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背中に感じる温もりとか、冷たさとか

『現実時間』七月七日。金沢。


 温かい彼の手の温もりに包まれて、心地よいホテルのベッドに横たわっている。

 体温が、こんなに安心するものだとは、知らなかった。


 背中には、彼の胸が当たっており、後ろから抱きかかえられている。

 先ほどから、スマホが着信を知らせてくるが、これはどうせ親からだ。

 もうこちらは、人生に責任を持てる大人なのだから、正直放っておいてほしい。

 帰ったらとても怒られるだろう。

 でも門限を破るという、その背徳感ですら今は心地が良かった。

 

 ……一週間前の、シンポジウムが終わってから今日まで、それこそジェットコースターみたいに目まぐるしく、上田美代子の周りの景色が移り変わっていった。

 特に一度、心を許してから、体を預けてしまうまでになったのがあっという間だった。


 自分の人生のスピードって、こんなに早かったっけ? 今までが遅すぎたのだろうか? それとも、世の中には知らない所で、人生のスピードを操っている……『裏方さん』みたいなのがいて、その人がこっそり自分の人生のスピードを早めたりしているのだろうか。例えば黒い服を着て……。


 上田はそんなことを、神取の腕の中で考えていた。


 彼、神取篤は非常に知的で、「熱い」人だと上田は思う。

 東京の大学で教師をやっていて、少しだけズボラなのが心配だ。

 

 しかしこうして、休日に金沢まで会いにきてくれるのだ。マメな人なのであろう。

 連絡だって……絶対返してくれる。


 今は多分、どこかの誰かが開けた心の穴に、すっぽりと神取が収まった状態なのだ。

 幸せとはつまり、安心感のことなのかもしれないと、微睡の中で上田は感じていた。

 

 けれども何かが引っかかる。これでいいのだろうか?

 これは、本当に自分が選んだ人生ということでいいのだろうか?

 

 どうなんだろう? 上田は、ベッド傍のテーブルに置かれたパパーハを見ながら、自分に届けてくれた人の事を考えていた。


 パパーハは、色違いが今、ふたつ並んで置いてある。

 ついつい触ろうと、手が伸びてしまう。


「ん……」


 耳の後ろあたりから神取の声がする。


「あ! いけね!」

 

 裸のままの神取篤がベッドから飛び起きた。


「ごめん寝ちゃった! 門限! 大丈夫!?」


 何を突然そんなに慌てているのかと思えば、そんなことか。と、ついつい上田は笑いそうになってしまった。


「もう完全アウトですよ」


「……ごめーん……」


 心から申し訳なさそうな神取の顔から、おそらく本気で上田の事を思っているのを感じる。


「いいんです。……私だっていつも、親元でいい子してるわけじゃないんですから」


「そっか……」


 神取が、ベッドに腰掛けた。


「あ、そうだ。来週の休みとか、どこか行きたい所ある?」


「行きたい所……? 篤さん、そんなに時間が作れるんですか?」


「時間は作る。……まあ、ロシアから帰ってきてからが怒涛だったからさ。たまには若いもんに働かせて、大人は大人の楽しみを……ってことで」


 神取の手が伸びて、上田の細い髪を撫でる。

 手のひらから、神取の体温が伝わってきて、また微睡が上田に訪れてきた。


「行きたい所……ですか?」


「うん。もし君が良ければ……泊まりがけでさ。無理そうかい?」


「ううん。私も……たまにはのんびりしたいですから」


 行きたい場所。

 そういえばそんな場所があったような気がする。

 どこだっけ……? と上田が考えているうちに、神取の腹が鳴った。


「あ、ごめん。新幹線で何も食べてなくて……」


 神取の恥ずかしそうな顔に思わず微笑んでしまう。

 それで思い出した。


「中華料理……」


「ん?」


「中華料理が食べたいです。崎陽軒のシューマイ」





 * * * * *



 白い部屋、白い机の前で白い椅子に座り、白い紙を広げ……

 藤田が取り憑かれたように何かを書き込んでいる。


 ……あの少女、フェイスが言っていることが全部正しいのだとしたら? 


 彼女は何を言っていた?


