藍色の目の訪問者
戸を叩く音がした。シェサーナが出ると、不気味な男二人が立っていた。彼らは黒色の外套を纏い、藍色の目を霊医師に向けていた。シェサーナは緊張した面持ちで二人を見た。
「何か用事でも?」
男の額に血管が浮かんだ。明らかに怒っていた。
「あれを渡してもらおうか?」
「なぜ今さら?」
シェサーナは気配を感じて、背後にいるエリュを捉えた。
「あ、エリュ……」
「母さんの知り合い?」
「エリュ!」シェサーナは一瞬考え込み、言葉を付け足した。「えっと……昔馴染みよ。積もる話もあるから、しばらく三人きりにさせて」
「それだったら、家の中で話したほうがいいんじゃない?」
「あ……それは――この人たち仕事があるの。たまたま近くを通ったから来たんだけど、すぐに仕事に戻るんだって」
エリュはふうん、と納得した素振りを見せると、家の奥に姿を消した。シェサーナは再び二人に向き直った。
「あんたの一言ですむものを」
シェサーナは肩をすくめた。
「あれはもうこの世に存在しないのよ」
「あんたが隠している。そういう情報が入っているんだ。言わなければ、あの娘を人質にしてでも……」
「あの子には手を出さないで!」
シェサーナは叫んでから、エリュのいなくなったほうを見た。彼女は二人をにらみつけた。二人は彼女の目を見て血の気が引いた。
「お帰りください」
二人は肩をすくめ、森の中に消えていった。それでもシェサーナの胸の中で一つの不安が広がっていった。
その日の真夜中に鍵が開く音がした。夫のオロンが、また真夜中に帰ってきたのだ。オロンは優れた彫刻家だが、あまりに熱中して作るため、気がついて帰ると真夜中だったということが多い。シェサーナはいつもだったらもう眠ってしまっているが、その日は眠れなかった。夫が帰った音を聞き、寝室からむっくりと起き上がると、居間に忍び足で行った。
「もう、時間を見ないで帰ってくるんだから」
オロンは居間の椅子に座ってガヌ茶を飲んでいたが、シェサーナが来ると、身震いした。
「なんだ、起きてたのか。幽霊かと思った――どうした?」
シェサーナはしばらく硬直していた。そして首を激しく横に振ると、答えた。
「何でもないわ」
「そうか……」
オロンは納得したかのようにうなずいた。シェサーナはお茶を飲む彫刻家の手を見た。
「……またお椀でお茶を飲んでる」
彫刻家は恥ずかしそうに笑った。彼は彫刻以外に無関心で、よくこういった間違いをする。シェサーナは芸術家だから、と無理やり納得していた。
オロンは無口で、あまり動くことはない人だった。彫刻を作っているうちに自分も彫刻になったのかと周りが疑ってしまうほどだった。
まだ結婚もしていない頃、シェサーナはそのことを冗談めかして言ったことがある。するとオロンもまた笑い、「そうだったら良いのにな」と言った。そのときシェサーナは、オロンはもしかすると、人間であることへの嫌悪から、美しい彫刻を作れるのではないか、人間よりも美しいものに惹かれて、彫刻の周りで暮らしているのではないか、と思った。
「シェサーナ?」
黙り込んでしまったシェサーナの顔を覗き込みながらオロンは妻の名を呼んだ。夫はガヌ茶をコップに注いで、妻に手渡した。彼女はゆっくりとそれを飲むと、張り詰めていたものがほぐれた気がした。
「母親は大変か?」
シェサーナは、静かに笑った。エリュが生まれてから、いつも訊く質問だ。彼女はこの質問をされるたびに、エリュが生まれた時の、おどおどしているオロンの姿を思い出すのだ。どこまでも不器用な人なのだ。
「ええ、もちろん。エリュはどこか行動的なところがあって、追いかけるのが大変だわ」
オロンはくすくす笑った。
「母親に似たんだな」
シェサーナの顔色を見て、オロンはガヌ茶をすすった。
「……ごめん」
「エリュと、仕事場で会わないの?」
オロンは呆れた表情を見せた。
「きみが、『仕事の邪魔になるから行かないように』って言ったじゃないか。エリュは来てくれなくなったよ」
シェサーナは口元を手で隠して笑った。
「そうだったわね。今エリュの頭を撫でたら?」
オロンは口を尖らせた。
「起こしたら、ひんしゅくを買うよ」
「あら、勝手に怒らせなさいよ。何も思い出さないよりは。そのうち、『父さんの背中しか覚えていない』って言われるわよ」
オロンとシェサーナはそれからも語り合った。オロンはずっと向かい合っている彫刻の話ばかりだけど、シェサーナはその間、自分の苦悩を忘れることが出来た。彼女がオロンに惹かれた理由は、そこにあったかもしれない。
だが、夫がどんなに彫刻の話をしても藍色の目の訪問者について忘れることが出来なかった。エリュに何かあったら――。秘密には出来ない。
シェサーナはオロンに打ち明けた。
「〈吹雪の一族〉がやって来たわ」
オロンの茶を飲む手が止まった。彼も訪問者の意味が分かっていた。妻は続けた。
「彼らは、『エリュを人質にしてでも』って言っていたわ。彼らならきっと本気でする」
オロンは湯飲みを机に置いた。
「奴らの目的は何だろうか?」
妻は黙り込んでしまった。オロンは肩をすくめた。その質問にはいつも答えなかった。
「シェサーナ、きみはどうすべきだと思うんだ?」
「いろいろ考えた。でも、どうしても迷惑をかけてしまう。わたし一人が奴らを引きつけても、わたしが彼らの前で死んでも――」
オロンが椀を置いた。彼が怒っているのか、悲しんでいるのかシェサーナにも分からなかった。
「エリュは、悲しむだろうな」
夫の言葉に、シェサーナは生つばを飲み込んだ。二人の間に沈黙が流れた。彼女は目を椀の中で揺れるガヌ茶に落とした。彼女の目は、弱気な自分自身を映していた。
「奴らのことはよく分からない。だが、おれはエリュのことをよく分かっているつもりだ。頑固なエリュがそんなことを許すはずがないだろう? そうだな……引っ越そう。情報が漏れないように誰にも言わずにさ――こういうのを夜逃げだというんだがな」
「でも、そんなことしたら、オロンは……新しい職を探さなきゃいけないし、エリュにも寂しい思いをさせてしまう」
「おれやエリュが一番悲しいのは、シェサーナが届かないところにいなくなることだよ」
陶器のコップの中のガヌ茶の水面に波紋が出来た。オロンの言葉が波紋となって広がった。そうだ。わたしは母親なんだ。エリュをこの身に宿したときから、わたしはエリュを守ると誓ったじゃないか。どんなことをしても、守り通してやる。