第7話 渡す手
評定の朝、広場はまだ冷たかった。
白い帆布で囲われた臨時の演台、その前に四つの円。昨日の訓練場の白線が、今朝は円の形に描き直されている。円は、誰かと誰かが立って渡すための器だ。
王弟ユリウスは簡素な椅子に腰をかけ、侍従長ミレイは帳面を携え、視線の刃で空気のゆるみを削いでいる。アデルは群衆の縁、薄墨の外套の襟元を指先で整えた。
「本日の趣旨」
ユリウスの声が石に落ちる。
「手順が“人”を選ばないことを示せ。――お前たち二人だけの芸で終わらせない」
私はうなずき、ノアを見る。
親指の爪を、彼が二度押す。
返す。二度。
その合図は、今朝の冷たさより少し温かい。
「第一円、前へ」
ミレイが名を呼んだ。
「マリア、レオン」
昨日、第一組を見た二人だ。
マリアは女兵。赤い髪をきつく結い、顎がまっすぐに上がっている。レオンは裁縫頭の弟子。針の傷が指に残り、視線は慎重だ。
私は円の縁へ出た。
「ここから、渡す。私たちの縫い目を、あなたたちに」
渡す、という言葉を口にすると、胸骨の奥がきゅっとなる。
自分のやり方がどこかへ離れていく気がして、少しだけ心が寂しくなる。
でも、手順は離れるためにある。離れても、同じように縫えるように。
「まず、合図」
私はマリアの親指を二度押した。「平常」
次に、レオンの親指を一度強く押した。「緊急」
二人同時にやらず、順番に。順番も手順の一部だ。
「言葉は、“離さない”。――声で」
マリアは一瞬眉をひそめ、そして小さく言った。「離さない」
レオンは、喉が乾いたように言葉を探して、掠れた声で続いた。「……離さない」
声は小さくても、言えたという事実が、円の中で重さを持つ。
「距離」
ノアがレオンの肩の後ろへ半歩重なる。
「半歩、肩一枚。支配ではなく、合意の寸法」
マリアは自ら半歩下がり、円の中央を空けた。
私は頷く。
「交代。十五分で点検。三十分で湯。肩を二度、軽く叩く」
言葉を並べながら、私は自分の手が低く震えているのを自覚した。
不安――それも合図にしていい、と昨日、自分で言った。
私はノアの親指を二度押した。
返る。二度。
震えは、まだ仕事になる。
「双糸」
薄い布を、マリアとレオンの肩に渡す。
受け取りの合図。レオンの手首を軽く引く。力の方向を合わせる。
風が、円の縁を撫で、砂粒が低く鳴く。
「――涼しい」
誰かの囁き。
私は小さく息を吐いた。渡った。
「では、実地」
ミレイの声が硬くなる。「安全な木矢での受け」
アデルの従者が弓を持って前に出る。
マリアが半歩下がり、レオンが布の縁を受ける。
合図、二度。返る、二度。
矢が飛ぶ。
布の縁が、空気の目に沿って角度を変え、矢は石へ優しく落ちた。
二の矢。三の矢。
レオンの指が強ばりかけたとき、マリアが肩を二度、軽く叩く。
点検。湯。
レオンが座って湯を飲む。
距離を保ったまま、マリアは**“離さない”**を小さく言った。
アデルの眉がわずかに動いた。群衆の空気が変わる。
四の矢。
レオンの親指が爪を一度強く押す。緊急。
マリアが半歩前に出て、木剣の柄で線を払う。
双糸が隙を埋め、矢は石に転がる。
拍手は、最初はばらばらで、すぐに揃った。
ユリウスが頷く。ミレイが帳面に太い線を引く。
私は、胸の奥がふっと軽くなるのを感じた。
渡った。
「第二円、交代だ」
ミレイが次の組を呼ぶ。
今度は、年配の女官と、若い文官だ。
女官は経験の重さが立ち居の隅々にあり、文官は紙の上の安心に慣れすぎて手の動きが遅い。
私は円の外で、口を出さない。渡した手に、口を重ねるのは、結びを緩める行為だ。
ノアが低く呟く。「レオン、見て」
レオンは頷き、文官の手に自分の指を重ね、関節の角度を整える。
双糸。
布の縁に、別の息が通り始める。
その時だ。
広場の端で小さな悲鳴が上がった。
張り紙の残党が、粗い幕をまた張ったのだ。
押し返すだけの壁。
近くの子が転びかけ、女が手を伸ばす。
私は走る――前に出ようとして、立ち止まった。
渡すのが今日の目的だ。
私が行けば早い。でも、早さでは縫い目は増えない。
「マリア!」
呼ぶ。
合図。親指を二度。
マリアがこちらを見て、二度返す。
「渡して」
マリアはレオンに短く言い、“離さない”を声で確認し、二人で走る。
粗い幕の縁を、レオンが双糸に変える。
マリアが子を抱き、女に渡す。
合図、二度。返る、二度。
壁はほどけ、空気が普通の重さに戻る。
私は、円の外からそれを見ていた。
指先がじんとする。
行ける。
行かずに、行かせることが、できる。
アデルが、私の横に立った。
いつの間に近づいたのか、気配が薄い。
「“渡す”のは、あなたのほうがうまい」
