命の洗濯
今日は、四十代の女二人で計画した日帰り温泉旅行。目的地は、市街地から車で四十分ほどの温泉街だった。
数日前から天気はぐずついていたが、幸い、今日は秋晴れだった。空は高く、窓から差し込む日差しも暖かく、心地よい。街路樹の葉も色づき始め、車が山あいへと進むにつれて、景色は少しずつ秋の色を濃くしていく。待ち合わせ場所で顔を合わせてから、機嫌良く世間話に花を咲かせていた二人だったが、市街地を抜けて住宅もまばらになり、街道沿いに木々が生い茂ってきたところで、助手席の美香が前方を見据えながら突如として叫んだ。
「ああああっ! うもぅ、本当にやってらんないっ!」
「今日はいつもよりおとなしいと思っていたのに、いきなり何?」
運転席の由紀が、笑いを含んだ声で尋ねる。すると、何やら不愉快なことを思い出したのか、美香がまくし立てた。
「だって、こっちは朝から晩まで集中して仕事をしてるってのに、あの主任ったら、自分の仕事を私に押しつけておいて、帰り際に『明日までによろしく』ですって。よろしくじゃないわよ、あの野郎! 自分でやりなさいよ!」
「ああ、以前にも話を聞いたけど、またなの?」
「またよ! しかも、私が断らないのをいいことに、どんどん仕事を増やしてくるのよ! ふざけんな!」
電話で話したときよりも、相当ストレスが溜まっているわね。そう思いながら、由紀は穏やかな口調で宥めた。
「分かる、分かる。うちも似たようなものよ。使えると思うと、どんどん任せてくるのよね。使えない人間に仕事を回して、それがこなせなかったら、自分が尻拭いしないといけないから」
「ほんと、それよね! 使えない人間を使えるように差配するのが、管理職の仕事じゃないわけ!?」
「まあ、使えない一般社員に相応しい、使えない管理職ってことじゃないの? 酷かったら人事に相談するか、転職活動すれば?」
運転中のため、由紀は前方に視線を向けたまま含み笑いで提案した。そこで美香が、思わず運転席に視線を向けながら、意外そうに尋ねる。
「……由紀、あんた随分辛辣な物言いをするようになったわね。最近、何かあった?」
「別に何も? とりあえずいい季節のいい天気だから、気持ちを切り替えて一日楽しまないと損じゃない?」
そう言われた美香は、改めて窓越しに外の景色を眺めた。街道は既に山を切り崩して作られた場所を抜け、温泉街から流れている川沿いに走っていた。
「そうだったわね。せっかく出向いたのに、愚痴ばっかり言って気分を台無しにしていたら勿体ないわね」
美香が自分自身に言い聞かせるように口にすると、由紀が笑みを深めた。
「そうよ。のんびりしましょう。紅葉を見るなら今しかないしね」
「うん。平日休みは、もう無理だわ」
「土日だと、さすがに渋滞するから、よけいに疲れそうだものね」
そこで二人は苦笑いし、楽しげに会話を再開した。
車は温泉街に到達したがそのまま通過し、更に十五分ほど山道を走って駐車場に停まった。外に出ると、さすがにひんやりとした秋の空気が、二人の頬を撫でる。周囲を見回すと、山の木々は赤や黄色に染まり、ところどころに残る緑が鮮やかな色彩を添えていた。そこから案内表示に従って、二人は足元に注意しながら傾斜のある道や階段を歩き始める。
「うん、綺麗だね」
「やっぱり写真で見るより、直に見たいわね」
二人はスマートフォンを取り出し、紅葉を背景に何枚も写真を撮り始めた。遊歩道を慎重に歩いていくと、やがて木々の向こうから水の音が聞こえてくる。さらに進むと、視界が開け、落差のある大きな滝が姿を現した。
大量の水が岩肌を勢いよく流れ落ち、豪快に白い水しぶきを上げる。その周囲を紅葉が彩っており、初夏の若葉の頃とはまた違う趣だった。その滝をしみじみと眺めながら、美香が独り言のように呟く。
「すごい迫力ねえ」
「自然って、やっぱりいいわね。人間関係の面倒くささなんて、見ているだけでどうでもよくなるわ」
「そうね。流せるものなら、あの滝に鬱憤を全部流してもらいたいなぁ」
それを聞いた由紀は、笑顔で言い出した。
