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修行

 昼間は元素精霊の性質や霊名術の大家の理論を勉強し、夕方はその復習をするのが、彼女の日常となっていた。だが、夜中はヘオルグにも明かせない魔術を独りで学んでいた。

 エリュがその本を見つけたのは、墓参りに行ってから数日後の夜のことだった。寝台の下に、紐で縛り付けられていたその本は黒魔術の――文字術の――本だった。

 本には、手紙が挟まっていた。それはシェサーナからヘオルグ宛てのものだった。母さんの手紙――。好奇心が湧いたが、彼女は手紙を読まず脇に置き、本を開いた。

 それを開いたとき、その異様な紋章に彼女は釘付けになった。体内には四大元素を司る精霊が存在する。体内精霊は調和を保ちながら生命活動を行っている。通常この調和に手を加えようとすれば、生命そのものが危うくなる。だが、文字術の入れ墨は、体内精霊の力を最大限に使いながら、生命を通常の状態に保つことが出来る。すなわち両親が死んだあの夜の母さんように狂戦士と化することが出来る。

 なぜかエリュはその力に惹かれた。後に振り返れば〈吹雪の一族〉への復讐心が燃え上がっていたのかもしれない。ヘオルグに悪いと思いながらも、エリュは毎晩文字術の本を読みふけり、実際にネズミの身体に刻んだ。そのネズミの紋章を前脚で押さえさせると、赤く輝いて黒い鱗に包まれた獣と化し、目にもとまらぬ速さで姿を消した。それ以来、その姿を見ていない。彼女はそのとき好奇心も情熱も復讐心も冷め、これは恐ろしい魔術だと思った。やはり彼女の心は自然に宿る精霊に奪われ、離れなかった。自然の中に満ち溢れる精霊たちを見ていると、エリュは満ち足りた気持ちになるのだった。

 エリュが霊名術を習い始めてから半年、初めての実践を行う日がやって来た。実際に精霊を呼び出すのだ。エリュはそれが楽しみで、復習が終わるとすぐに布団に入ったが、なかなか眠りにつけなかった。

 精霊と話すことは出来るのだろうか? 地の精霊は彫刻をどのように思っているのだろう? 水の精霊はどんな心地で海を漂っているのだろう? 火の精霊は暖炉の中でどのような気持ちで輝いているのだろう? 風の精霊は世界をどんな気持ちで巡っているのだろう? 見えていたのに話せなかった精霊に今日は話せると思うと、彼女はいつしかまどろみを覚えた。

 眠っていたエリュは突然揺すられ、目を開けた。目の前には火が不気味な影を作る魔物の顔があった。

 エリュは一気に眠気が覚め、悲鳴を上げて自らの身を守るように枕を抱きかかえた。目を凝らしてみると、それはランプの火に照らされたヘオルグの顔だった。

「何を驚いているんだい?」

 エリュは、「夜中に蒼白い魔物が襲ってきた」とは言えず、首を横に振った。

「えっと、その……いいえ、なんでもないです」

 ヘオルグは肩をすくめた。

「修業を始めるよ」

 エリュは、青色の外套を纏うと、ヘオルグに手を引かれ、森の中に入った。

「なぜ、真夜中なんですか?」

「それはね、真夜中は特に自然霊たちが現れやすい時間帯なんだよ。だから、霊名術の修業は、特に真夜中がいい」

 森の開けたところに来ると、エリュは目を眩ませた。光の玉みたいなものが、漂っている。エリュは目を輝かせて森を見た。そこは町のようだった。木々に背を任せる老人や踊り回る女性、木々の中を駆け巡るトカゲ――。しかしヘオルグは精霊が見えていないらしく、森の暗がりを手探りしていた。

「まず、霊と一つになるんだよ。これは巫女の術の一つだが……」

「霊と一つになる?」

「精霊使いも、その技術は必要なんだよ。名前を呼ぶことによって存在に気づき、自らの神経に取り込む。そして元素の力を放出する。これが霊名術の基本だよ。まあ、最初は補助として鏡を使うんだけどね」

 エリュは円形のものを首にかけられた。エリュが覗き込むと、それは鏡だった。

「この鏡は、いわば身体に入る道のようなものさ」

 鏡に映るエリュの顔が、不安げなものになった。

「身体が奪われることはないんですか?」

「あり得ないね。精霊には魂がないんだ。意志がないから、身体を乗っ取ろうとも思わない。いいかい、今、地の精霊の力が満ちている。地の精霊の名前はノームだ。後は、我はそなたの存在を認める。わが身に入れ、というんだよ」

 ヘオルグが地の精霊の名前を唱えると、大地から緑色の霧が噴きだした。エリュには、土の中から老人が現れたように視えた。

「あんたも唱えるんだよ」

 老人の姿はんでいき、消えていった。エリュは精霊を呼び出すのは初めてだった。怖くもあったが、好奇心がうずいていた。

「ノーム、我はそなたの存在を認める。わが身に入れ!」

 大地から鏡へ、自分とは異質のものが入っていくのが分かった。不思議な感覚だった。意識がありながら感覚がない。自分が無になったような感覚。やがて、残っていた意識が遠のいていく。エリュは大地に倒れ込んでいくのを感じた。

 目の前には先ほど見た老人がいる。身体がかすかに輝いている。単なる老人じゃない。地の精霊ノームだ。周りは洞窟だ。これは夢だ。いつも視てきた精霊が目の前で自分を見ている。そう思うと、訊きたいことがたくさん思い浮かんだ。

「ねえ、あなたは――」

 老人は悲しげで、何かを呟いていた。だけど、聞き取れない。エリュは近づくが、ノームは離れていった。

「聞こえないよ。教えて、何を伝えたいの?」

 だが、老人の姿は霞み、エリュは吐き気にも似た感覚を覚えた。突き放されたような衝撃を受け、気がつけば、森の中で横になっていた。

「精霊は勝手に抜け出したようだね」

 エリュはふらつく足を立たせると、ヘオルグに訴えた。

「もう一度……呼び出しましょう。こんどはもっと強く、抜け出せないように……」

 エリュは頬に鈍い痛みと共に、倒れ込んだ。ヘオルグの手が、エリュの胸ぐらをつかんだ。

「いいかい、精霊を扱う者としてこれだけは覚えておくれ。精霊は尊敬すべき存在であって、見下す存在じゃないんだよ。人間の都合に合わせて動くことを強要するなら、あんたは最低の精霊使いになる。自らの力が自然から与えられていることを忘れた精霊使いは、自滅しか道がないんだ」

 頬が痛みで、じんじんする。しかし、エリュは痛み以上に、優しかった師匠が目をぎらつかせながら怒っていることに驚いていた。同時に精霊を自由に操ろうとしていた自分の愚かさに恥ずかしさを感じていた。

「ごめんなさい……」

 エリュはやっとのことで言葉を絞り出すと、ヘオルグは手を離した。

「――まあ、何となく精霊の存在が分かっただろう? 人間と異質な感じ、とでもいうかね? 帰ろうじゃないか」

 ヘオルグは、エリュの手を引いて、帰路を辿った。母さんは自由に精霊を操っているように見えた。けど、精霊を体内に入れて初めて分かった。精霊は、人間以上の力がある。尊敬なくして、精霊は一つになってくれないのだ。

 精霊以上の存在になって縛りつけるのでは、だめなんだ。それでは、喰らい合う獣と変わらない。もっと近づくには、精霊を制しようとするのではなく、精霊と一つになろうという態度が必要なんだ。

 日の出に目を眩ませながら、エリュはそんなことを考えていた。


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