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男が守られる世界で、彼だけが私を守ってくれた  作者: 妙原奇天


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第3話 台所の戦場

 地方視察の出発は、思っていたより静かだった。

 荷車のきしみ、馬の鼻息、朝霧が石畳の縁をゆっくり飲み込む。ユリウスの随行は騎馬の女官が中心で、男手は荷の積み下ろしに回っている。

 私は剣を持たない。腰は軽いが、肩に薄い布――ノアが昨夜、私のために縫った護紋スカーフ――がかかっている。薄青の糸で目立たない結び目が十字に走り、指先で触ると、細い突起が手の腹にやさしく当たる。合図の練習の時に決めた位置どおり、鎖骨の下、心臓の上。


「似合います」

 並んで歩くノアが、小さな声で言った。

「色は?」

「雨上がりの色」

「……詩人ね」

「布屋の比喩です」


 北へ二刻、城下を抜けると、道は畑の匂いに変わった。女たちが鍬を振るい、男たちが背籠を支え、子供らの笑いがひと束ずつ風に運ばれる。

 目指すのは布の町――ノアの出自の地だ。王弟は役割の見直しに「生地の織り方から学ぶ」という不可思議な理屈を立てた。けれど私はもう、その不可思議が嫌いではない。

 守ることと守られること。その織り目は、剣の理ではほどけない。布の理なら、ほどけるかもしれない。


 *


 昼前に町へ入ると、通りは糸の光で満ちていた。

 軒先から軒先へ糸車が回り、機の音が小雨のように降る。色は控えめだが、どの布にも手触りの良さが見える。

 市場の外れに、共同台所があった。大釜が三つ。洗い場が二つ。火床には干した薪が積まれている。

 ユリウスは同行の文官と工房へ向かい、ミレイは役人たちと帳面を広げに行った。私とノアは、台所の端に立った。

 そこは、完全に「男の戦場」だった。

 腕まくりをした男たちが手元だけで会話し、塩の匙を受け渡すときにも声はほとんど出ない。煮え方の泡で火勢を読み、鍋の縁に小さな木札で時刻を記す。

 私は、はじめて前に出るのが怖いと思った。

 剣の戦場では、前に出るのは習い性だ。けれど、ここは私にとっての異国だ。何も持たない私が前に出れば、ただの邪魔になりかねない。


 ノアが、私の手に指先で印を描いた。

 親指、二度――合図。

 大丈夫、という合図。

 私は頷き、息を整えた。


「こんにちは。手伝わせてください」

 私が声をかけると、年配の男が顔を上げた。白髪交じりの眉が、私の肩の護紋布を見て、次にノアを見た。

「ユリウス殿の随行か。女官が台所に、珍しいことだ。……刃物の扱いは?」

「剣はできます。包丁は、これから覚えます」

「素直だな。いいだろう、皮むきだ。手は切るなよ」

 手渡されたのは、野菜の山と小ぶりの包丁。私は柄を握り、重心の違いに戸惑った。剣は振るうために重さがある。包丁は支えるために重さがある。

 ノアが、私の背後に立ち、包丁の角度を手で導いた。

「刃は寝かせて。大きく動かすと、刃が怒ります」

「刃が、怒る?」

「はい。布と同じです。ひっぱりすぎると機が鳴る」


 私は半分笑いながら、もう半分は真剣に、刃に触れた。

 指先に伝わる固さと、走る音。皮がするりと離れ、白い身が現れる。

 台所の空気が、少しだけ私を受け入れた。

 湯気が増えるたび、誰かが火を弱め、別の誰かが塩を一つまみ。動きは静かだが、全体は速い。

 剣の戦場にも似ている。けれど、ここで守っているのは命だけではなく、食卓の時間、体の温度、暮らしのリズムだ。


 大釜の一つが泡を荒げた。

 年配の男が眉をひそめる。「火が強い。水を――」

 言いかけて、視線がノアで止まる。

 ノアは、火床の端に小さな石を置いた。

 それだけで、火勢がふっと落ち着く。

「空気の流れが変わります」

 男は目を細め、笑った。「布の家の子だな」

「はい。少し」

「少し、ね。……その幕の縁を、釜にもかけられるか?」

 ノアは戸惑い、私を見た。

 私は頷いた。

 彼は釜の縁に手をかざし、見えない布を一枚、かけるみたいに空気を撫でた。

 泡の音が静かになる。吹きこぼれは縁でほどけ、湯気はひと筋に立ち上った。

「奇術じゃねえ。理屈だ」年配の男が嬉しそうに言う。「風の道を作っただけだ。だが、その“だけ”を手でやれる奴は少ない」

 周囲の男たちが小さく頷いた。

 私は、胸の奥が誇らしくなるのを感じた。私の誇りではない。ノアの、そしてこの台所の誇りだ。


 皮むきの山が半分になったころ、若い男が私の手元を見て笑った。

「女官さん、手がきれいだな。水に負けて切れちまうぞ」

 悪意は薄い。けれど、薄い紙で擦られるような痛みが残る。

 私は笑い返そうとして、やめた。

 ノアが何も言わず、私の手首に布を巻いた。薄く、柔らかい布。護紋と同じ糸で、見えない結び目が内側に来るように、素早く。

「手の温度が逃げます。布が代わりに持ちます」

 彼の手は、今日も熱い。

 若い男は目を瞬き、黙った。

 台所の戦場では、言葉より、手順が力を持つ。


 *


 昼餉は、町じゅうの口へ等しく行き渡る。

 大釜のスープ、焼いた大麦のパン、乾燥肉を戻して煮たもの、香草。

 配膳の動線は短く、返却の籠は入口の外に置く。子供は先に、老人はその次。女官の鎧は外し、男たちの前には手拭いを置く――それら全てが、紙ではなく、手順として身体に覚えられていた。