誉め言葉の形ではない。観察の形だ。
「見せて渡しただけ」
「見せ方を選んだ。それが秩序」
アデルは淡く笑う。
「私の秩序は、まだあなたたちの詩を疑っている。でも、人に渡った詩は、疑いに強い」
彼女の言葉の中に、わずかな湿りがあった。
私は、彼女の横顔をまっすぐに見る。
「あなたは、何を渡したいの」
「家名」
即答だ。
「それから、“正しく見えること”。……見せ方も、渡すものの一つ」
言い終えると、アデルはふいと顔をそらし、群衆の縁へ戻っていった。足取りは整っている。乱れは、今朝よりさらに少ない。
評定は続いた。
第三円、第四円――それぞれに小さなつまずきがあり、合図で回復し、距離で守り、交代で持続した。
双糸が通るたび、噂の音程が少しずつ変わる。
「抱き合う」は「肩一枚」に、「怠慢」は「湯」に、「虚勢」は「離さない」に置き換わる。
言葉は、見せ方で意味を着替える。着替えは、嘘ではない。手順という衣を選ぶことだ。
夕刻。
ユリウスが立ち上がり、宣言した。
「庇護組、正式運用へ。試行期間を一月。記録は公開。異議は受け付けるが、実演付きで」
広場に控えめな歓声が広がる。
ミレイは帳面を閉じ、短く頷く。
私はノアを見た。
親指を二度押す。
返る。二度。
その返事は、今朝よりさらに早かった。
*
評定後、石畳が人の足で温まっていく頃。
私は王城の回廊を歩きながら、護紋スカーフの結び目を確かめた。
ノアは隣で、今日配った紙の残りを数えている。
「……三十枚。子ども向け札は十枚」
「足りない?」
「足ります。配るのは、明日もある」
明日――その言葉の軽さに、今日の重さが乗る。
渡すという作業は、一日で終わらない。
「リアナ」
呼ばれて振り向くと、廊下の角にアデルがいた。
外套は脱いでいる。細い袖口から、白い手首が覗く。
「ひとつ、頼みがあるわ」
頼み――彼女が、私に?
距離を測り、半歩近づく。
アデルの目は淡く、けれど真っ直ぐだった。
「私のところの使いの娘を、庇護組に入れたい」
南門で拘束された、白い外套の少女が脳裏に浮かぶ。
「粗い幕を覚えてしまった子。押し返すしか知らない。……縫い目を渡してほしい」
アデルの声は小さい。
自分の家の弱さを、公開の場ではなく、半公開の廊下で見せている。
それは、彼女にとって、簡単ではないはずだ。
私は、護紋布の結び目に指をかけた。
「入れる。――ただし、公開の実演に立ってもらう」
アデルは短く笑った。
「厳しいわね」
「詩を、捨てない手順よ」
彼女は目を細め、うっすらと息を吐く。
「いいわ。あなたの“見せ方”に賭けてみる」
賭け――その言葉の選びかたが、彼女の育ちを物語っている。
負ければ家名の傷になる。
それでも、渡すことを選んだ。
「明日の午后、内庭で」
私は言い、ノアに目をやる。
彼は頷き、紙束の上に新しい見出しを書いた。
> 家の幕の縫い直し
> 押し返す手から、受けて渡す手へ
アデルは、その文字を横目で見て、踵を返した。
「詩は嫌いじゃない」
去り際の声は、昨日までよりも、少しだけ柔らかかった。
*
夜。
北棟の部屋。
窓の外の風は弱く、明日の紙片が机の上で静かに並ぶ。
私は椅子に座り、今日の渡し方を思い返した。
上手くいったところ。上手くいかなかったところ。
「行かずに、行かせる」瞬間に、心が軋むのを、私は正直に紙に書く。
・指示の言葉は短く/名指しで
・失敗の兆し:合図の遅延/視線の泳ぎ/呼吸の乱れ
・口を出しすぎない兆し:相手の手の温度が下がる
・戻し方:合図で肩を二度/“離さない”を声に/湯
ノアが湯を置き、自分も椅子に座った。
今日一日で、彼の手の赤い痣は――増えていない。
私は胸の底で、静かに安堵する。
「疲れました?」
彼が訊ねる。
「少し。渡すのは、想像より体力を使う」
「受け取るのも、使います」
彼は言い、親指の爪で紙の角を二度、軽く押した。
合図。
私は返す。二度。
それから、声で。
「離さない」
彼も、声で。
「離さない」
灯を落とす前に、私は窓の外の空を見た。
雲が薄く、星がいくつか、渡されるように連なっている。
明日は、家の幕を縫い直す。
粗い手を、受けて渡す手に変える。
詩を、捨てない手順で。
布団に身を沈めながら、思った。
守られることを選ぶ勇気は、ひとりでは減ってしまう。
だから、渡す。
合図も、距離も、交代も、詩も。
渡した先で、同じ言葉が声で返ってくる限り、縫い目は増えていく。
私は伸ばした手で、彼の親指の爪を二度押した。
暗闇の中で、すぐに二度、返ってくる。
その速さに、明日が乗る。
*
《次回予告》
第8話「家の幕」




