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男が守られる世界で、彼だけが私を守ってくれた  作者: 妙原奇天


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第4話 ヴェールの副作用

 祭りの前日、布の町は静かに忙しかった。

 市場の幕は半分だけ降ろされ、子どもたちは麻紐で飾りを結び、年配の男たちは火床の灰をふるい直す。女たちは機の目を点検して、糸くずをひとつずつ摘む。騒がしくないのに、どこも手が動いている。音は小さく、意味は大きい。


 私は護紋スカーフの結び目を確かめ、ノアの歩調に半歩合わせた。

「張るのは薄い幕だけ」

「はい。風を導くだけ。痛みを移し替えない」

「移し替えない」

 言葉にして繰り返す。私自身に刻むためだ。

 ノアはうなずき、私の親指の爪を二度押した。合図。

 私は返す。ふたつ。


 広場の中央に、祈りの柱が立つ。柱の上には、小さな木枠が組まれ、古い布片が十字に渡されている。町じゅうの家から集められた端切れだ。ほどけかけた縫い目、擦れて薄くなった角、子の名が隅に刺繍されている端。

 誰かの暮らしの痕そのものが、幕の骨になる。


「幕は、守るのではなく、結ぶ」

 ノアがそう言い、指の先で木枠の角に触れた。

 風が、ゆっくりと巡り方を変える。

 広場の煙が天へ真っ直ぐ上がり、香草の匂いが散り過ぎないで輪郭を持ちはじめる。

 薄い幕――町の背にかけるのは、その程度で十分らしい。


「これなら、あなたの痣は増えない?」

「増えません」

「“はず”じゃなくて?」

「努力します」

 彼は小さく笑って、私の視線からわざと逸れた。

 私は護紋の結び目を指でなぞった。結び目は小さい。けれど、迷いを止めるには十分な突起だ。


 *


 午下り、広場の端の染場で湯が立ちはじめた。

 祭りでは、毎年一反だけ「町の布」を染めるという。

 色は薄い青――雨上がりの色。みんなが少しずつ手を添え、後で端を切り分けて家々の台所にかける。

 染めの釜は大きい。湯が重い。薪が鳴る。

 私は木の撹拌棒を受け取り、湯の流れを確かめる。

 ノアは火床に小石を置き、風の道を作る。

 ミレイは記録札に時刻を書き、女たちから工程を聞き取っている。


「温度、八分に」

 染師の年配女が言い、若い男たちが薪を組み替えた。

 湯気の角度が少し鋭くなる。

 私は棒で湯の表面を撫で、泡の粒の細かさを確かめた。


「流れが片寄りはじめます」

 ノアの声は低く、落ち着いている。

 彼は釜の縁を二度撫で、薄い幕をそっと沿わせた。

 湯の偏りがほどけ、色の濃淡が均される。

 薄い幕は、よく働く。


 そのときだった。

 広場の南側から、どよめきが起きた。

 屋台の梁が一本、きしみをあげて傾ぎ、人だかりの上に影を落とす。支えの縄が湿りに負けたらしい。

 私は本能で走りかけ、合図を思い出して立ち止まった。

 ノアが――動かない。

 代わりに、彼は私を見る。

 彼の親指が、私の爪を一度、強く押した。

 緊急の合図。

 私は理解する前に走っていた。

 梁の落下線から子どもを抱き上げ、転がる。背に木屑が刺さる。

 梁は地面に打ちつけられ、鈍い音が広場に広がった。


「怪我は!」

 叫び声。

 私は膝で子を庇い、呼吸を確かめた。啼き声が出た。大丈夫――。

 その瞬間、背中に熱が走った。鋭い痛みではない。じわじわと、皮膚の下に広がる重い熱。

 私は顔を上げた。

 ノアの額に汗が浮き、右手の甲の赤い筋が濃くなっている。

 薄い幕の“はず”が、厚みに変わっている。

 人の密度が上がった。恐怖の匂いが空気を歪める。薄い幕では足りない。彼は――町じゅうの背に、濃い幕を張りかけている。


「ノア、やめて!」

 私は立ち上がり、彼に駆け寄った。

 彼は微かに首を振った。

「もう……少しだけ」

「少しが、一番危ないのよ」

 彼は、広場全体を薄く覆うように幕の縁を維持している。梁の近くでは、誰かが転び、その衝撃がゆるく緩衝される。鍋の熱も、わずかに軟らいでいる。

 けれど、そのぶん、彼の手の痣がひと目でわかるほど濃くなる。

 私は彼の手首を両手で包み、顔を近づけた。

「合図」

 彼の瞳が私を捉える。

 私は彼の親指の爪を二度押した。

 彼は、遅れて二度、返す。

 遅い。それだけで、胸が痛む。


「町は、みんなで、守るの」

 私は彼の背に腕を回し、支えながら広場に声を投げた。

「梁を戻すのは私たち。火の番はそっち。子どもは女の列で抱えて。――幕はもう、薄くていい!」

 染師の女が頷き、周囲の女たちが即座に配置につく。男たちは梁を持ち上げ、支えの縄を乾いたものに取り替え、屋台の主は手を口に当てて泣き、すぐに泣きやんで手伝いに回った。

