「屋根の上のイエモリ」
読んでいただけると幸いです
その日は、
最初から神社に寄るつもりではなかった。
最近は、
寄らなくても平気な日が増えていた。
それが少し、
大人になったみたいで――
でも、少しだけ寂しい。
***
学校帰り。
曇った空の下、
神社の前を通り過ぎようとして。
恒一は、
ふと足を止めた。
屋根の上。
瓦の隙間に、
何かが張りついている。
「……あ」
見間違いじゃない。
それは、
小さな妖怪だった。
全長は三十センチほど。
姿はヤモリに近いが、
体は半透明で、
薄い水色に淡く光っている。
目は大きく、
黒曜石みたいに丸い。
指先と足先には、
家紋のような薄い模様。
――イエモリ。
家や社に住みつき、
そこを静かに守る妖怪。
害はなく、
人の暮らしのすぐそばにいる存在。
ただし、
人前に姿を見せることは、ほとんどない。
「……やっぱり、いた」
恒一がそう呟くと、
イエモリは、ぴくりと尻尾を揺らした。
逃げない。
でも、
目は合わせない。
境内に入ると、
雨の匂いが強くなる。
「……降りそうだね」
独り言みたいに言う。
イエモリは、
屋根の上でじっとしていた。
瓦に腹をぴったりつけて、
影みたいに動かない。
ぽつ。
雨が落ちる。
ぽつ、ぽつ。
イエモリの体に、
雨粒が当たる。
透明な体を、
水がすり抜けていく。
「……濡れても平気?」
返事はない。
でも、
屋根を伝う水が増えてきた。
恒一は、
本殿の縁側に腰を下ろし、
カバンからタオルを取り出した。
「……ここ、
水が落ちてくるから」
柱の根元に、
タオルを敷く。
イエモリは、
しばらく動かなかった。
だが――
とん。
小さな音。
屋根から柱へ。
イエモリが、
垂直の柱をするすると降り、
タオルの上に張りついた。
「……あ」
近くで見ると、
体の中に
ゆっくり流れる光が見える。
呼吸みたいに、
一定のリズムで。
「……ありがとう」
言葉にすると、
少し照れくさい。
イエモリは、
こちらを見ない。
ただ、
尻尾の先が
ほんの少し動いた。
***
雨が強くなった頃。
「何してる」
後ろから、
ヒナトの声がした。
振り返ると、
いつもの無表情。
「……雨宿りです」
「そいつか」
ヒナトは、
柱を見る。
「イエモリだな。
ここを気に入ってる」
「……やっぱり」
「人には、
滅多に姿を見せない」
「……そうなんですか」
ヒナトは、
少し間を置く。
「お前が、
害を出さないからだ」
それ以上、
説明はしなかった。
雨音だけが、
境内を満たす。
やがて、
雨が弱まる。
イエモリは、
ゆっくり柱を登り、
また屋根へ戻っていく。
去り際。
一度だけ、
黒い目が
ちらりとこちらを向いた。
気のせいかもしれない。
でも。
恒一は、
確かに見た気がした。
***
帰り道。
空は、
少し明るくなっていた。
靴は濡れている。
でも、
気分は悪くなかった。
何か特別なことを
したわけじゃない。
ただ、
同じ場所で、
同じ時間を過ごしただけ。
それだけで。
神社が、
ほんの少しだけ
「知っている場所」になった気がした。
次回もイエモリ回です