「じゃあ、叫んでみたら?」
「え?」
「どうせ知り合いなんかいないし、聞かれたって多少変な顔をされるくらいよ」
「そんな無責任なことを」
美香は若干ためらうそぶりを見せたものの、すぐに大きく息を吸い込んで滝に向かって叫んだ。
「勝手に人の仕事を増やすな――――っ!!」
そして一拍遅れて、由紀が声を張り上げた。
「ふざけんなよ!? ばっか野郎――――っ!!」
突如として女二人が大声で叫んだことで、周囲にいた数人の観光客がギョッとしたように振り返った。しかし、当の二人は顔を見合わせて大笑いした。
「私たち、何やってるのよ。というか、なにげに由紀のほうがストレス溜めてない?」
「実はそうかも。叫んだら、結構すっきりしたわ」
ひとしきり笑ったあと、二人は滝を眺めながらしばらく静かな時間を過ごした。何かと時間に追われている日常を忘れ、ぼんやりと景色を眺めるだけの時間を堪能してから、二人は駐車場に戻った。
来た道を引き返し、温泉街に戻る。そこの旅館の一つに、日帰り入浴と昼食のセットを二人は予約していた。そこの駐車場に車を停め、二人は館内に入って受付を済ませる。そして、館内着やタオルのセットを受け取って、早速浴場へと向かった。
広々とした複数の湯船や露天風呂など、それだけで非日常である。温泉に肩まで身を沈めると、身体の芯までじんわりと温まっていき、日々の疲れも容易に解れていくような心地がした。
「ああ……もう、これだけで極楽なんだけど」
美香は思わず声を漏らした。
露天風呂の竹塀の向こうには、赤く染まった山と澄み切った空が広がっていた。頬に当たる風は少し冷たいが、それがまた心地よく感じる。
いつもの家での入浴では、明日の仕事のことや家のこと、やらなければならないことが次々と頭に浮かんでくる。しかし、今だけは何も考えたくなかった。そして、考えなかったことで、美香はそれだけで贅沢な気分になれた。
時間を見計らって入浴を終え、休憩スペースで由紀と合流すると、彼女もすっかり満足した顔をしていた。
「どうだった?」
「最高。もう一回入りたいくらい」
「分かるけど、そろそろ部屋に行かないと。食事を準備してくれるから」
「そうね。時間があったら、食後にもう一回入ろうね」
笑顔で言葉を交わしながら、二人は時間制の客室に向かった。
「お待たせしました。時間まで、どうぞごゆっくりお過ごしください」
預かっていた鍵で室内に入り、フロントに連絡すると、それほど待たされずに仲居が二人分の食事を運んできた。大きなお盆に幾つもの皿や小鉢が載せられており、見た目にも華やかで二人の食欲をそそる。最後に小さめのおひつから二人分のご飯をよそった仲居は、恭しく一礼して退出していった。
「うわぁ、美味しそう! 自分で準備しないだけで嬉しいけど、種類が多いと余計に嬉しいよね!」
「そうそう。それに、こういう食事だと、普段自分で作らないような料理が食べられるし」
「『作らない』じゃなくて、『作れない』じゃないの?」
「それはお互い様よね?」
「その通り! それじゃあ、いただきます!」
「いただきます。やっぱりこういうところに来るなら、ちょっと予算が張っても美味しいものを食べたいわ」
「同感」
二人は満面の笑みで食べ進め、完食して食後のお茶を飲みながらしみじみと語り合った。
「お腹いっぱい。由紀、ちょっと横になってもいい? 畳の部屋が久しぶりだし」
「もちろん、構わないわよ。時間いっぱいまでここでゴロゴロして、その後、もう一回お風呂に入って温まってから出ましょう」
「うん、そうしよう」
そのまま二人はしばらく部屋で休憩し、その後、予定通りもう一度入浴してから旅館を後にした。
二人は最後に、温泉街からの帰り道の途中にある万華鏡美術館に立ち寄ることにしていた。以前に来たことがある由紀は、流れるように駐車場に車を入れ、二人で降り立つ。
「美香って、ここに来たことがないって言ってたでしょう?」
「うん。この前の道路を車で通ったことはあるけど」
「結構面白いから、見ていって。作品も売ってるし」