 確か……自分達の任務の、行き着く先にあるものは、自分のよく見るあの夢……


 そう考えた瞬間から藤田が感じているものは、何にも形容し難い『寒さ』だった。


 何より、自分よりフェイスの方が状況が見えていることがショックだった。


 自分が今、必死になってやっていることが、大量殺戮だとしたら……?

 自分が、核に代わる碌でもない計画の、片棒を担いでいるのだとしたら……?


 もちろん、自分の身の丈はよく知っている。

 しかし、それでもあの規模のシンポジウムを開催させて、本来出会わないはずの男女のキューピットにもなってしまったのだ。

 

 バタフライ・エフェクトという言葉がある。北京で蝶が羽ばたいたら、その小さな気流がやがてアメリカに嵐を起こすという物だ。


 自分がやっていることは、まさにそれなんじゃなかろうか。


 黒スーツになってから自分がやってきた、一見、地味で意味もないことが……夢の中で見た事のような悪夢を作り上げていたのだとしたら……?


 藤田は紙に書いた。

 今まで自分が何をしたか、しでかしたか。紙に書かずには、恐ろしくてたまらなかった。


「何を今更慌てているの?」


 気がつけば、目の前にはフェイスが座っていた。

 

「ひどい顔」


 フェイスは言う。藤田が人間だったら、確かに今頃ひどい顔なのだろう。

 しかしこうなってからと言うもの、隈もできなければ髭すら生えない。

 それでもフェイスは酷い顔だと言う。


「……。次に俺は何をするんだろうと思って……それに対して、……どうすればいいんだろうって」


「だから言ったじゃない」


「わかるわけないじゃないか!! 本とか帽子を雑に届けることが、碌でもない未来に続いてるかもしれないなんて!!」


 藤田にしては珍しく、声を荒げてしまった。

 これは八つ当たりだ。自分に対する……。

 恥ずかしくなって藤田は、碌でもない妄想の続きを紙に書き綴った。


「思い出せ、集中しろ。俺がやったことはなんだ。……思い出せ。集中しろ……」


 藤田は震える手で文字を書き起こした。


「和知輝樹は……? 一週間前のシンポジウムを開かせるために与那国に行かせたんだな。

 ……上田さんと神取を引き合わせるためだ。そのために二人にパパーハを渡したんだな。

 神取をロシアに行かせたのも結局そう言うことだ。

 ……じゃあ、昆虫図鑑とか、高山植物の図鑑は!? なんで上田さんに渡した!? あれになんの意味があったんだ……

 考えろ、集中しろ、思い出せ……考えろ、考えろ……

 どうやったら、どうやったらあんなに大勢の人間を窒息死させられるんだよ!!」


 机を強く叩いて、置いてある紙の束を床に撒き散らした。

 八つ当たりだ。自分でもわかっていた。


「一人、忘れてますよ」


 フェイスが無表情のまま、藤田に囁いた。

 藤田は睨むように、目だけでフェイスを見る。


「横田基地の、アルフレッドマーカスを忘れてますよ」


「……そうだ。アルフレッドに『奥多摩』を植え付けた。

 奥多摩。奥多摩ってなんだ。……山……高山植物か!?

 やっぱり、木が重要なのか!? なあ!」


「私には……そこまでは分かりません。

 ただ、つい先日、上田とアルフレッドに同じものを渡しませんでしたか?」


「…… ……崎陽軒のシューマイ弁当」


「柳楽国昭が暮らしているのは?」


「……横浜……関内。

 横浜で何かあるんだな?!」


「さあ分かりません。ただ、上田、もしくは神取と上田、それからアルフレッド、それから柳楽国昭を、一ヶ所に集めたいんだろうな。とは、想像できませんか?」


「……なんのためだ……アルフレッドは空軍パイロット。柳楽は? ゴミ清掃員か。

 ……日本の科学者や教授と、空軍パイロット、それからゴミ清掃員を引き合わせて何になる……?

 上田さんの休日、次の土曜日に横浜に行けば、何かわかるってことか」


「……行くんですか?」


 フェイスの顔がまた、藤田の目を覗き込んだ。


「大丈夫なんですか? 上田と神取が、一緒にいるところを見ることになるかもしれないんですよ?」


 藤田は、何もなくなった机を見た。自分の顔が微かに映る。言われてみれば、酷い顔をしている。

 顔を上げて、藤田はフェイスに応えた。



「……俺は、自分が何をしているのか知りたい。それだけなんだ」


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