 人が動けば、幕は薄くていい。

 私はノアの肩に額を当て、囁いた。

「ねえ、ノア。あなたの幕は、背中のため。世界じゃない。――この町には、たくさんの手がある」

 ノアの息が少し深くなった。

 額が私のこめかみに触れ、彼はかすかに頷いた。

 見えない布の厚みが、ふっと薄まる。

 風が、ふたたび個々の手で流れを取り戻す。


 緊張がはけ、広場のざわめきは音程を変えた。

 私は胸を撫で、ノアの顔を覗き込む。

「……痛み、どれくらい移った?」

「例年の……祭り一回ぶんは」

「例年って、あなた毎年張ってたの?」

「去年、一度。……張りすぎました」

 その小声には、自嘲と義務が半分ずつ。

 私は、彼の手を包む自分の手の中で、赤い痣がまた呼吸するのを感じた。

「許可なく、濃い幕を張らない手順。――紙に書いて、ミレイの印をもらう」

「はい」

 素直な返事。でも、寂しさが混ざる。

「寂しい?」

「少し。張れるのに、張らないのは」

「私も、剣を抜けるのに抜かないとき、寂しくなる」

 私は笑ってみせた。

「だから、代わりに“二人で”張る方法を考えよう」


 ノアは目を上げた。

「二人で?」

「手順。双糸の幕。あなたが縦糸、私が横糸。張る力を分け合う」

「でも、あなたに痛みが――」

「全部は要らない。縁だけを持つ。縫い目を、私が担うの」

 彼は黙って私を見た。灰色の瞳は、雲の切れ間の色に近い。

 彼はゆっくり頷き、親指で私の爪を二度押した。

「練習しましょう」


 *


 夕方、広場の片隅で、私たちは布を一枚、肩から肩へ渡した。

 薄い麻布。端に小さな結び目。

「合図は?」

「いつもどおり、二回。――ただし、“受け取り”の合図を増やす」

「受け取り」

「うん。私が縁を受け取るとき、あなたの手首を握る。あなたは軽く引く。力の方向を合わせる」

 ノアは布の端を持ち、私の手首に視線を落とす。

「痛む?」

「痛みは比べないって、言ったの誰だっけ」

 軽口を返すと、彼の唇の端が少し上がった。


 私は彼の背に半歩重なり、右手で布の端を受け取る。

 ノアが空を撫でる。

 薄い布のもう片方が、見えない幕の縁と重なる。

 風の通り道が、私の指に触れる――幻の糸のような抵抗。

 その抵抗を、私は自分の肩へ移した。

 重さが、ほんの少しだけ乗る。

 ノアの肩から、重さがほんの少しだけ抜ける。

 私はひと息整え、つぎの縁を受け取る。

 合図。二度。

 返す。二度。

 幕が、私と彼の間で、双糸になる。

 私の胸骨は疼かず、彼の手の痣は濃くならない。

 風は通る。香草の匂いは、正しい角度で町を巡る。


「……できる」

 私が息を吐くと、ノアは目を細めた。

「できます。縁だけなら、あなたに痛みはほとんど移らない」

「“ほとんど”は、危険ね」

「危険です」

「じゃあ、やめる?」

「しません」

 即答は、私の胸を少しだけ痛くさせ、同時に少しだけ誇らしくした。


 練習の最後、私は布の端を彼の肩にかけ、親指を二度押した。

「今度、濃い幕を張りたくなったら、先にこれを呼んで」

「はい」

「私が受け取れるように、呼んで」

「呼びます」

 約束は、布の端の結び目に似ている。ほどけることもある。だから、ほどけたときの結び直し方も、手順にしておく必要がある。

 私は頭の中で紙に項目を書き足した。

 ・濃度上昇の兆候:彼の返答の遅延、額の汗、合図の遅れ。

・双糸への切り替え手順:私が右肩、彼が左手。

・解除手順:深呼吸二回、布をいったん膝へ下ろす。

・禁止事項:自分一人で“町じゅう”を覆わない。


 ちょうどそのとき、ミレイが背後から紙の匂いを連れて現れた。

「見ていた」

「見てたの」

「双糸。記録する」

 ミレイは淡々とした手つきで項目を書き、最後の行に太字で線を引いた。

「“二人でやる”は、美談ではない。手順だ。――美談にしてしまうな」


