夜来香
文化祭の前日。窓際に腰掛けながら最後の準備に勤しむ俺。いつの間にか日が沈んだのにも気が付かないまま作業に没頭していた俺は、疲れたのか妙なものを見てしまった。
それはチャイナドレスを身にまとったアイツの影。ていうかアイツそのもの。黒髪の前髪をパッツンにして、漫画に出てくる中華美人みたいに頭にこぶを二つ作って。濃い目の赤い口紅が少しばかり妖艶で。
いや、でもまさか。そのチャイナドレスを着るのは彼女ではなくヒロイン役の部長だ。そもそも彼女はこのメンバーには入っていない。一体どこで。何のために。
「似合う?」
香水でもつけたのか、ナイトジャスミンの強く甘い香りがどこからか漂ってきたような気がする。
「ねぇ、似合うの似合わないの?」
「似合うけど……」
部室の外から窓越しに身を乗り出してくる彼女。
「そう?」
最後にニヤけつつ顔を窓枠から外した彼女。伸びすぎた芝生が蹴られる音。夜風が吹いている。
「どうしても貸してって言うから、貸してあげたの」
背後から急に部長の声。驚いて振り向くと、部長はやれやれといった表情で俺を見下ろしていた。
「あの子、演技はお世辞にも上手いとはいえないけれど、でもチャイナドレスだけはすっごく似合うのよねぇ。なんか自分でもあの衣装気に入っちゃってるらしくて。今回は3年生の最後の舞台だからって君たち2年生を出してあげられなかったけど、来年もこの劇、もっとパワーアップさせてね。ヒロインだってもう決定してるんだし」
「ヒロインって」
「決まってるじゃない、あの子よ。それ以外にあのチャイナドレス似合う人、いる?」
たしかにそう言われるとアイツ以外に似合う人はいないような気がする。黒髪で、二重だけどそんなに自己主張しない薄い顔。そのライチのような白い肌に薄く化粧をすると、それはまるで典型的なアジア美人。少しパーマを当てれば戦前の上海にいそうな美女になりそうだが、それは本人が嫌がりそうなのでやめておく。うん、たしかに悪くない。というより、良い。
でもなんでこんな時に。明日が本番でみんな明日のことだけ考えている、この時間に。なぜ現れたのだろう。
「なんかすみません。って俺が謝るのも変ですけど」
「いいのいいの。なんか世代交代って感じがしない? あたしだってまだまだ負けてないって思ってるけど、やっぱりあの子には叶わないなぁ」
俺はいやいや、と心のこもっていない言葉を返すのに精一杯だった。
それはそうと、アイツ、どこに行ったのだろう。もう帰ったのだろうか。せっかくだから写真でも撮りたかった。新旧ヒロインで、とか言ったら部長がそろそろ怒りそうなのでそれは胸に閉まっておく。
「アイツ、何がしたかったんですかね。俺に似合うか、なんて聞いて。どうしたかったんですかね」
「えっ? もしかして気付いてないの?」
「え?」
「決まってるじゃない。あの子がヒロインなら、もう一人大事なのは誰なのよ」
「えっ」
えっ、まさか……。
「あの子、”夜来香”の歌詞、必死に覚えてたわよ? 特に最後のほう。聴いてあげなよ。あの子の歌」
ははは、とまたも心のこもっていない言葉で返すしかない俺。
と、そのときだった。どこからともなくか細い歌声が聞こえてきた。夜来香。きっとアイツの歌声だ。やはりお世辞にも上手いとはいえない歌。ビブラートなんかゼロに等しい。でも、それでも丁寧に心を込めているのが素人でも分かる。
「中庭かしら。誰のために歌ってるのかしらね」
部長の微笑みには圧力が込められている。まだ作業も残っているし、早く片付けて明日のためにももう眠りたい。正直そんな気持ちのほうが先行していたが、目をつぶるとさっきの窓からちょこんと顔を出したアイツの顔が浮かんできて。気づいたら中庭の方まで走っていた。
中庭に着いたはいいが、歌はもう終わっていたし、アイツの姿もそこにはなかった。
しばらく探したが、ただ夜風が吹いているだけで何も無い。と思ったが、ナイトジャスミンのあの香水の香りが風にのってやってきた。もうあと数秒でアイツが目の前に現れると思うと、妙に緊張してきた。心のなかでカウントダウンが始まる。足音が聞こえてくる。そして。
現れたのは、制服姿のアイツだった。期待は裏切られた。
「お、休憩?」
「おおおお前の歌聴きにきてやったのに。もう終わりかよ」
きょとんとしている彼女。こんな間抜け面からあんな妖艶な美女に変身するなんて、女というのは恐ろしい。自動販売機の明かりに照らされた彼女はどこか違和感がある。というのも、普段は絶対にしないような濃いめのメイクを残したまま制服に着替えているせいで、中華美女がセーラー服を着ているように見えて、時代錯誤というか全然合わない。なんだか笑いもこみ上げてくるし。
「何笑ってんのよ」
「そのメイクに制服は無いわぁ」
「え、まじ? 変?」
「変変。はよ着替えてき」
「え、メイクのほうじゃなくて?」
「うん。俺、もう一回お前のチャイナドレス姿観たい。んで、歌ってるのとか写真に撮りたい」
「ん。了解」
再び闇の中へと消えていく彼女。内心ワクワクしているが、できるだけ表情には出さないように顔に力を入れる。力を抜くと、今にも俺も間抜け面になってしまいそうで。
数分くらいたって、また足音が聞こえてきた。さてさて、やっと見られる。そう思った矢先、またも期待を裏切られた。
「えっ」
「おまた。メイク落としてきたよ」
「いや、メイクじゃなくて衣装の方って言ったじゃん」
「いやぁ、まぁ……」
「まぁじゃなくって」
しばらくだんまりを決め込まれた。こうしてる間にも俺の睡眠時間は削られる。不意にあくびが出た。もうそれを我慢しようとも思えないほど眠たい。
「もう、眠い?」
「うん。もう眠い。寝よっかな。おやすみ」
さすがに限界。頭も回らない。腕を伸ばした後そのまま手をポケットに突っ込んだその時。
「ちょっとまって!」
アイツの声が後ろの方から聞こえてきた。
「ウチ、来年絶対ステージ立つけん! んで、その時になったらウチの衣装姿見て欲しいんよ! 今はまだまだじゃけ、いっぱい練習するけん! そしたら、そしたらね、あの……」
「はいはい、じゃあ来年の舞台を楽しみに待ってまぁす。おやすみぃ」
あくびまじりにそうアイツに言い残して、そのまま部室に帰り、そのまま倒れるようにして寝た。
次の日。やっと事の重大さを身にしみて感じたのは、部員一人一人からのやけに丁寧なニタニタ顔の挨拶を受けた時だった。