第6話 噂の縫い目
翌朝の内庭は、まだ露の匂いが残っていた。
砂敷きの訓練場に、白線で四つの小さな区画が引かれている。見学のために開放された回廊には、女官の鎧と、市井の女たちの頭布、荷をおろした男たちの肩――さまざまな肩が並んでいた。
「庇護組」初動訓練。ユリウスが暫定可決を出した翌日だ。決断が早いのは改革派の強みでもあり、敵に準備の暇を与えないためでもある。
侍従長ミレイは、朝日で紙を乾かすような目つきで地面の線を確認した。
「各組、構成は“女二・男一”。まずは合図・距離・交代の三点だけ叩き込む。双糸はその後」
彼女の声は乾いていて、よく響く。
私とノアは、第一区画の指導役だ。隣の区画では、近衛の女隊長サラと、裁縫頭の男が組を見ている。男の指には針の小さな傷がいくつもあり、サラはそれを興味深げに眺めた。
「まず、合図」
私は見本として、ノアの親指の爪を二度押した。
「二度は“平常”。一度強くは“緊急”。これは誰のものでもない言葉だから、女も男も同じ指で同じ意味にする」
「“離さない”は声で」
ノアが続けた。
「言いにくかったら、最初は小さい声でいい。言うという事実を積み重ねる」
第一組の女兵マリアが手を上げた。
「男の手が震えていたら?」
「震えで判断しない」私は首を振る。「合図で判断する。震えは場合によっては役に立つ。相手の体温を知らせるから」
マリアは目を瞬き、それから笑った。
「やってみる」
距離。半歩後ろ、肩一枚の幅。
私が半歩重なって見せると、見学の男たちから微かなざわめきが起こった。女が後ろに立つことは、ここではまだ珍しい。
ミレイはそのざわめきを逃さず拾うように言った。
「距離は支配ではなく、合意の寸法。――そこを忘れない」
彼女の言葉は白線のように地面に残り、踏むごとに確認できる印になった。
交代。十五分刻みの点検、三十分で湯。
ノアは砂に簡単な記号を書いた。小さな丸が“点検”、太い線が“湯”。
「点検の合図は、相手の肩を二度、軽く叩く。湯は必ず座って飲む」
「座るの?」別の女兵が眉を上げた。
「座る。立ったまま飲むと、守る人間の背が伸びきってしまう」
守る背は、張りっぱなしでは長持ちしない。たるみと張りの切り替えで布は保つ。台所で覚えた理屈が、ここでも通用する。
午前の終わり、私たちは双糸の手順に入った。
薄い布を肩から肩へ渡す。受け取りの合図。手首を軽く引き、力の方向を合わせる。
第一組の男――名をレオンと言った――は緊張して、布をつかみすぎた。
「力を抜いて。布は握りつぶすと反発する」
ノアが彼の指を一本ずつほどき、関節の角度を整える。
私は女兵の肩に手を置き、縁だけ受け取る感覚を渡した。
合図。二度。返る。二度。
風が白線の上を撫で、砂の粒が低く鳴いた。
「――今の、涼しい」
回廊から子どもの声がして、私はその素直さに救われる。見学に来ている市の女たちが目を細め、誰かが「あの紙、家に貼ろう」と囁いた。
午後に入ると、習熟の差が浮き彫りになってきた。
第二区画は滑らかに進むのに、第三区画では合図が遅れがちだ。噂の縫い目は、組の外だけではなく、内部にもある。
私は第三へ回り、女兵ふたりの間に立って、短く指示を飛ばした。
「合図は先に。事が起きる前に。――“不安”は合図にしてしまっていい」
「不安を?」
「うん。言わない不安は、噂になる。言った不安は、手順になる」
女兵の目が少し緩み、頷きがふたつ返った。
ノアは周囲を見て、遅れてきた湯の合図を拾い、腰を下ろさない隊員に軽く指で合図を送った。
座る。湯気が体の内側を湿らせ、肩の張りがほどけていく。
反復。反復こそが噂を縫い直す針目だ。
訓練場の外、南の回廊でざわめきが高くなった。