 私は思わず笑った。

「はい、侍従長」


 *


 夜、祭りの灯がともり、広場に低い歌が流れた。

 町の布はゆっくりと引き上げられ、雨上がりの色が星の下で湿りを脱いでいく。

 人々の肩が少しずつ落ち、子どもが欠伸をし、火の番が広場の四隅で棒を鳴らした。

 私は人混みの外れで腰をおろし、ノアにも腰をおろさせた。

 彼は従順に座り、膝の上で指を組む。

「痛みは?」

「落ち着きました」

「痣は?」

「増えていません」

 私は安堵を言葉にせず、替わりに彼の親指の爪を二度押した。

 返ってくる二度が、今日は早い。

 それだけで、祭りの灯が一段明るくなる。


 そのとき、背後からさらさらと絹の音がした。

 アデルだ。

 彼女は飾りのない外套をまとい、髪は高く結い上げ、唇に薄い紅。

「町の布。綺麗ね」

 私が立ちかけるより早く、ノアが軽く肩を揺らした。

 合図――“待って”。

 私は座ったまま、彼女を見上げた。


「幕の話は聞いたわ」

 アデルは灯の縁に立ち、町の布を目で撫でた。

「薄く張る幕。厚く張る幕。どちらも、使いどころを間違えれば毒になる」

「毒?」

「幕は、風を正す。風は、噂も運ぶ。……“男が守る”噂は、早い」

 彼女の声は柔らかい。

「早い噂は、あなたを救った。けれど、あなたを殺すのも、早い」

 ミレイの忠告とは別の種類の冷たさだ。

 私は呼吸を整え、答えを探す。

 ノアが先に口を開いた。


「噂は布です。良い布は、縫い目がきれいです。――縫い目を見せます」

 アデルは目を伏せ、薄く笑った。

「見せられるの?」

「見せます。手順です」

 アデルの目が、わずかに愉快そうに細くなる。

「詩が上手い書記ね」

「布屋です」

「どちらでもいいわ。……明日、王都へ戻るのよね」

「視察は続きます」

「ええ、続けなさい。続けて、どこまで“見せられるか”試すといい」

 彼女は踵を返し、灯の外側へ消えた。

 残ったのは、薄い香と、柔らかい敵意だけ。


 私は息を吐き、ノアの肩に額を寄せた。

「噂は、縫える?」

「縫えます。見せれば」

「何を?」

「合図と、距離と、交代の時刻。……“離さない”を言う口」

 彼は不器用に並べ、最後だけ少し照れた。

 私は笑って、彼の親指を二度押した。

 返る。二度。

 私は、その返事の速さを、明日のための勇気に変えた。


 *


 祭りの歌が終わり、火が落ちてから、私は仮宿で紙を広げた。

 手順の末尾に、新しい行を加える。

 ・噂の縫い目:手順を公開する。見せて、真似される形にする。

 ・濃幕の許可:侍従長印。双糸に切り替える選択肢を必ず添える。

・守る/守られるの練習:毎日短時間。体力を使い切らない。

・合図の更新:痛みの共有意思の確認。声でも言う――「離さない」。


 ペン先が止まる。

 窓の外に、祭りの残り香と、遠い笑いが残っている。

 私は筆を置き、ノアのほうを見た。

 彼は椅子に座り、手を膝に置き、目を閉じている。寝てはいない。休んでいる。

 私は立ち、そっと彼の親指の爪を二度押した。

 返る。二度。

「離さない」

 声にした。

 彼は目を開け、同じ言葉を、静かに返した。

「離さない」


 そのとき、廊下の向こうで靴音が止み、扉が小さく叩かれた。

 ミレイだ。

「王都から使いが来た。――明朝、帰還だ」

 彼女の声は、いつもより固い。紙の音が、少し湿っている。

「何かあったの?」

「噂の縫い目のほうだ。ほどかれた糸がある。……明日、剣と布の両方を持って戻る準備を」


 私は頷き、護紋布の結び目を指で確かめた。

 剣はまだない。けれど、布がある。

 そして、双糸がある。

 私たちの背中には、もうひとつの縫い目が増えた。


《次回予告》

第5話「剣と布」

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