表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
男が守られる世界で、彼だけが私を守ってくれた  作者: 妙原奇天


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

5/16

第5話 剣と布

 夜明け前、馬車の車輪が湿った石畳を踏んだ。

 王都は、祭りの灯の匂いを一晩で忘れ、冷えた紙の匂いに戻っている。

 侍従長ミレイの言う「噂の縫い目」は、門前に貼られた張り紙の形になっていた。


男が前に出る王都――秩序はどこへ

女が守れぬなら、剣の意味は


 活字が冷たい。紙の端はわざと粗く裂かれ、見る者の指にざらりと引っかかる。

 私は護紋スカーフの結び目を一度確かめた。

 ノアは並んで立ち、親指で私の爪を二度押す。

 返す。二度。

 合図が、張り紙の棘を鈍らせる。


「出迎えは広場へ」

 ミレイが短く言い、私たちは馬車を降りた。

 王城前の広場には、衛兵だけでなく市の女たち、男たち、そして噂を楽しみに来た人々が集まっている。

 王弟ユリウスが段上に立ち、視線を一度だけ横に投げた。

 私へではない。ノアへ。

 ノアは小さく頷いた。灰色の瞳が、外套の陰で深く沈む。


「本日の評定は公開とする」

 ユリウスの声が石に染み込む。

「“守る/守られる”が秩序を砕くのか、支えるのか――言葉ではなく手順で見せよ」


 言葉ではなく、手順。

 アデルが群衆の縁にいた。銀の髪飾りは外し、装いは簡素だ。けれど目の縁の鋭さは、昨日より研がれている。

 私は深く息を吸い、剣帯を確かめ――ない。今日は木剣が一本、布袋に収められているだけだ。

「はじめるわ」

 自分自身に向けて呟き、段の下へ出た。


 *


 最初の実演は、「合図」だった。

 ミレイが板に大きく書く。

 ・親指二度=平常の確認

・親指一度強く=緊急

・“離さない”を声で言う――公開の約束


 私はノアの親指を二度押す。彼が返す。

 それだけの動きに、広場の空気が微かに傾いた。

 軽いざわめきは、見慣れないものを、見慣れようとする音に似ている。


 次に、「距離」。

 半歩後ろ、肩一枚の幅。

 私はノアの背に半歩重なり、肩に沿って呼吸を揃える。

 女官たちが目を細め、男たちが無意識に姿勢を正した。

 ミレイが話す。「距離は支配ではない。合意のための寸法だ」


 三つ目は、「交代の時刻」。

 十五分刻みの点検、三十分で湯。

 ユリウスが苦笑して言った。「戦より細かい」

 ミレイは頷く。「戦より長く続けるから」


 そして、四つ目。

 「双糸そうし――二人で張る幕」

 私とノアは、肩から肩へ薄い布を渡す。

 ノアが空を撫で、私は縁を受け、彼の手首を軽く引く。

 風が、布の縁をつたって、群衆の汗の匂いをほどよく散らす。

 子どもが「涼しい」と囁き、母親が笑ってうなずいた。


 アデルが初めて声を上げた。

「芸は見事ね。けれど、戦は“矢”で決まるわ」

 彼女の手がわずかに上がり、従者が丸頭の木矢を持って進み出た。

 ミレイが一歩出て、鋲のない手袋で矢じりを確かめる。「安全に改造。――続行を許可する」

 ざわめきが高くなる。

 私はノアの背へ半歩重なり、息を整えた。

 合図。二度。

 返る。二度。


 最初の矢。

 双糸が縁で受け、角度を変える。

 矢は私の肩を撫でず、石に優しく落ちた。

 二の矢、三の矢。

 私は縁を受け取り続け、ノアの肩から少しずつ重さを抜く。

 四の矢の直前、ノアの親指が爪を一度強く押した。

 緊急。

 私は前へ半歩出て、木剣の柄で矢の線を払い、剣の合図で幕の隙を埋めた。

 矢はかすかな音を立て、石に転がる。


 剣と布。

 私の胸骨がやや熱く、ノアの手の甲の赤は濃くならない。

 広場の空気が変わった。驚きと、何かを飲み込む音。

 アデルの唇が、わずかに横へと引かれた。笑みではない。計算の音だ。


「見事。でも、それは“訓練された二人”の芸当」

 彼女は群衆を指した。「王都の女と男、すべてに真似できるの?」

 ミレイが答えようとしたとき、ノアが前に出た。

「できます。見せれば」

 彼は布袋から薄い紙束を取り出した。印刷。手順の図。

 左上に、侍従長印。

 右下に、王弟の署名。

 中央に、**“離さない”**の二文字。


「今日から、配ります」

 ノアの声は高くない。けれど、紙の端のざらつきと違い、耳に痛くない。

「真似できる手順にする。家々で、台所で、回廊で、路地で。……僕たちだけの幕では、ありません」


 配り手に衛兵が加わり、紙が列へと渡る。

 子どもが親の手を引き、老人が眼鏡を額に乗せ、女官が鎧の上から紙を胸に当てる。

 アデルは紙を受け取らない。ただ、遠くから眺める。

 ユリウスが段上で頷いた。

