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第三夢十夜 両手を振り回しながら接近して来る男(第二十八夜)

作者: 前田雅峰
掲載日:2026/08/05

※ 各著作をKindleで電子出版しています。 https://www.amazon.co.jp/s?k=前田雅峰&i=stripbooks&dc

 私はいつもと何も変わらず普通に家に帰って来るところだった。私の家の前の細い道は未だ舗装されてはおらず、古き良き昭和の雰囲気そのままの土道である。雨の日など結構靴が汚れるが、夏の激烈な暑さの候水撒きしておくと土が水を吸って暫く涼しさが続くのが良い。それに小石の窪みに溜る撒水を揚羽蝶やバッタが飲みにやって来るのを眺めているのも楽しい。これが若しもアスファルトだったら照り返しだけで私は死んで仕舞うのではないかと想像する。その土道を私は南側から我が家に向かって近付いて来たのである。

 家の前の土道はまだ北に向かって延びており、その先を舗装された大きな国道が直角に横切っているという構図だ。国道から我が家の玄関までは少し距離がある。だが要するに私の家にはこの土道を通って北からでも南からでも辿り着く事が出来る。

 私が我が家の玄関にかなり近付いた時の事だ。私は何気無く顔を上げて国道の方を見た。別に何かの物音がした訳ではない。本当に何の意味も無く無意識無目的に視線を移しただけだった。すると私の目には一人の人間が映った。土道が終わり国道の車道の縁の歩道の位置だが、其処(そこ)に一人の人間が立っている姿が見えた。此方(こちら)を向いているのか国道側を向いているのかまでは判らなかった。その人物は両の肘を自分の脇腹詰まり腰の少し上の部分に付け、肘から先を側方に向かって上下させる様な動きを見せたのである。

 最初はゆっくりだった。そんなにおかしな動きだとは思わなかった。両方の肘で左右脇腹の痒い部分を押しながら掻いている様にも見えた。それくらい動きが悠長だったのだ。しかしそれは二秒も経たぬ間に人間の動作とは思われぬ程の速度となった。丁度昆虫が全力で急発進の退避行動をとって羽を羽搏(はばた)かせる様な感じで、直ぐ近くに居たら風圧さえも感じる程ではないかと思われる程に高速に動作させ始めたのである。

 既に私は、

「あれは一体何なのだろう?」

という心の在り方ではなくなっていた。無理も無い事だ。次の瞬間私にとって最悪の事態に至らないという保証はどこにも無いのだから。私は全速でポケットから私の家の鍵を取り出した。だが私のズボンのポケットの鍵束を入れていた側の底は破れていて、鍵束は引っ掛かってポケットの外に出て来ない。

 ここで私は本気になった。ズボンをポケットごと引き千切る心算(つもり)で鍵束を取り出し、ちらと国道の方に目をやった。私は仰天した。そして瞬時に万に一つもあってはくれるなという最悪の事態が私に迫っている事を認識した。その男は――それは矢張男だったのだが――全速で此方(こちら)に向かって突進して来ていたのである。もう振る速度が早過ぎて腕が見えない。丁度高速回転するプロペラの羽の一枚一枚が肉眼で捉えられない様に、肘から先の部分が見えない。あれは人間の動きではない。詰まりあれは人の形はしているが明白に人間ではないのだ。

 私はその恐ろしいものが此方(こちら)に向かって全速前進して来る事を何故か、そちらの方を向く前に予感していたらしい。そうなのだ。人為の及ばぬ、純粋に運命を天に預けなければならない、天祐を期待する外無い場面で、事態が私にとって好都合に動いた事など私が生まれてこの方一度だってありはしない。それは不思議な程私にとって最悪のケースに直結するに決まっていた。しかしだからといってこれは無いだろう。こんなもの、絶対に想像だにする事は出来ない。従って心の準備だって出来はしない。これと同じだけ突飛なものを私は自分の記憶から到底呼び出す事が出来ない。あんまりだ、酷過ぎる。だがそんな事に文句を言っている場合ではない。今は寸刻を争う。何が何でもあれが私の眼前にやって来る前に家の中に飛び込んで戸に鍵をかけて仕舞わなければならない。あんなもの、家の中に入って来られたら流石(さすが)の私でも如何(どう)する事も出来ない。

 私は取り出した鍵を家の戸の鍵穴に差し込んだ。これは正直意外な程すんなりと、手元も狂わず差し込む事が出来た。私は驚いた程だ。鍵を回す動作に比べたら差し込む方が圧倒的に難しいというのに。この緊迫した状況で私にそれが出来た事は奇跡に近い。しかしまだ油断してはならない。あの速度であれが近付いて来るならば、今あれは国道とこの家とのほぼ中間地点に位置しているに違い無い。だから遅滞無く鍵を廻し戸を開けなければならない。と、その瞬間私は思った。

「加速しているかも知れない」

 そんな想像が頭に浮かんだ。私は既に鍵を半周廻していたが、その意識が頭を掠めた瞬間手に力を込め過ぎた。鍵を摘まんでいる指先は勢いあまって滑って仕舞った。急がねば。だがそれよりもここで焦って取り乱したら最後だ。絶対に目的は達成出来ない。その瞬間、背後の近い場所に私は土道の砂利を激しく蹴る音を聞いた。

