「影を踏む子」
読んでいただけると幸いです
午後の校庭は、光だけが取り残されたみたいに明るかった。
人の声はあるのに、どこか遠い。
恒一は校舎へ戻る途中、足を止めた。
自分の影が――少し遅れて動いた。
気のせいだと分かっている。
分かっているのに、見なかったことができない。
一歩、踏み出す。
影も動く。
半拍遅れて。
「……」
恒一は、わざと影を踏んだ。
その瞬間、影がふっと逃げるように揺れた。
避けた。
生き物みたいに。
「やっぱり、見えてるな」
フェンスの向こうから、ヒナトの声がした。
振り返ると、いつもの場所に立っている。
誰にも見られないまま、ここに“いる”存在。
「影に寄る妖怪だ」
ヒナトは淡々と言う。
「害は少ない。今のところは」
「……今は、ですか」
「情が移ると、変わる」
その言葉だけが、妙に重かった。
⸻
昼休み。
恒一は一人で中庭に立っていた。
足元の影が、いつもより濃い。
しゃがみ込むと、影は逃げなかった。
むしろ、少し近づいてくる。
小さな子どもが、人の影に隠れるみたいに。
「……ひとりなの?」
声に出すと、影がわずかに揺れた。
返事はない。
でも、拒まれていないのは分かる。
恒一は、胸の奥が少しだけ温かくなるのを感じた。
「ここにいていいよ」
その言葉が、するりと口をついて出た。
影は、嬉しそうに足元に重なった。
遠くで、ヒナトがそれを見ていた。
「やめておけ」
静かな声。
「そいつは、居場所を覚える」
恒一は立ち上がり、影を見下ろす。
「……それって、悪いことですか」
ヒナトは答えなかった。
答えられなかった。
⸻
放課後。
昇降口で靴を履き替えていると、颯太が声をかけてきた。
「恒一、帰ろうぜ」
「うん」
歩き出すと、影が少し遅れてついてくる。
颯太は気づかない。
「今日さ」
颯太は前を向いたまま言った。
「なんか、雰囲気違った」
「え……」
「悪い意味じゃない」
少し照れたように、続ける。
「ちゃんと、ここにいる感じ」
恒一は言葉に詰まった。
――ここにいる。
それは、自分がずっと欲しかった感覚だった。
校門を出ると、夕日が道を赤く染めていた。
影は長く伸び、重なり合う。
ふと、足元の影が小さく揺れる。
「……一緒に、帰る?」
答えはない。
でも影は、離れなかった。
少し後ろで、ヒナトが立ち止まる。
「覚えておけ」
低く、抑えた声。
「優しさは、縛りにもなる」
恒一は振り返らなかった。
影がいることが、
今は――ただ、救いだったから。
夕暮れの道に、三つの影が並ぶ。
そのさらに外側で、
誰かが“数を数える”気配がした。
クロギはまだ姿を見せない。
ただ、影が増えたことを――
面白そうに、眺めていた。
影は、少しずつ重くなっていった。
最初は足元に寄り添うだけだったそれが、
次の日には、恒一の動きにぴたりと重なるようになった。
昼休みの廊下。
窓から差す光の中で、影だけが濃く沈んでいる。
「……今日も、いるんだね」
影は返事をしない。
けれど、恒一が立ち止まると、同じように止まった。
誰かに必要とされている。
その感覚が、胸の奥を静かに満たしていく。
ヒナトは距離を取っていた。
「そろそろだ」
短く、それだけ言う。
「何がですか」
「限界」
恒一は影を見下ろした。
「この子、何もしないですよ」
「今はな」
ヒナトの声は低い。
「でも、居場所を覚えた妖怪は、人の“外”を嫌う」
その言葉の意味を、恒一はその日の午後に思い知る。
⸻
階段の踊り場。
人の流れが途切れた一瞬。
恒一の影が、急に足を引いた。
「……?」
体が傾く。
視界が揺れる。
その瞬間、影が伸びた。
伸びて、絡みついて――
恒一の足を、強く止めた。
「っ……!」
転倒は免れた。
だが、足首に鋭い痛みが走る。
遠くで、誰かが「大丈夫か」と声を上げた。
影は、離れなかった。
むしろ、抱きしめるみたいに、濃く重なってくる。
「……あ」
分かってしまった。
このままだと、
この影は恒一を“外に出さない”。
「離れて……」
影は揺れた。
悲しそうに。
ヒナトが、もう一歩前に出た。
「ここまでだ」
その声に、空気が変わる。
ヒナトの影が、異様に大きく膨らんだ。
一瞬だけ、
人の形から逸れた“何か”が滲む。
角の気配。
圧倒的な存在感。
鬼。
影の妖怪が、びくりと震えた。
逃げようとして、逃げられない。
「やめて……!」
恒一の声が、震える。
「この子、悪気は……!」
「分かってる」
ヒナトは目を伏せる。
「だから、今切る」
鬼の気配が、影を包んだ。
壊すほど強くない。
ただ、縁をほどく力。
影が、するりと剥がれる。
恒一の足元から、少しずつ遠ざかっていく。
影は、最後に一度だけ振り返った。
言葉はない。
けれど、
「一緒にいられて、嬉しかった」と
はっきり伝わってきた。
「……ありがとう」
恒一は、小さくそう言った。
影は、光の中に溶けて消えた。
⸻
放課後。
保健室で簡単な手当てを受けたあと、
恒一は校門の外で立ち止まっていた。
足元には、もう影しかない。
「……寂しいです」
ぽつりと漏らす。
ヒナトは隣に立った。
「それでいい」
「え?」
「寂しいまま、歩け」
珍しく、優しい声だった。
「それが、人間側だ」
恒一は、夕焼けの道を見る。
少し痛む足。
でも、前に出せる。
「……また、会えますか」
ヒナトは答えなかった。
答えの代わりに、
そっと視線を逸らした。
夕暮れに、二つの影が伸びる。
一つは人間。
一つは、人のふりをした妖怪。
失ったものは、確かにあった。
でも――
恒一の足は、止まっていなかった。
ん〜設定がだんだんブレてるような気が…




