崩れた調和
開国の祝典が終わり、エリュが姿を消してから、王城には重苦しい雰囲気がのしかかっていた。彼らの頭の中を巡るのはあの予言のことだった。
「ムーファ、エリュはまだ見つからないのか?」
アスハンは夕食の時間になると毎日のようにこの質問を宰相に投げかけていた。だが、ムーファの答えは毎日のように同じものだった。
「捜索は続けておりますが、部屋に入ってからの動向はつかめずにおります」
「ああ、何度もそのことは聞いた。あの目がなければ、わしは落ち着いて何もできない」
アスハンは席から立ち上がると、落ち着かないようすで歩き出した。ラナータ王妃が首を傾げ、問いかけた。
「どちらへ?」
「少し休む。神経を張りつめていたのでな」
アスハンは部屋から出て、夕日で照らされた通路を歩いた。途中で彼はセルーナが天に向かって祈る絵に視線を向けた。その背後では三つの塔が天高く伸びている。
何も心配することはない。三つの塔の誓いによって永きに渡って作り出された秩序が崩れることなどない。
夕日の光は地平線に消え、暗闇に沈んだ。アスハンは向こうから歩み寄ってくる人物を見つけた。給仕だろうか? いや、それは黒い外套を羽織っており、給仕とかけ離れた姿をしていた。見えるということは異界の存在ではないということだ。だが、奴の場合は――。
「ルーフ!」
銀色の仮面が見えたとき、彼は心臓が口から言葉とともに出てくるかと思われた。ルーフは踊るようにアスハンに近づいてきた。月の光を浴びて輝いているのは仮面だけではなかった。その手には剣が握られ、透明感のある光の中で冷たい輝きを放っていた。
「やめろ……」
アスハンはかすれる声を上げ、ルーフに背を向けて走り出した。ルーフの無情な刃は彼の悲鳴を奏で、その命を奪った。
自らの血を敷いて倒れた王を見下ろし、ルーフは呟いた。
「リーグの時代が終わり、ルーフの時代が始まるのだ」
エリュがゲ・ルイ島の森に着いたのは、夕方近くだった。ヘオルグの住む森への道の途中にある畑で一日の仕事を終えたアナティナが跳びかかって来た。
「エリュ! 二ヶ月も何をしていたの?」
「ご心配をおかけしました……」
エリュは農婦の反応に面食らってしまった。
「あの、ヘオルグ先生は?」
「元気がないけど、あなたを殴れば元気になると思うわ」
エリュは引きつった笑みを浮かべた。
「そう……ですよね」
エリュは農婦に礼を言い、森の中へ入って行った。みんなに心配をかけてしまった。エリュが振り返ると農婦は手を振ってくれていた。エリュも手を振り返した。
ヘオルグは部屋が暗くなっていくのに気がつき、ランプに火を灯した。ここ二ヶ月、エリュと初めて会った日のことを思い出す日々を送ってきた。子どものくせに甘えようとしないし、人のことばかり気にして自分を後回しにする小娘が、熱を出してやって来た日のことを。自分はもう、あのを自分の娘のように考えていたのだ。自分はかつては巫女だった。だから、そういった類の幸福など、あり得なかった。今までが自分にはあり得なかったのだ。それが元に戻るだけだ――。ヘオルグは両手で顔を隠した。彼女は両手の中で笑い声をこぼした。とてもエリュには見せられない表情だ。
ヘオルグは扉を叩く音で顔を上げた。またアナティナだろうか。あの農婦はエリュがラル・トル島に行ってしまってから、アナティナは「寂しいの?」と茶々を入れたり、励ましに来ることがあった。
「何だい、今日はやけに遅くに来て……」
ヘオルグが扉を開けると、そこには別の人物がいた。
「エリュ!」
ヘオルグは思わず出た笑みを咳で隠すと、エリュを拳で殴った。エリュは野に倒れ、頬を擦った。
「半月で帰ってくるって手紙に書いていたじゃないか! 一日は何日だと思っているんだい?」
「ご心配をかけてすみませんでした、ヘオルグ先生……」
ヘオルグは歯がゆさを覚えた。彼女はそっぽを向いた。
「一日は一日だよ。心配なんかしていないよ。何さ、人を見透かしたような口を聞いて――」
ヘオルグはエリュを見た。エリュは未だに頬を擦り、うつむいていた。
「ほら、足が折れたわけじゃあるまいし、立ち上がりな」
エリュは大人しく立ち上がった。ヘオルグは正装についた泥を払うと、肩に両手を置いた。
「おかえり。腹でも空いただろう。アナティナったら、一人になったっていうのに、野菜を送ってきてね。腐りかけているのもあるんだよ。たくさん食べておくれ」
エリュはその言葉で、お腹が相当減っていることに気がついた。彼女は腹を擦り、家の中へ入った。