 私はこの瞬間でもなお落ち着く事に専念出来た。動顛してはいなかったと信ずる。人間本当に勝負の瞬間になると火事場の糞力ではないが、普段自分の底の方に沈んでいて全くその神通力を顕してくれないものが協力してくれるのではないかと、刹那私はそんな事を思った。

 私は鍵を回し終えた。私は全力で横開きの戸を開けた。そして瞬時に家の中に入った。しかしここからが重要だ。戸を横に開けるのは力任せでいい。しかし閉める時にそれをやったら戸の硝子が割れて仕舞う。そんな事になったらそれは最早戸が無いのと何も違わない事になる。私はそこまで意識していた。私の頭脳はこののっぴきならない、進退窮まった瞬間にあっても冷静に動作していたと思う。私は左手で戸を掴みスライドさせて閉めにかかった。右手に持ったままの鍵は家の土間に捨て、押し下げて戸をロックする方式のスライダーに既に指先を載せていた。戸を閉める事を完了した後十分の二、三秒で戸は施錠出来る。十分の一秒と(いえど)も無駄にしてはいない。が、その瞬間私は奇妙な音を耳にした。

「ぶーん」

 それは何か飛行機のプロペラの回転音の様な響きだった。そして瞬時に私はその音の正体を知った。まだ見てはいないが間違い無い、これはあれが身体の横で振っている肘から先の腕の音だ。それが(くう)を切る音なのだ。それしかない。それしか考えられない。しかし……一体それは何という現象なのか。飛行機や空調の室外機のプロペラは回転している。動きに切れ目が無い。だから比較的緩い動作の段階からああやって(くう)を切る音がするのは理解出来る。しかしあれは肘から先の腕を上下に動作させているのだ。ガソリンエンジンのピストンの様に上死点と下死点がある。それにも拘わらずあの音が出るというのは本当に並大抵の速さではない。そうだ、大きな蜂や虻の羽と同じ要領の動きなのだ。そんな事が、本当にそんな事が……。

 私が戸をロックする直前、その男の左側の肘が見えた。それより先の腕は矢張高速過ぎて見えない。が、その動きの支点である肘は確かに確認出来た。するとまたこの時この瞬間に私の脳裏を掠めて或る意識が飛んだ。

「ここまでくれば、もう奴がこの家に入って来る事は出来ない。それはそれで良い。しかしもう一つ重要な事がある。それは奴の顔を絶対に見てはいけないという事だ」

 その通りだった。実はこの私の堪え難い体験の最も重要な点というのは『その男にこの家に入ってこられてはならない』ではなかった。『その男の顔を見てはならない』だったのだ。何故か私は瞬時にその事に納得した。何の論理的な根拠があった訳ではない。しかしこれは想念一つが頭に浮かんだだけで最早疑うべからざる説得力を有していた。その警告を私が達成出来なければ、私がその男の顔を見て仕舞ったら、その一事に拠って屹度(きっと)現在の私を囲んでいる状況が瞬時に崩壊する、激変して仕舞うに違い無いのだ。

 私は無事硝子を割らずに戸を閉め、押し下げ式のロックを下ろし、戸を完全に閉鎖した。戸の磨硝子の向こうに立った男の両腕が停止していた。男は最早その意味不明で絶大に気味の悪い、一目見ただけで一切の交渉が不可能である事を誰にでも即座に理解させる事が出来る動作をやめていた。そして磨硝子の向こうから戸を叩くとか蹴るとか、(いわん)や顔面を押し付けて来るなどという様な許し難い行動には出なかった。ただ人形の様に何の音も立てずにその場所に静止していた。危難は去った様だ。私は硝子越しに男の姿を暫く見ていたが、一切は終わって仕舞ったので悠々と沓脱(くつぬぎ)に靴を残して自分の家に上がって行った。

 そして家に上がった瞬間、何故か思った。

「あれは一体誰だったのだろう。私の知っている人間だろうか。私の知り合いの人間の一人が何かの理由で『あんな状態』に成り果て、それでも私を忘れておらず私の姿を見ると私に会いに走ってやって来たという事だった、そんな可能性は無かったか……」

 そして若しもそうだったならば私は、全く無理の無い事ではあるが、私にしては(まこと)に珍しい事ながら百人に尋ねたら百人共が私の側の弁護に立ってくれる事請け合いのケースではあるが、それでも悪い事をしたという気持ちが湧いてきた。だから一度土間に下り立ち、もう一度硝子越しにあの男を見てみようと思った。そしてその行動を実行した。しかしその時には既に男の姿は無かった。何の音もしなかったが僅か数秒の間にその男は消え去っていたのである。


 此処(ここ)で目が覚めた。


 これは私が夢で今までに経験した怖さとは少し違う種類のものかも知れない。別に回顧して悪夢だと今私が思っている訳ではない。それはお分かり頂けると思う。しかし強烈に印象に残っている。

 この夢の本質は何なのだろう。言った様に私はこれを私の経験した悪夢の中の一つに数えていない。この夢はもう私がそれを観てから三十年以上も経つというのに、まだその本質その意義を私の前に明らかにしてくれないのである。この夢の本当の怖さはそこなのだと私は思っている。従って(ここ)に、この夢十夜に加えた。

 私はこの夢の真実の意義が恐ろしいかたちで私の眼前に展開される日の来ない事を祈る。だが……。

 この夢には何かある。本当に、私がまだ気が付く事の出来ない何かが。


 ブログは毎日更新しています。

https://gaho.hatenadiary.com/

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