第三幕 ギタリストの過去
駅の中に入り壁にかけられた時計を見ると、五時になったばかりだった。
よかった。まだ、間に合う。僕は胸をなでおろした。僕が時間まで少し休もうと、空いている椅子を探していると、後ろの方から声をかけられた。
「やあ、バージナル。今日もギターのおけいこかい?」
駅員のおじさんがいつものように話しかけてきた。
僕達はいつも色々な話をする。二時間に一回しか電車が来ない田舎の駅だから、駅員さんも乗客も暇なんだ。待ちくたびれて寝てしまった人もいる。その点、僕達は幸せだ。
「おじさん、ギターじゃなくてヴァイオリンだよ。いつも言っているじゃないか」
僕は少し口を尖らせて言った。
「悪い、悪い。昔、ギターを習ってたことがあってな。つい、間違えちゃうんだよ」
おじさんは、照れたように少し白くなりかけた頭をかいた。
「おじさん、ギター習ってたの? いつ? 子供の頃に習っていたの?」
「ああ。おれの父親の話はしたか?」
僕は軽く頭を左右に揺らしながら、おじさんのお父さんの話を思い出そうと頑張った。「うん、うん。聞いたよ。とっても厳しくて……。でも、歌は上手いんだよね。だから、コンサートによく連れていってもらったって」
本当は、おじさんに聞いたときはもっと色んなことを教えてもらった気がしたのに。なんだか、半分も覚えてないような気がして、悲しくなった。
「そう、父さんはプロの歌手だったんだ。沢山の人が父さんの歌を聞きにやってくるんだ。すごく、うれしかったな。ステージの上の父さんに向かって、いっぱいの人が拍手するんだ。すると、いつも鬼みたいな顔して怒ってるくせに、その時だけは顔中くしゃくしゃにして笑うんだ。その時だけは、くやしいけど父さんがかっこよかったな」
「それで、ギター始めたの?」
「ああ。ほとんど、父さんに無理やり習いに行かされた感じだったけどな。父さんみたいになりたいって思ってたのも少しあった」 僕は少しうらやましかった。そんな理由、今、僕には無かった。ただ、コンク-ルとか発表会に向けて、理由も分からないで機械の様に連習してるだけ。ママも意味も無く、『練習しなさい』って言ってる気がする。でも、最初からそんなんじゃ無かったはずだ。
いつからなんだろう?
こんなに、ヴァイオリンが好きだった頃の思い出も、何もかも忘れてしまうくらいに、辛くなったのは。
「でも、無理だった。父さんみたいには、なれなかった」
僕はおじさんがまた話しはじめたので、すぐに、垂れてしまった頭を上げた。
「一回だけ。お前と同じ位の歳の頃だったと思う。町にサーカスがやって来たんだ。友達と一緒に行こうって約束までしてた。でも、父さんはそういうものは嫌いだった。動物が出てきて芸を見せるとかそういうのは、野蛮だって言うんだ。そんな暇が有るなら、ギターの練習でもしてろ、ってさ。
『父さんが無理やりやらせてるんだろ! もう、やめるよ』
嘘だった。確かに時々、自分の才能の無さが嫌になった。でも、そんなこと、これっぽっちも思ってなかった。その一回で終わったよ」
「終わった?」
僕は話の裏に、どんな事が隠されていたのか、考えもつかなかった。
「しばらく、父さんは何も言わなかった。でも、俺にむかって言った。
『悪かった』
それだけ言った。しばらくは本当にギターをさわらなくなった。でも、無性に弾きたくなってな。探した。でももう、ギターはおれの前から消えてたんだ」
「消えた? お父さんが持っていっちゃったのかな」
「……かもな」
おじさんは今どんな気持ちでいるのだろう。どうして、僕にこんなことまで話すのだろう。わからなかった。だけど、胸が締めつけられた。僕も本当は昨日、言っちゃったんだ、ママに。もうやだ、やりたくないって。ママは少し悲しそうだった。今日このまま帰ったら、またそんな顔をされそうな気がした。だから、僕は駅で乗りたくもない電車を待っている。
なんて、僕はずるいんだろう。
突然、電車が駅に入って来る音がして、電車を待つ人が一斉に顔を上げた。僕達もそれに続いた。
「少年、電車がお迎えに来たぞ。ほら、行ってこい」
おじさん、僕に迎えなんか来ないよ。だって、やめるって言っちゃったもの。そう言いたかった。
「う、うん」
「なんだ、今日はあんまりやる気ないのか?でも、俺みたいにやめちゃ、駄目だ。好きなんだろ、それ? ……ヴァイオリンだよな、うん」
自分の言ってることに自分で納得しているのが可笑しかった。でも、「うん」とは言えなかった。電車に乗り込んでシートに座っても、おじさんは窓の外から手を振っていた。僕も負けないくらい大きく、腕を振る。しばらくして、電車は走り出した。