ラル・トル島の嵐
ラル・トル島は、ラヴェ・エスタ国最高の霊名術の発展の地である。島の各地には、霊名術の研究者の町が立ち並び、王都には、ホージェン学院があり、才能と希望を持った若者は、この学院の門をくぐる。
希望に満ちた学童と共に、東西南北の島々から特産品を抱えた商人もやって来る。彼らは地方の島々の噂も運んでくる。
精霊使いホルクは、彼らの噂を聞くのが楽しみだった。王族出身のこの精霊使いは、顔見知りの商人もいる。彼らが品々と共に運んでくる話は興味をそそられる。
「ホルク殿下。あなたが興味を持つ話があるんだが?」
顔見知りの商人は、ホルクに笑みを浮かべながら言った。
「ほう? どんな話だ?」
「なんと、竜巻を大地の霊力で相殺した精霊使いの話だ。まず驚くべきなのは、まだ十六の娘のエリュっていう精霊使いでな、しかも精霊の名前を唱えずだぜ?」
ホルクの目が輝いた。
「エリュ? 精霊の名前を唱えずに竜巻を消しただって? もしや……君の船に乗せてもらえんかね?」
商人は快く受け入れ、ホルクはゲ・ルイ島行きの船に乗り込んだ。
その日は穏やかな晴天で、船は風に流れる雲のようにゲ・ルイ島の港に辿り着いた。ゲ・ルイ島の地に、秋晴れの中の曇りのように、その男はやってきた。二十代くらいの若者で、黒色の地に複雑な模様のあるマントを羽織り、その歩き方には優雅さを感じられる。男はヘオルグの家の戸を叩いた。家主が戸を開け、客人の顔を見ると、不安げな顔をした。
「ホルクじゃないか……いやあ、久し振りだねえ」
ホルクと呼ばれた若者は、片手を胸に当て、礼をした。
「ヘオルグ、あなたさまもお元気そうで。あなたの弟子が、竜巻を消したと噂になっていたよ。名前を唱えずに」
ヘオルグはホルクの言葉に身構えた。
「さあ、噂は尾ひれがつくからね」
「そうかもしれない。だが、煙が立つには、火種がなければ」
「根拠はあるのかい?」
ヘオルグはホルクが来たことに驚きもなく平静を保とうとした。ホルクは王族の中でも情報が速い。本人が来たところから見ると、まだ他の王族に伝わっていないとみて間違いないだろう。
「だからそれを知りにここまで来たんじゃないか。入れてくれないか?」
ヘオルグは拒めるわけがないことを十分理解していた。
「まあ、入っておくれ。無駄足になるだろうけどね」
家の中では、エリュは『自然界の調和』を読んでいた。
こちらのようすに気がついていないようだった。
「『自然界の調和』を読んでいるとは――わたしでも、たしか二十歳になってやっと読み始めたくらいなのに」
「あんたは勉強嫌いだからだよ。好奇心のうずいた研究には熱心なのに」
ホルクは苦笑した。
「エリュ」
エリュが本から目を離すと、初めてそこに客人がいるのに気がついた。彼女は目をぱちくりさせて、客人を見ていた。ホルクは、愛想の良い笑みを浮かべた。
ヘオルグは咳払いをすると、客人を紹介した。
「ホルク、あたしの弟子のエリュだよ。こちらはホルク。ホルクは、国王の甥なんだよ」
ヘオルグの紹介に、エリュは、慌てて椅子から立ち上がり、床に膝を折って礼をした。王族を迎える礼だ。ホルクは再び苦笑した。
「王位継承権を破棄した身だからそんなに堅苦しくしなくてもいい。現在は〈探求者の塔〉の研究者をしている」
〈探求者の塔〉といえば、王城の中にあるラヴェ・エスタ国最高の霊名術研究所だ。
ラヴェ・エスタ国各地にある研究所から発表される新しい霊名術が危険かを調査し、認可する役割を持つ。
ホルクは、家の隅を指差した。
「あそこに、何がいる?」
「さ、さあ――」
ホルクはがっかりしているようだった。
「そうか……これは困ったな」
ホルクが背嚢から取り出したのは、水晶球だった。ヘオルグは透明に見えたが、エリュには煙るような白色に見えた。中には風の精霊シルフがぼんやりと天を仰いでいた。
「これを砕かなくてはならないとは……」
ホルクは水晶を床に向けて打ち付けようと振り上げた――。
「だめ!」
エリュは思わずホルクの振り上げた手を押さえ、水晶を奪おうとやっきになった。ヘオルグは宝石に興味のないエリュが水晶を王族から奪おうとしている姿に度肝を抜かれた。
