上田美代子 『現実時間』十一月、一日
『現実時間』十一月、一日。午前十一時。県立大学の研究室。
思えばその日は、変なことばかり起きていた。
もう秋もとっくに過ぎたと思っているのに、通勤途中の道に蝉がひっくり返っていた。
ここ数日降り続く雨にさらされて、道端で倒れていたのが傘の端から見えた。
もちろん一瞬、目に映っただけだから、ちゃんと蝉だったのかはわからない。
でもこんな出来事は後にも先にもこれだけで、だから記憶に残っているのだと思う。
研究室に着いた先でも、おかしなことが起きた。
研究室にいる人は、変わった人が多くてあまり私生活のことを自分から話す、みたいなことはない。
ないのだがこの日に限っては、一番無口だと思っていた村井さんが話しかけてきたのだ。
「図書館から借りた本のことでね、息子に怒られちゃって」
村井さんという女性は、どちらかというと自分に近いタイプの方で、さっきは無口と言ったがどちらかというと、
口下手な印象がある方だった。
だからこんなに朗々と喋る人という印象はまず、ない。
「本……ですか」
「そうなの。あの子前にやらかしてるからさ。本の未返却常習犯だから。
だから私も蓮の部屋で図書館の本を見つけたら『またか……』って。
だから私が勝手に返しちゃったのよ。その本。
そしたら、『まだ返却期限じゃないのにー!』って怒られて」
「はあ、蓮くん」
「ああ、息子ね私の。あまりにも怒るもんだから、
『また借りて来ればいいじゃない』って言ったら、『人気だからすぐ借りられちゃう』って言って。
もー面倒臭いから誕生日に同じ本買ってあげようって思っても、全然本屋で見つからないのよ」
村井さんは『怒られた』とはいうが、むしろ機嫌がいいように見えた。
じゃなかったら、普段の村井さんはこんなに喋らない。
図書館か。
そういえば私はあまり図書館に行ったことがない。
「研究員のくせに本も読まない」なんて先生に叱言を言われたこともあるが、そのたびに、
「私は元から活字に強いから、本で鍛える必要がなかった」と心で言い訳をしている。
「どんな、本なんですか?」
「それがまた、昆虫図鑑なのよ。昆虫図鑑なんてどれも一緒でしょ? って思うじゃない?
でも蓮は『あの本だけは特別』なんていうものだからさあ」
ここまで話されたら、私も覚えてたら息子くんにプレゼントしなきゃ、と思ってしまうではないか。
虫は……苦手だけれど。
その日は帰ることになって、駅に着いたら雨は勢いを増していた。
そして風も強い。
北風だから木枯らし一号というやつかもしれない。もう冬だ……。
強い風が吹いて思わず目を閉じたら、後ろの方から……
「さっむ!!」
と、おじさんの声が聞こえた。
いつものコンビニの明かりが見えてきて、少しだけホッとする。
ビニール傘を畳んで、店内に入る。
ここのところは家でうまく寝付けない。興味のない動画を見たり、ゆっくりお風呂に入ってみたり、
色々試してみたけれど一番手っ取り早いのはお酒の力を借りることだった。
睡眠導入剤も検討したけど、やめられなくなるみたいな話を聞いてなんとなくやめておいた。
いつもの水。そしてハイボール。
この時間に一人でコンビニに入って、こういうものを買う女を、たとえばコンビニの店員さんはどう思うんだろう?
おっさんくさいとか思われるだろうか。……なんて考えかけて、それ以上はやめておいた。
誰も自分のことなんか見ていない。気にする人間なんて、一人もいないだろう。
この時間にいつもいる店員さん。もう顔なじみみたいなものだから、この店員さんは別におかしな目で見てこないだろう。
……と思っていたのだけれど、今日に限ってはこの店員さんも、いつもと様子が違っていた。
名前も知らない店員さんだけど、無愛想で、恥ずかしがり屋で、声の小さい人だと思っていたのに、
突然声が大きく、はっきりしていて、笑顔で私の目を見て接客してきた。何かあったのだろうか? あったにしても、
一日で人はこんなに変わる物だろうか? まるで接客の模範のような態度で、プロだった。
そうそう。おかしなことは、この時のコンビニで『特に』起きた。
もちろん店員のおじさんの態度の変わりようにも驚いたが、スマホ決済がスムーズにできなかったのだ。
私が困っていると、いつも無愛想で声の小さい店員さんが、親切にスマホを取ってくれて端末に近づけたりしてくれた。
いつもの店員さんならこんな時、迷惑そうに顔を顰めるだけだったと思う。
そして、店内のどこかからかものすごい音がしたのを覚えてる。
何かが崩れるような音だったけれど、なんの音なのかはわからない。
なんとか決済できて、コンビニから出る。雨は相変わらず気が滅入る雨だ。
ビニール傘を広げたら、北風に煽られて傘の骨が折れた。
傘って、こんなに簡単に折れたっけ?