張り紙だ。昨日の文句――「男が前に出る王都」――を少し書き換えた新しい紙が貼られていく。
女の怠慢、男の虚勢
庇護組は“怠け者の隠れ蓑”
言葉の端がわざと歪められている。縫い目を切るための文句だ。
私はノアと目を合わせる。親指を二度。返る、二度。
「見せに行く」
ミレイが頷いた。「訓練はサラに任せる。――行け」
回廊へ出ると、紙を貼っているのは若い使いの男たちだった。昨日、南門で見た粗い幕の渦の連中と同じ顔も混じる。
私は紙を剥がさない。代わりに、彼らの手に手順の紙を重ねた。
「読んで。貼るなら隣に貼って。片方だけだと、縫い目が見えない」
男のひとりが鼻で笑う。「女官さん、言葉遊びは――」
「遊びじゃない」
ノアが淡々と遮った。
「配達だよ」
男がぽかんとしている間に、ノアは紙の位置を少し下げ、目線の高さに合わせた。
「見出しだけ目に入ると、布の端だけ引っ張ってしまう。縫い目は手元の高さにある」
回廊に集まった女たちが、ゆっくりと頷きはじめた。
張り紙をすぐ剥がすのは簡単だ。けれど、剝がすだけでは縫い目は増えない。
並べる。比べる。結び直す。
そこへ、アデルが現れた。
今日は白ではなく、薄墨色の外套。目元に疲れが薄く差している。
「公開の場で、公開の布」
皮肉の音はするが、声量は抑えられている。彼女は新しい紙を一枚取り、見出しを撫で、本文へ指を滑らせた。
ノアが静かに言う。「縫い目を見せます」
「見せることに、興味が出てきたのね」
「はい。見せないと、裁きが粗くなる」
アデルは少し笑った。「詩は嫌いじゃないと言ったわね、私」
「はい」
「じゃあ、ひとつ詩の真似事を。――**あなたたち、今日の夕刻、庇護組で王城西門へ。吊り橋の点検が遅れてる。噂の針目が、そこにある」
ミレイが横から聞いていたが、否やは言わなかった。「記録する」
アデルは私たちに背を向けるとき、わずかに足取りを乱した。
疲れ――それとも、躊躇。
私はその乱れが心に残り、すぐに自分の足を整えた。躊躇まで噂にしてしまうのは浅はかだ。見せられた事実だけ縫う。
*
夕刻。王城西門の吊り橋。
城壁と外堀を繋ぐ板橋は、昼の荷車で酷使され、日暮れには板の節が鳴く。
庇護組の三組が分散し、私とノアは北側の支点を受け持った。
川風。濡れた藻のにおい。
橋脚の根元を見張る男が、緊張で早口になる。
「昼間、子どもが足を滑らせたんだ。欄干の継ぎが緩んでる。役所は明日と言うが――」
「今日、縫う」私は短く返した。「噂は夜のうちに増えるから」
双糸。
ノアが風の道を撫で、私は欄干の結び目へ指をかける。木と木の間に薄い布を差し入れると、見えない幕の縁がそこに沿って呼吸した。
合図。二度。返る。二度。
人の流れが途切れるのを待ち、庇護組のもう一組が中央で方向を押さえる。
橋は、前と後ろがはっきりしている。片方だけが持ち上がっても、もう片方が支えなければ歪む。
私たちは両端の呼吸を合わせ、緊急の合図を一度だけ交わした。
欄干の継ぎを押さえ、縄の端を仮結びし、子どもの背の高さに手順の札を打つ。
札には大きく書いた。
> 夜は走らない。手を離さない。
> 朝、直すまで、ここは双糸。
札は噂の見出しになる。誰もが読める高さで。遠くからでも、意味がわかる言葉で。
橋を離れようとしたとき、南から人波が押し寄せた。
張り紙を掲げた小さな隊が、夕暮れの明かりを背に、同時に紙を掲げる。
庇護組、税金の無駄
女の怠慢、男の虚勢
幕の裏で抱き合う
最後の行に、回廊がざわつく。抱き合う――私とノアの姿を、彼らはそう読もうとしている。
私は深く息を吸い、ノアの親指を二度押した。
返る。二度。
声にする。「離さない」
ノアも言う。「離さない」
進む。
紙を剥がさない。隣に手順の紙を重ねて渡す。