「万華鏡って、子供の頃に持っていた気がする。覗くと綺麗な模様が見えるやつでしょ? 久しぶりだから楽しみ」
その館内には、大小さまざまな万華鏡が展示されていた。年代ごとの作品が展示され、昔ながらの筒状のものから芸術作品のような美しいものまで、その形状も種類も実に多彩だった。
「わあ、これ見て!」
美香が、実際に見られる展示品の一つを覗き込む。覗き穴の向こうには、色とりどりのガラスや模様が映り込み、少し動かすたびに目まぐるしく形を変えていった。赤や青、金色の光が幾重にも重なり、まるで小さな宇宙を覗いているように見える。封入されている素材はガラスやビーズだけではなく、金属片、貝殻、羽毛など多種にわたっていた。緩衝材として粘度のある液体が封入された作品もあり、それぞれが独特の表情を見せていた。
「きれいねえ。ずっと見ていられそう」
「こっちはどう?」
由紀も別の万華鏡を覗き込む。
「すごい! さっきのとは全然違うわ」
「同じ万華鏡でも、こんなに違うのね」
二人は次々と展示品を覗いては、楽しげに感想を言い合った。
「こういうの、欲しいなあ。下のミュージアムショップで、同じようなのを売ってるよね? 家に置いておいて、嫌なことがあったときに眺めようかな」
「そうね。値段はピンキリだけど、買う前に実際の物を見せてくれるだろうし。じっくり選んだら?」
「うん、そうしよう。上司の顔を思い出したら、これを覗くことにするわ」
「そんな使い方をされると、ちょっと万華鏡がかわいそうかも……」
そこで二人は、思わず笑ってしまった。しかし、万華鏡を覗き込んでいるうちに、ふと美香は考えた。
ほんの少し筒を回すだけで、さっきまで見えていた模様が消え、新しい模様が生まれる。どれ一つとして同じものはなく、同じ景色であっても、見る角度が変わればまるで違う世界になってしまう。
そこで美香は、思わず思ったことを口にした。
「ねえ、由紀。私たちもちょっと見方を変えたら、もう少し楽に生きられるのかな?」
いきなり何を言い出すのかと、由紀は思った。しかし、少し考えてから答える。
「そうかもしれないけど、無理に変える必要はないんじゃない?」
「え?」
「嫌なものは嫌だし、腹が立つものは腹が立つんだから。何でも前向きに考えなきゃいけないなんて、そんなの余計に疲れる場合だってあると思う」
「それは、まあ……確かに」
「今日を楽しむ。とりあえず、それでいいじゃない」
美香は見下ろしていた万華鏡から視線を動かし、友人の顔を見た。
「そうね。今日は楽しむ日だものね」
「そうそう。余計なことは、極力考えないこと」
そこで笑い合った二人は、展示を全て見てからミュージアムショップに移動した。そこで美香は悩みながらも一つを選び、購入した万華鏡を鞄に入れ、ほくほく顔で車に乗り込んだ。そして二人の休日は、終わりに近づいていた。
特別なことをしたわけではない。それでも、誰かに気を遣うこともなく遠慮なく愚痴をこぼし、くだらないことで笑い合える時間は、何物にも代えがたいものだった。
四十代。若い頃のように無理が利かないし、何かと背負うものも増えている。自分のことだけを考えていればよかった時代は、あっという間に過ぎていた。
それでも、たまには自分を甘やかしてもいい。誰かのためではなく、自分のためだけに時間を使ってもいい。美香は、そんなことを再認識していた。
「ねえ、次はいつ行けるかな」
助手席の美香が尋ねると、運転席の由紀が即答した。
「そうねえ。来月あたり?」
「早すぎない? それに平日休みは無理かも」
「それなら、土日でもいいじゃない。楽しみは多いほうがいいでしょう」
「それもそうね」
車は殺風景な街道から、徐々に夕暮れの街へと向かっていく。
明日になれば、またいつもの日常が幕を開ける。
「あぁ、また明日は仕事かぁ」
「まあ、何とかなるわよね」
「何とかするしかないでしょ」
「それもそうね」
女二人の小さな休日は、こうして幕を閉じた。そして、次の楽しみを胸に、明日からまた、彼女たちはそれぞれの日常を過ごしていくのだった。