 私は、盆を持ち、列の端で子供にスープを渡した。匙を持つ小さな手。湯気が頬にあたり、まぶたがとろりと落ちる。

 そのとき、列の反対側から小さな悲鳴が上がった。

 鍋を支えていた男の手が滑り、熱が腕に走ったのだ。

 私が反射で駆け出すより早く、ノアが動いた。

 幕――見えない布が、鍋と腕のあいだに挟まる。湯は男の袖を濡らし、しかし皮膚への打撃は軽く済む。

 男は息を吸い、吐いた。一呼吸遅れて痛みが来たのだろう。

 ノアは彼の手を取り、水場へ引いた。

 私は後を追い、軟膏と包帯を受け取る。

 手当てをしながら、男が苦笑した。

「女官殿、剣よりこっちの戦は、景気が悪いだろ?」

「いいえ。こっちも、立派な戦です」

「負けがない分、退屈だ」

「負けはあります。温度を間違えると、人は食欲を失う。食べられない戦士は、立てない」

 私の言葉に、男は目を丸くし、それから笑った。

「珍しい女官だな」

「守られる練習中ですから」

 素直に言ってしまい、頬が熱くなる。

 男は包帯の端を見て、私ではなくノアに頷いた。

「いい嫁をもらったな」

 ノアは驚いた顔のまま、首を横に振った。

「まだ、です」

 まだ。

 その一語が、なぜか私の胸にゆっくり落ちた。落ちた場所で、温かく広がった。


 *


 午後、ミレイが台所に現れた。

 鎧は着ていない。代わりに布袋を肩にかけ、眉間の皺は少し浅い。

「記録を見せなさい」

 ノアは紙束を渡す。合図、距離、介入の閾値。台所での動線の写し取り。火勢の調整方法。幕の張り方と、その限界。

 ミレイは目を走らせ、短く言った。

「いい。だが、甘い」

「甘い?」私が訊ねる。

「『あなたの呼吸が浅くなったら介入』――それでは遅い。浅くなる前、視線の焦点が泳いだ瞬間に介入する。……ノア、できるか」

「努力します」

「努力は手順ではない。できるか、できないか」

 ノアは少し考え、頷いた。

「できます。ただし、僕の消耗は増えます」

「ではその分、交代手順を厳密に。十五分刻みで点検、三十分で必ず湯を飲む。夕刻には彼女が前に立つ練習も必要だ」

「前に?」

 私の声が、意図せず細くなる。

 ミレイは私にまっすぐ視線を置いた。

「守られることを選ぶには、守ることができるという前提がいる。後ろに立ちきるには、前に出られる足を持っていなければならない。――その足を錆びさせるな」

 私は、護紋布の結び目を指でつまんだ。

「……はい」


 ミレイは町の女たちに話しかけ、役割の聞き取りを始めた。

 女は前、男は後ろ――と一口に言っても、実際の動きはもっと細い。

 女は刃物を、男は布を扱う。女は畑の陽を、男は家の陰を管理する。女は強く見せ、男は温かく保つ。

 強さと温かさ。

 それは、互いに要るものだ。どちらか一方しか持たないと、家も町も、掛け違えた釦みたいに胸元が落ち着かない。


 夕方、台所の片付けが一段落すると、年配の男が私に包丁を渡した。

「切ってみな」

 私は姿勢を正し、刃を寝かせ、皮を引いた。

 音が、朝より静かに通る。

「筋が通ったな」

 男はうなずき、包丁を受け取った。

「布の子、手の痣は古いな」

 ノアは顔を上げた。

「はい」

「幕は、誰のために張る」

 ノアは間を置かずに答えた。

「背中のために」

「世界のためではない」

「はい」

 男は大きく頷き、笑い皺を増やした。

「それを忘れるな。忘れた幕は、家を潰す」