「貼って。並べて。見出しの下に、合図を書いて。『二度=平常』って手で見せて」
私は群衆の前でノアの親指を二度押し、ノアが返す。
抱き合うと言われるなら、抱き合わずに守る形を見せればいい。
距離。半歩。肩一枚。
交代。十五分。湯。
双糸。肩から肩。
子どもが札を読み、女が胸に手を当て、男が顎のひげを撫でる。
見せる。
繰り返す。
縫う。
乱入してきた若者がひとり、粗い幕を張りかけた。
押し返すだけの、硬い渦。
瞬間、ノアの指が私の爪を一度強く押した。
緊急。
私は前に半歩、木剣の柄で渦の角を軽く叩く。
同時にノアが縁を双糸に切り替え、硬さの逃げ道を作る。
若者は自分の反動に足を取られ、よろめき、自分の胸を押さえた。
私は支え、落ち着いた声で言う。
「痛い?」
「……痛い」
「比べないで。痛みは比べると、どちらかが黙るから」
若者の目が、少し濡れ、やがてうなずきに変わった。
周囲のざわめきが別の音程に落ちる。非難から、観察へ。観察から、手順へ。
人波の端に、アデルがいた。
彼女は紙を受け取らず、指で橋の札を示した。
「見出しは、うまく選んだわね」
「子どもの目線の高さに」
私が答えると、彼女は薄く笑った。
「明日、評定の続きがある。――公爵家は異議を出す。『庇護組は情に流れる方便、秩序を崩す口実』」
真正面からの宣言。
私は頷いた。「情を手順にする説明を、用意する」
アデルは一拍、沈黙し、低く言った。
「詩を、捨てないで」
それだけ残して去っていく足取りは、今度は乱れなかった。
*
夜。北棟の部屋。
机の上に紙を広げる。**“情を手順にする”**の見出し。
ノアが湯を置き、椅子に座る。
「今日は、『抱き合う』の噂、縫えました」
「まだ半分。明日、誰かがまた糸を引く」
「引かれるなら、縫い目を増やしておけばいい」
私は頷き、筆を走らせた。
・感情の手順化:合図(声・触覚)、距離、休息の取り方。
・公開の約束:離さない(言葉/署名)。
・交代のルール:守る人が二度以上“緊急”を出したら強制交代。
・濃幕禁止:侍従長印。双糸の選択肢を必ず添える。
・子ども向け札:夜は走らない/手を離さない/朝に直す。
書き終え、私は護紋スカーフの結び目を指で確かめた。
ノアがこちらを見て、小さく息を吐いた。
「……疲れました?」
「少し。あなたは?」
「同じくらい」
彼は言い、黙って私の親指の爪を二度押した。
返す。二度。
間が、今日の間だ。昨日とは違う。明日へ渡すための間。
「ねえ、ノア」
「はい」
「アデルは、何を守ってると思う?」
ノアは少し考え、窓の外の暗さを見た。
「家。それから、秩序。……そして、自分の言葉」
「自分の言葉?」
「彼女は“見せる”のが上手い。見せ方が、彼女の秩序だと思います」
私はその言い方が気に入って、笑った。
「なら、明日は“見せ方”で勝とう」
「詩で?」
「詩を捨てない手順で」
ノアは頷き、椅子から立ち上がった。
火を弱め、窓を半分だけ閉め、布団の端を整える。
私が寝台に腰を下ろしたところで、彼はすこし迷ってから、声にした。
「離さない」
私は、声で返した。
「離さない」
灯が落ちる前、扉が軽く叩かれた。
ミレイだ。
「明朝の評定、王弟は“公開の場での実演”を求める。紙だけでは足りない。――人に、渡せ」
「渡す?」
「庇護組の中から、今日作った“縫い目”を別の二人に渡して見せる。お前たちだけの芸にしない」
私は立ち上がり、頷いた。
「渡す。必ず」
ミレイは短くうなずき、去った。
静けさが戻る。
私はノアのほうを見た。
「渡せる?」
「渡します。――離さないを、言える人に」
眠りに落ちる前、私はそっと彼の親指の爪を二度押した。
返る。二度。
縫い目が、明日へと伸びていく。
*
《次回予告》
第7話「渡す手」