「なぜ?」
ホルクは腕を天に伸ばし、水晶に目を奪われたエリュから距離をとった。
「割っていけない理由を教えてくれないか?」
ホルクはエリュの目をのぞき込んだ。エリュは目を泳がせた。
「それは――」
「きみには視えているから。水晶の中にいる精霊が――」
ホルクはヘオルグに向き直った。
「ヘオルグ、このまま隠し通せると思っているのかい? 彼女の存在は、きみ一人で抱えられるものだとでも?」
ヘオルグは何も言わなかった。ホルクの言っていることは正しい。エリュは単なる霊名術の域を越えている。誓いを超えたつながりを持っている。
「だから〈探求者の塔〉に連れて行くと?」
エリュははっとヘオルグを見た。ホルクは大笑いした。
「人さらいみたいなことを言うなよ」
「それで? 霊名術と異なる何かだったら、エリュをどうするつもりだい?」
「これは間違いなく霊名術なんだ。ヴォテ・ノルエ・リンドという特別な目だ」
「ヴォテ?」
エリュの戸惑いに、ホルクは興奮を抑えきれないようすで答えた。
「〈知識を超えた目〉という意味だ。セルーナは精霊よりその目を授けられ、名前もなく、精霊の姿を見ることが出来たという。我々は単なる伝説につく誇張として相手にしなかったが……」
エリュは思わず疑問を口にした。
「霊名術はセルーナが生み出したんじゃないんですか?」
「いや、その前から原形というものは存在していた。だが、それの場合は精霊の意志が重要になり、今のように確実に呼び出せるわけじゃなかった。セルーナの誓いが立てられてから、人間が精霊を支配出来るようになったのだ」
精霊を支配する――。エリュはホルクの言葉に奇妙な違和感を覚えた。セルーナはあの霊たちの姿を見ていたはずなのに、なぜ誓いで縛るようなことをしたのだろう?
「エリュ?」
エリュは、ヘオルグに呼ばれ、現実に引き戻された。ホルクが、エリュに問いかけた。
「霊たちは生まれつき視えたのか?」
エリュは、いいえ、と言いかけて、口をつぐんだ。そういえば、幼い頃から自分は見えていたんじゃないだろうか? それを母さんに何度か言ったこともある。けれど、母さんは「視えるって言ってはいけないよ」と口止めしていた。わたしは生まれたときから見えていた。
「視えました」
「生まれつきか……セルーナとは違うな。だが、物心つく前か、或いは胎内のうちに与えられたのだとすれば――」
ホルクは微笑した。まるでさらに奥の感情を隠しているかのようにその微笑から考えは読み取れなかった。
「これはすぐ、ラル・トル島に行って調べて見なくてはな。ヘオルグ、ラル・トル島に帰らせてもらうよ」
「さっき来たばかりじゃないか。飯だけでも食べていったらどうだい?」
「実は王城から抜け出して来た」
ヘオルグは、呆れたようすで眉間を押さえた。
「子どもの頃から変わっていないね。王城を抜け出しては、街で変なものを見つけて……」
「三つ子の魂百まで、というではないか。いつも抜け出したわたしを見つけるのは君だった。今でもそれは変わらない」
「え? ヘオルグ先生は、王城に勤めていたんですか?」
エリュの問いに、ホルクはいぶかしげな顔をした。
「ヘオルグ、話していないのか? エリュ、彼女は第一巫女だったんだ」
「第一巫女!」
第一巫女といえば、ラヴェ・エスタ国最高の巫女であり、彼女ら三人の巫女の予言は政治に大きな影響を与える。エリュはヘオルグがひれ伏す王族に何か予言を言っているさまを思い浮かべ、思わず噴き出した。
「何がおかしいんだい?」
エリュは真顔になった。
「いいえ、何でも」
「まあ、今じゃ予感くらい弱いものだけどね。〈預言者の塔〉でなら、もっとはっきりと視えるのに」
「ホルク殿下は、街で何を見つけていたんですか?」
エリュの問いに、ヘオルグはにやついた。
「玩具だよ。風車とか、竹とんぼとか……」
「今思えば、下らないものばかりだったな」
「そういえば……」
ホルクは、太陽が沈むまでヘオルグと話をしていた。彼が帰ると、ヘオルグは部屋が暗くなっていることにやっと気がついたようだった。
ヘオルグは客人を思って微笑を浮かべた。
「まったくあいつは突然来る嵐みたいな奴だね」