第16話 新しい布
雪が静かに降っていた。
北の村、ヴェルド。
地図にも載らないほどの小さな集落だ。
屋根の上の雪は厚く、空気は凍り、声すら音を立てずに消える。
リアナとノアが踏み込むたび、足跡がきしむように鳴る。
まるで、世界が音を拒んでいるようだった。
「……ここ、静かすぎるね」
リアナが息を白く吐く。
ノアは首を振る。
「静かなんじゃなくて、“声を止めてる”んです」
「止めてる?」
「ええ、誰もが“離されたくない”から、言葉を封じた」
雪の奥に、灰色の家々が並ぶ。
窓の内側には、人の影が見える。
けれど誰も外に出てこない。
この村では、“言葉にすると失う”と信じられていた。
死者の名を呼べば雪になる――そんな古い迷信が、
世代を越えて彼らを沈黙に縛っている。
リアナは村の中心に布を広げた。
雪が溶けて、布が淡く濡れる。
「声が出せないなら、雪で縫おう」
ノアが目を見開く。
「雪で……?」
「ほら、雪を掬って。手の熱で少し溶かして――」
リアナは雪を掌で包み、息を吹きかけた。
「これが“離さない”の代わり。
溶けるまで、手の中で持ってて」
ノアは従い、同じように雪を掬った。
二人の手の中で、雪は光を反射し、
白い冷たさが、ゆっくりと温度を変えていく。
やがて、ノアが囁く。
「……温かい」
「ね。声を出さなくても、“離さない”は伝わる」
その光景を、家の窓から誰かが見ていた。
最初は子どもだった。
次に、その母親。
そして、村の老人。
誰かが外へ出て、
掌に雪を掬い、同じように両手で包んだ。
沈黙が、少しずつ“合図”のように響き始める。
コッ、コッ――ではなく、とける音。
ノアが微笑んだ。
「……雪の“離さない”ですね」
「うん、“凍らない約束”」
リアナは息を吐き、手の雪が完全に水へと変わるのを見届けた。
彼女の掌の中には、氷の破片が光を受けて、小さな虹を作っていた。
*
夕暮れ、村の中心で焚火が燃えた。
リアナとノアの前に、長老が現れる。
白い髭に雪が絡み、瞳は深い灰色をしていた。
「我らの沈黙を、汚すつもりか」
リアナは首を横に振った。
「いいえ。守りたいんです、沈黙ごと」
「沈黙を……守る?」
「言葉が凍るなら、その凍りを包む布がいる。
その布を、私たちが持ってきました」
長老は焚火を見つめ、ゆっくりと手を差し出した。
リアナは布の端を持ち、彼の掌に置く。
「この布は、燃えません。
泣く人、声を失った人、凍った人、
誰の涙でも受け止めます」
長老の目が潤む。
雪の光を映したその瞳が、
長い年月の沈黙を破るように揺れた。
「……守る、とは、忘れないことか」
「忘れない。でも、赦すことも含めて」
リアナの声は柔らかい。
「失った人を思い続けるだけじゃなく、
それでも生きている自分を赦す――それが“新しい布”です」
ノアがそっと合図をした。
親指の爪を二度。
リアナも返す。
二度。
「平常」
「平常」
長老は頷き、焚火のそばに座った。
「雪の上で、声が聞こえる。
……これが“離さない”か」
「ええ。あなたが聞いてくれたから、届いた」
火がはぜる。
雪が溶ける。
夜空に、ひと筋の光が流れた。
*
翌朝。
村の入り口に、新しい布が掲げられた。
白い布。
中央には、青い糸でこう縫われていた。
「離さない
赦す
そして、生きる」
風が吹くたび、布はやわらかく波打ち、
陽の光を反射して、まるで水面のようにきらめいた。
ノアが小さく息を吐く。
「……きっと、これが最後の縫い目ですね」
リアナは微笑んだ。
「最後じゃない。
誰かがこの布を見て、また次を縫う」
二人は雪を踏みしめながら歩き出した。
背後で村の子どもたちが声を上げる。
「離さない!」
「離さない!」
それは、白い世界に響く“春の音”のようだった。
リアナは空を見上げ、そっと囁く。
「……ありがとう、ノア」
ノアが返す。
「離さない」
風が二人の声を包み、
雪を散らしながら、遠い王都へと運んでいった。
終章 「離さない」
人は、守り合うために言葉を覚えた。
でも、守り合うために沈黙も必要だ。
涙も、湯も、音も、雪も――すべては“縫う”ための糸。
リアナとノアが歩いた道は、
やがて庇護組の地図に白い線として残った。
それは国を結ぶ糸となり、
この世界のどこかで、今も誰かが親指を二度押している。
コッ、コッ。
平常。
そして――離さない。
《完》