たまらず雨宿りに駆け込んだのが、例の図書館だった。
私は一度も行ったことがないから、最初その建物がなんだかわからなかった。
家まで走って帰ってもよかったが、風邪でも引いたらたまらない。親はもう寝ているだろうし、仕方がない。タクシーを呼ぼうとスマホを持ったら、
ものすごく熱かった。基本、スマホを見る人間ではないのと、私は充電も怠らないタイプなので、スマホの充電切れとはそれこそ縁がない人間だったのに。
図書館に行かない、スマホの充電も切らさない女が、真逆のことを今している事になる。
本来いない場所で、本来しないことをしているのだ。
この図書館は最近できた二十四時間の図書館なのが運がよかった。
自分の今日の運の悪さに免じて、少しだけ電力を拝借することにした。
この時間帯でもそれなりに人がいるのは、雨が降っているからなのだろうか?
会員の登録が必要で、それを済ませたら席を一つ見つけ、スマホの充電をした。
流石にこれだけのためだけの会員登録は馬鹿馬鹿しいので、何かの縁だと思って本でも読んでみようと思った。
図書館というものの空間が、これほどまでに心地よいなんて思ってもみなかった。
この時間帯でも、警備の方が実働してくれているおかげで研究室ほどではないにせよ静かだ。
あと暖かい。
何より広々としている。これは、わざわざ勉強をしに図書館に学生が来るわけだ。
本よりも、その空間にうっとりしながら、なんとなく自分のホームグラウンドに近い科学書のコーナーを見てみる。
研究所に置いてある本とはまた違うものが並んでおり、ついつい手に取ってしまった。
やはり図書室は面白い。本との出会いは面白い。……会員登録してよかったかもしれない。
と……足音が聞こえた。静かな空間にはふさわしくない、タッタッタッタとテンポの良い足音だ。
見ると、この空間にはまずいないであろう男の子だった。
黒い帽子に「C」の字がついていた。あまり見たことないデザインの帽子だったのと……
まあ後々考えてみればこの頃から『C』に縁があったんだなあと思うようになり、この帽子のことは覚えている。
私にぶつかると、男の子は本を落としたのだ。
「あ! ねえ!」
私は思わず声をかけたが、男の子は走っていってしまった。
落とした本は、昆虫図鑑だった。
ここは科学書の欄。これは児童図書だろうか……?
何にせよ、本来の持ち主が目の前からいなくなってしまったので、彼の代わりにこの本を戻してあげようと……
まず背表紙を見た。どの棚に置いてあった本か書いてあるはずなのに、それがなかった。変な本だなあと思って、もしかしたらこの図書館に関係ない本なんじゃないのか?
……と一瞬思った。思ったもので、今度は本を開いてみた。
想像通りのものがあった。それは、昔ながらの貸し出しカードだ。
貸し出しカードに驚いたのもそうだが、書いてあった名前を読んでしまって……
昼の村井さんの話を思い出したのだ。
こんな偶然があるだろうか? 村井さんが勝手に返してしまった本が、今、目の前にある。
本を落とした少年には悪い気がしたが、これは多分流石に何かの奇跡なのだと思った。
『奇跡』なんて、科学者が言うとおかしく思われるだろうが、科学技術の進歩なんていうのは奇跡と偶然の産物だろうと私は思っている。
本を拾って、一応司書さんにさっきあったことを一通り話したが、やはりこの本は、この図書館のものではないそうだ。
だから私が借りたことにして、村井さんの息子くんに数日間プレゼントしてあげようと思った。この日のささやかな偶然のお祝いに。
こうして私の、奇妙な一日は幕を閉じた……はずだった。
一番の奇妙は、翌日村井さんの前で起こった。
私が村井さんにこの本を持っていくと、村井さんは不思議そうな顔をして……
「私の息子、虫ダメなんで……」
と控えめに拒んできた。『昨日の村井さん』とは別人に思える反応だった。
驚いてくれる、喜んでくれると思ったのに、これでは私がものすごく変な女だ。
私が、がらにもなく身振り手振り使って昨日のことを話しても……
「人違いじゃ……」
なんて言われる。そんなはずがない。そんなはずが。
これでは狐にばかされたみたいじゃないか。
そして、息子くんに代わりに本を返してもらおうと思ったのに、私が自分で返す羽目になった。
……
貸し出しカードに書いてあった図書館の名前は、存在しない図書館だった。
幾重にも重なった奇妙、不可思議の末に、私の元にやってきた昆虫図鑑。
もちろん私も虫には興味ないので、数年間それは我が家で埃を被る事になる。
しかし、なぜだかこの本を処分しようと思ったことは一度もなかった。




