〈最も自然に近き者〉
エリュは、家の近くの草原で膝を抱えて座り込んでいた。彼女は霊名術が万能な技術だと思っていた。だが、そうではないのだ。エリュは横になった。この世には名前の分からぬもの、名前のないものがあまりに多い。それを母さんは知っている。もしかして母さんも視えるの?
エリュが周りを見渡すと、無数の精霊の姿が視えた。精霊の姿は視たことはあるが、話したことはない。精霊は人間の姿が視えないようだった。トルンの死後やるせないような気持ちが胸に渦巻いていた。
「最近元気がないけど、どうしたの?」
シェサーナがエリュの顔をのぞき込んだ。
「精霊は何を考えているんだろうなって」
母は影の奥で考え込むような顔を浮かべた。
「そうねえ――」
母は娘の隣に座り込んだ。シェサーナは土をえぐって、エリュに見せた。
「この土に意思はあると思う? 今えぐられて『痛い!』と感じたと思う?」
娘は答えられなかった。難しかった。土を踏みしめて生きていながら、精霊の姿が視えている彼女にとっては。
母はエリュの答えを待たず、土を元に戻し、両手で土を払い落とした。エリュは答えの代わりに問いを口にした。
「母さんは……視えるの?」
シェサーナは驚いたようすも見せず、諦めの入り混じった微笑を浮かべた。
「いつかは分かると思ったけど、あなたから切り出すなんてね。あなたって、何かを思っても自分の中に溜め込むところがあるから」
「じゃあ、視えるのね?」
エリュの声は明るかった。彼女は初めて自分の視える世界を分かってくれる人に会えたことを純粋に喜んでいた。
「ええ、わたしも視えるの。多分わたしから引き継いだのでしょうね」
シェサーナの言葉に、エリュは顔を曇らせた。
「嬉しくないの?」
シェサーナは微笑んだ。
「あなたから初めて聞いたときはとても嬉しかったわ。わたしと同じものが視えるなんて――母さん、出かけるから。帰りは夕方になると思う」
エリュははっと立ち上がった。
「今日〈最も自然に近き者〉が来て、カ・レア島中の精霊使いの研究を審査する日だよね?」
〈探求者の塔〉は霊名術の最高研究所でもあり、年に一度各地の研究の視察が行われる。ここで認められれば、〈探求者の塔〉で一年間の研究が認められ、成果が出れば晴れて〈探求者の塔〉の精霊使いになれるのだ。
「ええ、そうよ。〈最も自然に近き者〉は、ラヴェ・エスタ最高の精霊使いで、精霊や妖精について訊けば、色々答えてくれるでしょうね」
「妖精ってあの蝶の羽のついている小人の?」
シェサーナはふきだしてしまった。
「まあ、そういうものもいるわね。妖精は誓いに縛られていないから、精霊と比べると自由に踊っているように視えるけど、精霊使いが呼び出すと、代償を求めたり、中にはいたずらする者もいるのよ」
エリュの目から輝きが失せた。
「妖精って意地悪なのね」
シェサーナは苦笑すると、エリュの手を引いて神殿に向かった。
朝の港に、ラル・トル島から一つの船がやって来た。タラップが降ろされると、杖をついた一人の老人が、カ・レア島の地に足を降ろした。
老人もまた白い外套を纏っていた。その白さが胸まである白いひげと同調し、朝の光を浴びて、輝いて見えた。老人の足取りは、杖も必要ないかと思われるほどしっかりしており、大木を思わせた。
神殿に辿り着くと、カ・レア島中の精霊使いたちが神殿の前で列を作り、礼をして迎えていた。ハーゼンは聖火へ続く階段を上り、火に手をかざした。
「到着が遅れてすまなかった。さて、カ・レア島の研究を見せてもらおう」
研究の公開は最も精霊の霊力を借りやすいよう、野外で行われる。カ・レア島で有名な精霊使いたちがハーゼンの前に現れた。彼らの手にはそれぞれの研究の報告書があった。
ハーゼンは老眼鏡をかけ、それぞれの報告書を読み始めた。まず島長の息子であるザダルの報告書を読み、指差した。
「『七色の火花の発生』があるが、ここを実践で示してもらおう」
ザダルは両手を掲げ、呪文を唱えた。
「サラマンダー! 我はそなたの存在を認める。我が身に入れ!」
ザダルの周りに赤い霧が立ちこめ、彼の身体に入り込んでいった。彼の指先から火が出てきて、それぞれ別の色を発していた。その炎はそれぞれ鳥や鹿、さらには円のような形を成してザダルの指の上を踊った。
神殿が見える丘から見ていたエリュは思わず呟いた。
「きれい……」
〈最も自然に近き者〉の火の鳥を追う目は冷ややかだった。
「それで? それが霊名術の発展においてどうなるというのだね?」
意気揚々としていたザダルの顔から明るさが消え、指先の火は小さくなって、消えた。
「あ……えっと――」
「芸当を見せられても、これを〈探求者の塔〉に持って行くわけにはいかないのだ」
ザダルは赤面し、そのまま姿を消した。エリュはあっさりと不合格になったザダルの発表を惜しく思った。
「わたしは好きだったのにな……」
その後も精霊使いたちは研究の成果を発表したが、ハーゼンに認められたものはほんの一握りだった。
意気消沈したザダルは、生ける屍のように町を歩いていた。研究が認められなかった。〈探求者の塔〉の会議にかけられることもなく落選した――。
「精霊使いのザダルだな?」
彼が振り返ると、そこには黒い外套を羽織った男たちがいた。