 言葉が、ノアの骨に刻まれるのがわかる。

 私の骨にも、薄く刻まれる。

 守ることは、世界を相手にすることではない。目の前の背中に、布をかけることだ。

 私は、自分の視線がまた遠くを見ていたのに気づき、息を整えた。

 浅くなる前に。泳ぐ前に。

 ノアが、私の親指を二度押す。

 私は返す。

 台所で交わされた合図は、もう戦場の合図だった。


 *


 仮宿へ戻る道、空はようやく薄く裂け、茜色が端に見えた。

 私は歩きながら、ノアに訊ねた。

「ねえ、ノア。布の町の子供は、みんな幕を覚えるの?」

「いいえ。覚えるのは、一部です。ほとんどは、火の番や水の見張りを覚えます」

「火と水」

「はい。幕より、ずっと多くの人が使える守り方です」

 私は頷いた。

「今日、わかった。あなたは特別だけど、特別じゃない」

 ノアが少しだけ目を見開いた。

「特別な能力がある。でも、守っているものは、誰もができる守りと同じ場所にある」

 彼は、ゆっくりと歩調を落とし、私と完全に並んだ。

「……ありがとう」

「礼を言うのは、私のほう」

「いいえ」

「じゃあ、半分ずつ」

「はい」


 夕餉は、私が作った。

 台所で覚えたとおり、脂は控え、塩は指先で計り、湯気の上がり方で時を測る。

 ノアは椅子で私の動きを見て、必要なときだけ手を伸ばす。

 私は鍋の縁に指を近づけ、湯気の熱で短い時間を数えた。

 彼が、親指の爪をそっと二度押す。

 私は返す。

 鍋の中で、泡が静かに、正しく立っている。


 食後、紙を広げる。

 今日の手順を書き加える。

 ・台所での位置取り:火と水の間――視界に互いが入ること。

 ・湯気の角度を読む。合図で共有。

 ・布の仮幕は釜にも張れる。張りすぎない。

 ・手の包帯は薄く、結び目は内側。

 ・言葉の代わりに、手順を増やす。

 書いていると、ノアが私の手の甲を見た。

 包丁の柄でできた小さな赤い線が、一本。

「痛い?」

「少し。……あなたの痣よりは、ずっと軽い」

「重さは、比べません」

「比べない、か」

「はい。痛みは、比べると、どちらかが黙ります」

 私は、黙らせたくない相手の顔を思い浮かべた。

 黙らせるためではなく、聞くために、私は後ろに立つ。

 そのために、前にも出られる足を整える。


 灯を落とす前、ノアが言った。

「明日は、布の町の祭りの準備があります」

「祭り?」

「収穫を迎える前の、小さな祈りです。幕を張ります」

「誰の背に?」

「町ぜんぶの背に。……でも、薄く。流儀として」

 私は護紋布を指でなぞった。

「あなたの、濃い幕は?」

「張りません。――張らない努力を、します」

 彼は冗談の形にしたつもりだろう。けれど声は真剣だった。

 私も、同じだけ真剣に頷いた。


 灯が細くなり、窓の外に、ようやく星が一つだけ生まれた。

 私はその小さな光を確認し、布団に体を沈める。

 眠りに落ちる前、そっと手を伸ばし、彼の親指の爪を二度、押した。

 間をおいて、二度、返る。

 離さない。

 合図が、眠りの縁を温かく縫い止めた。


 ――そして、明日。幕は町に。私たちには、手の温度に。

 その薄さと厚さを、間違えないように。


《次回予告》

第4話「ヴェールの副作用」

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