをきっかけに対立を深めていったのであった。
永禄7年、義信の屋敷に一人の男がコソコソと人目を気にするように入っていった。
その男の名は飯富虎昌。信玄からの信頼厚い重臣の一人であり、義信の傅役であった。
「虎昌、よう参った。で、覚悟は決まったのか?」
「………申し訳ございませぬ。いくら義信様の頼みといえど、お館様に刃を向けることなどわしにはできませぬ!」
虎昌の目から涙がこぼれた。
「そうか…、残念だ。お前だけは俺の味方だと信じていたのだがな…。」
義信はそう冷たく呟くと虎昌を睨んだ。その目は完全に虎昌を軽蔑していた。
「義信様、どうかお考え直しくださいませ!今ならまだ間に合いまする!お館様に頭を下げ、いままでの非礼を詫びるのです!」
虎昌は下げていた頭を上げると必死の形相で義信に訴えた。だがその願いが聞き届けられることはなかった。
「もう後戻りはできぬ…。」
そう呟くと義信は部屋を後にした。
武田義信は謀反を起こそうとしていた。縁続きの隣国を弱体化したからといって攻めようとする父を義信は許せなかった。
だが、義信に勝ち目がないことは明らかである。謀反を起こしたところで義信に付いていく者はほぼ皆無といっていいだろう。
(もしこのまま義信様が謀反を起こせば、廃嫡はまぬがれぬだろうな…。)
一人残された虎昌はしばらく目をつぶり考える。するとふと脳裏に20年以上前の記憶がよみがえった。
かつて武田晴信は父・信虎と対立、そしてそれを追放して武田家当主となった。今の状況はあのときによく似ている。
「親子同士の争いはもうたくさんだ。」
虎昌はそう呟くと勢いよく立ち上がった。
そしてその数日後、信玄のもとに驚くべき報が飛び込んできた。
「飯富様に不穏な動きあり!謀反にございまする!」
先代・信虎のころから武田家に仕えてきた重臣・飯富虎昌が謀反を起こしたのであった。