冥界へ
二人は〈探求者の塔〉にあるエリュの宿泊室に戻っていた。
「本気なのか?」
ルダンの問いかけにエリュはうなずいた。
「〈虹霊の水晶〉は冥界にあったの。当たり前な話よね。ウーロ山でアロルが冥界の神を召喚を試みたところへ、母さんが水晶を投げ込んだんだから」
「だが、〈虹霊の水晶〉からセルーナがいなくなって、精霊は解放されたはずじゃ……」
「でも、まだテルムイの魂が名前を失ってさまよっている。彼らに本当の名前を教えないと」
「テルムイの魂がどうして冥界にいると?」
「セルーナが水晶から離れたとき、精霊も解放された。あれと同じことがテルムイにも起こったと思うの。魂が引き離されれば霊力は行き場を失って精霊となる。まだ魂は転生していないから精霊は漂い続けるしかない。魂は冥界に行くけれど、精霊が存在するゆえにまだ死んだわけじゃないから転生できない。だから冥界をさまよっていると思うの。魂だけの存在だと、冥界から抜け出せないから」
だからアルヒテロス神の召喚にも〈虹霊の水晶〉が必要だったんだ。魂は弱い存在だという。だから魂は冥界から異界に適応した肉体を纏い、生命活動を行うのだ。
〈異界の門〉をくぐって生命界から霊界に適応するように。
「魂は永い時間で廃れているかもしれないぞ? 本当の名前を呼んでも思い出せないほどに」
「それはないわ。だって、セルーナだって魔女のようになってはいたけど本当の名前で思い出したのよ。それに、あなたもテルムイなんでしょ?」
ルダンは目を見開き、それからかすかに笑った。
「いつから分かっていた?」
「あなたがテルムイと人間の歴史を教えたとき。あの時あなたが送った思念が妙にはっきり視えたから、実際にあの場にいたんじゃないかって思ったの。それにホルクが『霊名術は人間が神に上り詰めるために考え出された』って言ったとき、あなたは怒ったじゃない? あんな風に怒るんだってあの時びっくりした」
エリュが笑いかけると、ルダンはそっぽを向いた。
「あれは――セルーナがテルムイの復活を望んでいたことを知っていたから」
ルダンがエリュの虹色の目を見つめた。
「アルヌとテルムイ、二者が共生する可能性を絶ったのはアルヌのほうだ。テルムイが復活すれば戦争が起こるかもしれない」
「和解の道を模索する」
「簡単に言うが、算段はあるのか?」
「現にあなたとわたしは言葉が通っている。だとしたら、言葉にある力を信じたい。精霊に頼るのではなく、人間の手が技を生み出すことを信じたい。だから――」
エリュは黄緑色の小袋を握った。
「テルムイが持つ異界の知識で、冥界に行かせてほしい」
エリュは寝台の上で横になっていた。手には黄緑色の小袋が両手で祈るように握られていた。ルダンが上から覗き込んだ。
「冥界はテルムイの間でトゥムンカイ、という。〈原始の世界〉という意味だ。冥界はいうなれば世界の原質なんだ。想像であらゆるものが創造できる。死んだ魂は未練をその創造力で補い、成仏して転生の準備に入る」
ルダンはエリュの手を握った。エリュは彼の物質ではない手が冷たいことに驚いた。
「おれは曲がりなりにも生者の杭になる。冥界にいる魂を引き戻す役目だ」
「危険はどんなことがあるの?」
「気をつけることはただ一つ――自分を忘れるな」
エリュはまぶたを閉じ、ルダンが唱える独特な響きを持つ呪文に耳を傾けた。体が不意に軽くなったことに気づき、目を開くと、黒い門が立ちはだかっていた。霊界へ続く白い門と似ている。だが、伝わってくるものが違った。黒い門から原始の恐怖がエリュの背筋を伝ってきた。これは死の妖精から伝わってくる感じに似ている。
エリュの耳にはルダンの呪文が未だに聞こえていた。今となっては何と言っているのかはっきりと聞こえる。
「黒い門をくぐれ。目覚めのない眠りへ身を投じよ。虚無に近い場所へ進め」
エリュはルダンの言葉に従って黒い門をくぐった。
黒い門をくぐると、魂が冥界に溶け込むのを感じた――それは眠りの中に入り込むかのようだった。白い門をくぐったときと同じ感じだった。エリュの視界に冥界が映った。
黒い空が見えた。天上には太陽にしては弱々しい光を放つ天体が浮かんでおり、地上を照らしていた。地面に目を向けると、虹色の砂漠が広がっていた。まるで空にあった色彩が全て地面に落ちたかと疑うほど対極だった。
ここが冥界――。だが死後の世界とはいえ、おぞましい印象はなかった。ただ静かで、世界自体が死んでしまっているかのようだった。