「評定――暫定可決。王都と近郊に**庇護組ひごぐみ**を試験設置。女二名・男一名の小隊を基本。指導役に侍従長、文法整備にノア・リース」

 どよめきが起こる。

 ミレイが筆を走らせる。

 私の胸が、静かに熱くなる。


 その瞬間、広場の南門で怒号が上がった。

 張り紙を貼っていた一団が、衛兵の制止を振り切って駆け出す。

 紙束の端に、見覚えのある印。

 ――公爵家。アデルの紋。


 群衆の視線が彼女へ集まる。

 アデルは微笑んだ。

「噂は布。私も縫うと申し上げたはず」


 ミレイの合図が飛ぶ。衛兵が動く。

 私はノアと目を合わせ、親指を二度押した。

 返る。二度。

 走る。

 剣は抜かない。布の端を掴む。

 南門の影が多い場所に、濃い幕の渦がわずかに生まれている。

 誰かが、幕を濃く張れる――ノア以外にも使い手がいる。

 彼らの幕は粗い。引き受けない幕だ。押し返すだけの、硬い壁。

 押し返された女官が石段で膝を打つ。

 私はノアの手首を握り、声に出す。


「離さない」


 双糸。

 私が縁を取り、ノアが方向を取る。

 渦の縁に縫い目を作り、硬い壁の角をほどく。

 押し返す力は、逃げ場を失うと自分へ戻ってくる。

 張り紙を抱えていた男がよろめき、壁の反動で自分の肩を打つ。

 私はその肩を支え、紙束を奪わずに、手順の紙を重ねて握らせた。


「これで縫い直して」

 男は口を開き、閉じ、震える指で紙を掴んだ。


 渦がほどけ、南門の影に、ひとり、白い外套が残った。

 フードを外す指が細い。

 顔は若い。

 女――公爵家の分家の印を帯びた、使いの娘。

 アデルは近づかない。遠くで見ている。

 ミレイが静かに言う。「拘束。――だが丁重に。縫い目は切らず、解く」


 衛兵が娘の腕を取り、娘は怯えた眼でこちらを見た。

 ノアが一歩近づき、膝を折って目線を揃える。

「幕は、誰に教わった」

「……奥様に」

 奥様――アデルか、その母か。

「何のために」

「“正しく”するために」

 ノアは頷いた。

「正しさは、痛みを引き受けないと、固くなる。――君の手、赤い」

 娘の掌には、細かな裂け目がいくつもあった。

 押し返す幕は、使い手自身を裂く。

 私は、護紋布の端で娘の手を包み、ミレイに目で合図した。

 彼女は短く頷き、控えの女官へ視線を送る。

「救護へ。記録ののち、家へ返す。報告は公に」


 ユリウスが段上で宣言する。

「噂の縫い目は公開する。布で縫う者は、布で裁く」

 群衆のざわめきは、さっきより低く、太い。

 アデルは初めて近づいてきた。

 私と、ノアの前で足を止め、紙束を一枚取り上げる。

 合図、距離、交代の時刻――そして“離さない”。

 彼女は最後の二文字を、爪先で軽くなぞった。


「これで、あなたは守りきれるの?」

 挑発ではない。問いだ。

 私は答えた。

「守りきれない日もあるでしょう。だから、“離さない”って書いた」

 アデルの喉が、わずかに動いた。

「負けを前提にするの」

「負けを、見ないふりはしない」

 私が言い切ると、ノアが隣でゆっくり頷いた。

「負けは、縫い目を増やします。――布は、縫い目で強くなる」


 アデルは目を伏せ、紙を折りたたみ、外套の内へしまった。

「詩は嫌いじゃない」

 踵を返し、群衆に紛れる。

 彼女の背が消えたところで、ミレイが深く息をついた。

「今日のところは、ここまで。庇護組の試行を開始。配布は続ける」

 ユリウスがうなずき、群衆へ手を挙げた。

 広場はゆっくりとほどけ、人々は紙を胸に、昼の仕事へ散っていく。


 私はノアのほうを向き、親指の爪を二度押した。

 返る。二度。

 その返事は、朝よりもずっと早かった。


 *


 夕刻、北棟の部屋。

 机の上に手順の残りと、使いの娘が落としていった粗い幕の写しが置かれている。

 ノアは写しを見て、静かに言った。

「……これ、引き受けない型です。押し返すだけ。縫い目がない」

「縫い目がないと?」

「破れたとき、どこで結び直すかがわからない」

 私は護紋布の結び目を一度ほどき、もう一度結んだ。

 結び目は、ほどけるためにある。結び直すためにある。

 ミレイが扉を叩き、短く告げる。

「明日、王宮の内庭で“庇護組”の初動訓練。――剣も、布も、忘れるな」


 頷くと、ノアが紙を片付け、ふと私を見る。

「今日は、剣の払い、美しかったです」

「布の縁も、きれいだった」

 目が合って、どちらともなく笑った。

 私は手を伸ばし、彼の親指の爪を二度、押す。

 返る。二度。

 それから、声にした。

「離さない」

 彼も、声にした。

「離さない」


 窓の外で、薄い風が夕餉の匂いを運ぶ。

 噂はまだ流れているだろう。

 けれど、縫い目を見せる術を、私たちは持った。

 剣と布で。

 双糸で。


《次回予告》

第6話「噂の縫い目」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